goo blog サービス終了のお知らせ 

朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

受ける報いは、非常に大きい

2016-09-18 00:09:41 | 聖書から
世に打ち勝つ勝利、

  それは私たちの信仰です。Ⅰヨハネ5:4(9/18の週の聖句)




 主のことば:

恐れるな、アブラハムよ。

わたしはあなたの盾である。

あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。創世記15:1




 アブラハムは根気よく待って、

約束のものを得たのです。ヘブル書6:15




 マタイ15:21~28

 詩編129

      (ローズンゲン日々の聖句9/18;日) 




 今から2000年ほど前の、あの、ナザレ村出身のイエス。

この方が神の子と分かり、この方を受け入れ者。

その者は世に勝つのだそうです。




 4000年ほど前のこと、

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方がこのように言われたのだそうです。

アブラハムはそれを信じ、根気よく待ったのだそうです。10年も、おそらく20年も。




 そして、自分は100歳、妻サラは90歳になって、

子どもが生まれるはずもない状態になって、

なお、待ち続け、

ついに約束の子、イサクを与えられたのだそうです(創世記21:1~7)。







 イエスが、ツロとシドンの地方に立ちのかれたとき、

その地方のカナン人の女が出て来て、イエスに向かって叫び続けたのだそうです。

「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘がひどく悪霊につかれているのです」と。




 しかし、イエスは彼女にひと言もお答えにならなかったので、

弟子たちが、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と願うほどだったのだそうです。




 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の所には遣わされていません」と答えられ、取り合わなかったようですが、それでも、その女はイエスの前に来てひれ伏し、「主よ。私をお助けください」と願ったのだそうです。




 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです」と突っぱねたのだそうですが、

しかし、その女は、「主よ。そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と答え、食べかすのパンくずの恵みで私を助けてくださいとすがりついたのだそうです。




 そのとき、イエスは彼女に答えて言われたのだそうです。

「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」と。

すると、彼女の娘はその時から直ったのだそうです(マタイ15:21~28新改訳)。







 若いころからひどく苦しめる者がいたとしても、

踏みつけ、背中に鋤を当てて、長いあぜをつくるような仕打ちをする者がいたとしても、

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、正しく裁いてくださり、

悪者の綱を断ち切り、

その者を、伸びないうちに枯れる屋根の草のようにしてくださるのだそうです(詩篇129)。




 だから、この方に信頼し、この方に相談しながら、

この方と心を一つにしながら生活するのだそうです。

この方の勝利の中を。

この新しい週も。


イメージ 1








[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]









"哲学・思想 ブログランキングへ"









[269RANKのランキングサイト]











この希望は、失望に終わることがない

2016-09-17 08:20:44 | 聖書から
主を畏れる人よ、

  主に依り頼め。詩編115:11




 希望は私たちをあざむくことがありません。

私たちの心に与えられている聖霊によって、

神の愛が私たちの心に注がれているからです。ロマ書5:5




 ロマ書4:18~25

 エレミヤ書21:1~14

      (ローズンゲン日々の聖句9/17;土)




 あのイエスは、私たちの罪のために死に渡され、

これを受け取る者たちが義と認められるために、よみがえられたのだそうです。

この、イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる者は、

その信仰が義と認められるのだそうです。




 ちょうど、アブラハムが、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から、

「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。

あなたの子孫はこのようになる」と言われ、

これを信じて義と認められ(創世記15:5~6)、妻のサラはうまずめであり、さ

らに、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、

90歳のサラの胎が死んでいることを認めても、

彼は、神の約束を疑うようなことはせず、

反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、

神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じ、

その信仰が義と認められたように(ロマ4:18~25)。




 ですから、恵みによって信仰に導きいれられ、信仰によって義と認められた者は、イエスによって、神との平和を持ち、神の栄光を望んで大いに喜ぶのだそうです。




 そればかりではなく、患難さえも喜ぶのだそうです。

それは、患難が忍耐を生み出し、

忍耐が練られた品性を生み出し、

練られた品性が希望を生みだすのだそうですから。




 この希望は失望に終わることはないのだそうです。

なぜなら、受け入れる者に来てくださる聖である霊と呼ばれる方によって、

神の愛が受け取る者の心に注がれるのだそうですから。




 私たちがまだ弱かったとき、イエスは定められた時に、

不敬虔な者のために十字架刑を受け、死んでくださいました。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。

情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、

イエスが私たちのために死んでくださったことにより、

神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしてくださっているのだそうです(ロマ5:1~8)。




 この方に信頼して、踏み出してみればいいのだそうです。

今日も。


イメージ 1








[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]









"哲学・思想 ブログランキングへ"









[269RANKのランキングサイト]











妬むほどに愛して

2016-09-16 09:17:12 | 聖書から
彼らはわたしの民となり、

  わたしは真実と正義に基づいて、彼らの神となる。ゼカリヤ書8:8




 御子はその体である教会の頭です。

御子は初めの者、

死者の中から最初に生まれた方です。コロサイ書1:18




 黙示録2:8~11

 エレミヤ書20:7~18

      (ローズンゲン日々の聖句9/16;金)




 かつて、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、自分を捨て、他の神々を慕い、自分の子どもを焼いてささげることまでし、弱い者、貧しい者を踏みつけ、正しい裁判をしないで自分本位に歩む民、

何度呼びかけても、聞こうとせず、「私たちは自分の思う通りをしていく」と言い張る民を、

ついに、アッシリアを用い、バビロンを用いてご自分の民を打たれたのですが、

今、ゼカリヤを預言者として立て、言われるのですね。




 次のような万軍の主のことばがあった。

万軍の主はこう仰せられる。

「わたしは、シオン(エルサレム)をねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ。」




 主はこう仰せられる。

「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。

エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の聖なる山と呼ばれよう。」




 万軍の主はこう仰せられる。

「再び、エルサレムの広場には、老いた男、老いた女がすわり、

年寄りになって、みな手に杖を持とう。

町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう。」




 「見よ。わたしは、わたしの民を日の出る地と日の入る地から救い、

彼らを連れ帰り、エルサレムの中に住まわせる。

このとき、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義をもって彼らの神となる。」(ゼカリヤ8:1~8)と。







 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

イスラエルの国籍がなく、もろもろの約束とも関わりのない異邦人である私たちも、

同じ、ねたむほどの愛で愛していてくださり、

私たちの身代わりとして、

御子イエスを十字架刑で処刑することによって、

受け入れる者を処刑が終わったものと手続きしてくださって、

受け入れる者をご自分と和解させてくださるのだそうです。




 使徒パウロは記しています。

 神は、私たちを暗やみの圧政から救い出して、

愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

この御子のうちにあって、私たちは、贖(あがな)い、すなわち罪の赦しを得ています。




 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。

天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、

王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。

万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。




 また、御子はそのからだである教会(信じる者の群れ)のかしらです。

御子は始めであり、死者の中から最初に生まれた(復活した)方です。

 神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、

その十字架の血によって平和をつくり、

御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです(コロサイⅠ:13~20より、新改訳)







 けれども、私たち、この人生において、生まれて来なかった方がよかったと思うような目に遭うこともあります(エレミヤ20:7~18)。




 神は、使徒ヨハネを通して言っておられます。

「わたしは、あなたが、サタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。

見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

あなたがたは10日の間苦しみを受ける。

死に至るまで忠実でありなさい。

そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」(黙示録2:9~10)と。







 私たちも、置かれているそれぞれの場に出て行くなら、御子イエスをかしらとし、御子イエスのからだ、肢体、御子イエスの手として、足として、耳として、口として、御子イエスがしようと思われることをしていくよう、用いていただけるのだそうです。

金メダルではなく、「いのちの冠」をいただけるその時まで。

今日も。


イメージ 1








[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]









"哲学・思想 ブログランキングへ"









[269RANKのランキングサイト]














幸福にし、喜びにしようと

2016-09-15 08:31:01 | 聖書から

わたしは、彼らと永遠の契約を結び、

    彼らの子孫に恵みを与えてやまない。エレミヤ書32:40




 私たちは、

キリストの恵みによって義とされ、

希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。テトス書3:7




 フィリピ書1:19~26

 エレミヤ書19:1~13

        (ローズンゲン日々の聖句9/15;木)






 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

エレミヤを通して言われたのだそうです。






 「陶器師の器が砕かれると、二度と直すことができない。

そのように、わたしはこの民と、この町(エルサレム)を砕く。

それは、彼らがわたしを捨てて、この所(ベン・ヒノムの谷)で、彼らも彼らの先祖も、ユダの王たちも知らなかったほかの神々にいけにえをささげ、このところを罪のない者の血で満たし、パアルのために自分の子どもたちを全焼のいけにえとして火で焼くため、バアルの高きところ(祭壇)を築いたからである。

このようなことは、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかったことだ」(エレミヤ19:1~13より)と。






 そして、そう語ってもやめようとせず、自分の思う道を行く民を、ついに、バビロン軍を通して打とうとされるわけですけれど、そのとき、さらに、言われたのだそうです。






 「それゆえ、今、イスラエルの神、主、「わたしはあるという者」と言われる方は、あなたがたが、『剣とききんと疫病により、バビロン王の手に渡される』と言っているこの町について、こう仰せられる。



 『見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒をもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。



彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。

わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしから離れず、彼らを幸福にするため、彼らをとこしえの契約を結ぶ。

わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。

わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。』






 まことに、主はこう仰せられる。

『わたしがこの大きなわざわいをみな、この民にもたらしたように、わたしが彼らに語っている幸福もみな、わたしが彼らにもたらす。

 あなたがたが、『この地は荒れ果てて、人間も家畜もいなくなり、カルデヤ人に手に渡される』と言っているこの国で、再び畑が買われるようになる』(エレミヤ3236~43)と。









 私たち、イスラエルの国籍がなく、異邦人で、この神を知らず、約束とも縁のない者でした。



「愚かなものであり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中で生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。






 しかし、(イエスによって)私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、(義のわざの全くない者なのに)ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。



 神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。



 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、(神の国の)相続人となるため」(テトス3:3~7)だったのだそうです。






 これをいただいた者は、パウロが言うように、生きるに死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることを願い、私が生きることがキリストが生きることになるように、キリストと思いを一つにすることを願っていくのだそうです。



 そして、死ぬことも、また益。

この世で生きているよりもはるかにまさった出来事にあずかることになるのだそうですから(ピリピ1:20~23)。




 この願いと望みの中で、今置かれている場に、私を通してしようと思っていらっしゃる御思いの中に踏み出していくのですね。私たち。

今日も。


イメージ 1






[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]



"哲学・思想 ブログランキングへ"



[269RANKのランキングサイト]







祝福、幸せを届ける者として

2016-09-14 08:59:48 | 聖書から
主はまことの神である。
  生きた神であり、
    永遠の王である。エレミヤ書10:10口語訳)

 祝福に満ちた唯一の主権者、
王の王、主の主、
唯一の不死の存在、
近寄り難い光の中に住まわれる方、
だれ一人見たことがなく、見ることのできない方に、
誉れと永遠のがありますように。Ⅰテモテ6:15~16

 使徒9:36~42
 エレミヤ書18:1~12
      (ローズンゲン日々の聖句9/14;水)

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から、預言者エレミヤにあったみことばなのだそうです。
「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」
私が陶器師の家に下っていくと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。
陶器師は、粘土で製作中の器を自分の手でこわし、
再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。

 それから、私に次のような主のことばがあった。
「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。
――主の御告げ――
見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。
わたしが、一つの国、一つの王国について、引き裂き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、
もし、わたしが災いを予告したその民が悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていた災いを思い直す。

 わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、
もし、わたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行うなら、
わたしはそれを与えるといったしあわせを思い直す。

 さあ、今、ユダとエルサレムの住民に言え。
「主、「わたしはある」と名乗られる方はこう仰せられる。
見よ。わたしはあなたがたに対して災いを考え、あなたがたを攻める計画を立てている。
さあ、おのおの悪の道から立ち返り、あなたがたの行いとわざとを改めよ。」

 しかし、彼らは言う。
「だめだ。私たちは自分の計画に従い、
おのおの悪いかたくなな心のままに行うのだから」と。(エレミヤ18:1~12新改訳)


 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、「父である神」、「御子である神」、「聖である霊と呼ばれる神」が、それぞれ、全知であり、全能であり、永遠不変の方でありながら、「わたしは、わたし」と自己主張なさる方ではなく、愛し合い、互いを尊び合っておられて、自由意思で、自発的に、思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる方々なのだそうです。

 そして、その「われわれが一つになっているように、愛し合い、尊び合って、自由意思で、自発的に、われわれの一つに加わり、われわれの一つのさまを現すものを造ろう」とされて(創世記1:26)、
まず、私たち、人間の住まいとして、この天地宇宙を創造し、地球の自然環境を全部整えたうえで、
ひとりの人アダムを、そして、アダムのからだからエバを造り、
エデンの園に置いてくださったのだそうです(創世記1~2章)。

 二人は、創造主である天の神、主、「わたしはある」と言われる方と思いを一つにし、心を一つにするものとして何不自由なく過ごしていたのですが、
自分がもっと素晴らしい者になろうとし、
天の神、主との「一つ」になっている場を捨て、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとしたのだそうです(創世記3:5、22))。

 それで、人は、創造主である、天の神、主、「わたしはあるという者」名乗られる方に対抗し、
自分の理性を神とし、自分一人の理性の善悪の判断を実現しようとする者になって、
今日の私たちに至っているのだそうです。

 天の神、主から特別に選び分けられ、「律法」として神の御思いを示され、
「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」(出エジプト24:7)と応え、
神の民となる契約を結んでいるイスラエルの民においてさえも、
このように、「だめだ。私たちは自分の計画に従い、おのおの悪いかたくなな心のままに行うのだから」と応えるものであったのだそうです。


 この背きの罪の罰を、「御子」である神は、「父」である神のご計画に従い、自分から、天の栄光の座を後にし、「女の子孫」(創世記3:15)として、ダビデ王の家系である一人の貧しい処女マリヤのを選び、その胎を通して、人の世に、人として生まれられ、すべての人の身代わりとなり、十字架刑での処刑を受けてくださり、受け取る者の、「善悪を知る者」となっている「生まれた時からの霊」を処刑されたもの、死んだものとしてくださる道を開いてくださったのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって受け入れる者の心に、「父」である神が、私たち一人ひとりに思っておられる御思いを置いてくださって(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~32)、
受けれるものが「父」である神と同じ思いを思い、一つ心になって生きる、新しい生き方を始めてくださるのだそうです。


 ペテロが、「父」である神の御思いに従って、ヨッパの死んでしまっていたタビタを生き返らせて弟子たちに返してやったように(使徒9:36~42)、
受け入れる者は、天の神、主、「わたしはある」という者と名乗られる方が、私たち一人ひとりを通して、幸せにしようとして思われていることをしていく者にしていただけるのだそうです。
まことの神、生きた神、永遠の王である、この方の誉と永遠の支配を、今、置かれているそれぞれの場にもたらす者として。
今日も。
イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

"哲学・思想 ブログランキングへ"

[269RANKのランキングサイト]