朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

イエスと同じ思いが、心に来て

2016-09-21 23:03:37 | 聖書から
私は弟の番人でしょうか。創世記4:9




 めいめい自分のことだけでなく、

他人のことにも注意を払いなさい。フィリピ書2:4




 使徒5:34~42

 エレミヤ書28:1~17

       (ローズンゲン日々の聖句9/22;木)




 カインは、弟アベルのささげ物が神に受け入れられ、自分の自信作のささげ物が受け入れられなかったので、怒り、弟アベルを野に誘い出し、アベルに打ちかかって殺したのだそうです。




 そして、神から「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と尋ねられると、

「知りません。私は弟の番人なのでしょうか」とつっぱねたのだそうです(創世記4:1~9)。




 イエスは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。




 人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、

実に十字架の死にまでも父である神に従われました(ピリピ2:6~8)。







 神と心を一つにするあり方を捨て、自分が神のひとりのようになり、善悪を判断する者になっているアダムの子孫である私たちは、このカインのようです。

自分の理性を神とし、その善悪の判断をそのまま、他に押しつけ、実行して行こうとする者。

他の人のことを顧みることをしない者です。




イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)私自身である「生まれたときからの私」という霊を処刑されたものとしていただき、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方によって「父である神」と呼ばれる方の私たちひとり一人に思っていてくださる御思いを心に置いていただくなら、私たちもイエスと同じ心になれ、励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わり、愛情とあわれみをがあり、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合せ、志を一つにし、何事も自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思うにしていただけるのだそうです。







 この約束のことばは確実なのだそうです。

エレミヤの預言に対抗して、自分の思いで、

「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。

わたしは、バビロンの王のくびきを打ち砕く。

2年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカデネザルがこの所から取って、バビロンに運んだ主の宮のすべての器をこの所に帰らせる。

 バビロンに行ったエホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの所に帰らせる」

と預言したアズルの子ハナヌヤ。




 これに対して、天の神、主はエレミヤを通して言われたのだそうです。

「ハナヌヤ。聞きなさい。

主はあなたを遣わされなかった。

あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。

それゆえ、主はこう仰せられる。

『見よ。わたしはあなたを地の表から追い出す。

ことし、あなたは死ぬ。

主への反逆をそそのかしたからだ』」と。

そして、預言者ハナヌヤはその年の第7の月に死んだのだそうです(エレミヤ28:1~17新改訳)。







 十字架刑で処刑され、アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に納められ、三日目、日曜日の早朝、復活されたイエス。




 40日の間、弟子たちに現れて神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを示されたのだそうです。




 そして、「エルサレムから離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。

ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを

受けるからです」と言い残して天の父の右の座に帰られたのですね(使徒1:3~11)。




 その10日後、五旬節(ペンテコステ、50日目の祭り)の日に、約束の「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださって、弟子たちは、この方が話させでくださるとおりに話すようになったのだそうです。




 それで、弟子たちが、エルサレムのど真ん中で、「あなたがたが50日前に、十字架に架けて殺したイエスは復活されました」と大胆に話し出したので、多くの人がイエスを受け入れ、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えすることになったのだそうです。(使徒2:1~42)。




 それで、イエスを十字架につけた側の人たちは、弟子たちを捕まえて殺そうとしたのです。

が、その時、すべての人に尊敬されている律法学者の、カマリエルと言う人が言ったのだそうです。

「イスラエルの皆さん。この人たちをどう扱うか、よく気をつけてください。

というのは、先ごろチュダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、

彼に従った男の数が400人ほどありましたが、

結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。




 その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしましました。




 そこで今、あの人たちから手を引き、放っておきなさい。

もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。

しかし、もし神から出たものならば、あなたがたは彼らを滅ぼすことはできないでしょう。

もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます」と。

それで、弟子たちをむち打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡して釈放したのだそうですが。弟子たちは、イエスの御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜び、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリスト(神の子・救い主)であることを宣べ伝え続けたのだそうです(使徒5:34~42)。





 そのときから2000年を経た今、このイエスによる素晴らしいニュースは世界中に伝わり、

聖書は、2009年現在、2479の言語に翻訳されているように。




 必ず実現する神の言葉、確実な約束の言葉、

「聖である霊」と呼ばれる方によって、私たちも、

イエスと同じ思いを心に置いていただけるのだそうですから。

今日も。

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