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朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

思いわずらいの一つひとつを、心にかけていて下さる方に知っていただきながら

2016-09-03 23:03:59 | 聖書から
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。 

 神が、あなたがたのことを心にかけていてくださる。Ⅰペテロ5:7

      (9/4の週の聖句)




 私たちの神は、救いの御業の神、

死から解き放つ主なる神。詩編68:21




 夕方になって日が沈むと、

人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、

イエスのもとに連れて来た。マルコ1:32




 マタイ6:25~34

 詩編127

       (ローズンゲン日々の聖句9/4;日)




 私たちが、天の神、主と呼ばれている方を認めなかったときは、

自分の責任は自分で取らなければならないと考え、

問題は自分で解決しなければならない、

頼りになるのは自分だけだと思っていました。

そして、自分の力に余る出来事に出合うと思い煩うことになっていたようです。




 けれども、私たち、どんなに思い煩ったからと言っても、

自分の頭の毛1本を抜け落ちないようにすることもできないし、

心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすこともできないのですね(マタイ10:30、6:27)。




 天の神、主、「わたしはあるという者」とおっしゃる方は、

私たち一人一人を心にかけていてくださり、

日々、私たちのために、重荷をになわれ、

死を免れさせてくださっている方なのだそうです。




 イエスも、人々が連れて来た、さまざまな病気にかかっている多くの人をいやし、多くの悪霊を追い出されたのだそうです(マルコ1:32~33)。




 種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に収めることもしない、空の鳥を養っておられる方、

働きもせず、紡ぎもしない野のゆり、

きょうあっても、明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、

これほどに装って下さる方は、

私たちに、食べるもの、着るものを用意していてくださり、

必要なときに、必要に応じて与えてくださるのだそうです。




 だから、何を食べようか、何を着ようかと心配するのはやめて、「神の御支配と、神の義とを、まず第一に求めていけば、それに加えて、生活に必要なものはすべて与えていただけるのだそうです(マタイ6:25~34)。







 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。

主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、

辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。

主は愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる

      (詩編127:1~2新改訳)。




 私たちのことを心にかけていてくださる方は、

思い煩いを自分一人で抱え込んでいないで、

その一つひとつを「わたしに話しなさい、知らせなさい」と言っておられるようですね。

心を一つにして、一緒に歩もうよと。

この新しい週も。


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広い、豊かな所に導き出して下さる方に

2016-09-03 07:14:53 | 聖書から
われらは火の中、水の中を通った。

  しかしあなたはわれらを広い所に導き出された。詩篇66:12口語訳)




 いつも目をさまして

祈りなさい。ルカ21:36




 Ⅱテサロニケ2:13~17

 エレミヤ書6:9~23

      (ローズンゲン日々の聖句9/3;土)




 天の神、主、「わたしはあるという者だ」と名乗られる方は、

私たちを、患難をとおして練られることがあるようですね。

銀を製錬するように。




 火の中、水の中を通るような困難な状況によって

私たちとの関係を深め、訓練される方のようです 。

そして、私たちを、広い、豊かな牧草地へ導いてくださる。




 私たち、この世で、うまく、調子よく、順調にいっていると、いつの間にか、天の神、主との関係が意識から遠のき、自分がやれているみたいに、自分で生きていけるかのように思ってしまうのですね。




 確かに、患難が自分の弱さ、足りなさを思い出させ、

造られたもの、土から取られたものであることを思い出させ、

私たちを神へ立ち返らせてくれることも多いようです。




 天の神、主から、

「わたしはだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。

見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。

見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。

彼らはそれを喜ばない」(エレミヤ6:10)と言われ、




 「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、

それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ」と言っても

「しかし、彼らは『そこを歩まない』と言った」(エレミヤ6:16~17)

と言われるばかりの私たちですが、




いつも、油断せずに、目をさまして、この方に自分の心の動きのすべてを申し上げ、私の全部を知っていただき、見ていただきながら、

そして「聖である霊」と呼ばれる方の導きを見つめながら、

この方が心に置いてくださる「父である神」の私に対する御思いを見つめながら、

進んで行けますように。




 「どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように」(Ⅱテサロニケ2:16~17)。




今日も。


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