私の霊がなえ果てているとき、
私がどのような道に行こうとするか、
あなたはご存知です。詩編142:4
慰めを豊かに下さる神がほめたたえられますように。
神はあらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さるので、
私たちも神からいただくこの慰めによって、
あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。Ⅱコリント1:3~4
ルカ7:1~10
エレミヤ26:1~19
(ローズンゲン日々の聖句9/21;水)
行こうとする先に、困難や、反対する者、迫害する者、わなを仕掛ける者があって、霊がなえ果て、衰え果てるときがあります。
エレミヤは、天の神、主、「わたしはある」という者だと名乗られる方から遣わされて、その方が語れと言われたとおりをエルサレムの民に語ったのだそうです。
「主はこう仰せられる。
主の宮に立ち、主の宮に礼拝に来るユダの町の者に、私があなたに語れと命じたことばを残らず語れ。
一言も省くな。
彼らがそれを聞いて、それぞれの悪の道から立ち返るかもしれない。
そうすれば、わたしは、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直そう。
だから彼らに言え。
『主はこう仰せられる。
もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、
あなたの前に置いたわたしの律法に歩まず、
わたしがあなたがたに早くからたびたび送っているわたしのしもべである預言者たちのことばに聞き従わないなら、
――あなたがたは聞かなかった――
わたしはこの宮をシロのようにし、この町を地の万国の呪いとする。』」と。
エレミヤがこのことばを主の宮で語っているのを聞いて、祭司と預言者とすべての民は、エレミヤを捕らえ、「あなたは必ず死ななければならない。なぜ、主の御名により、この宮がシロのようになり、この町もだれも住む者のいない廃墟となると言って預言したのか」とエレミヤを攻撃したのだそうです。
使徒パウロも、イエスを「神の子、キリスト。死から最初によみがえり、私たちを罪と死から救ってくださる方」と伝えることで多くの迫害を受け、いのちさえも危うくなり、死を覚悟するような目に遭う中で、このように、「神はあらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さる方」と経験していったのだそうです。
カペナウムでのこと、
ローマ軍の百人隊長は、自分のしもべが病気で死にかけていたので、ユダヤ人の長老たち、友人たちを送って、しもべを助けてくださるよう、イエスに願ったのだそうです。
「主よ。わざわざおいでくださいませんように。
あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。
ただ、おことばをいただかせてください。
そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士がいまして、
そのひとりに、『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。
また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします」と。
これを聞いて、イエスは驚かれ、
ついて来た群衆に、「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と言われ、
使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていたのだそうです(ルカ7:1~10)。
この百人隊長は、イエスを、
命じれば、死にかけていた病気さえもそのことばに従う権威をもっている方と認めていたのですね。
天の神、主「わたしはある」という者と言われる方は、百人隊長の願いを聞き入れ、しもべの病気を治してくださったように、困難の中にあって、敵対者によって霊がなえ果て、衰え果てている者を慰めて下さる方、私が行こうとする道をご存知の方なのだそうです。
「聖である霊」と呼ばれる方により心に来る、この方の御思いの中に出て行き、御業の現れを見、慰めをいただくのですね。私たち。
今日も。
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私がどのような道に行こうとするか、
あなたはご存知です。詩編142:4
慰めを豊かに下さる神がほめたたえられますように。
神はあらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さるので、
私たちも神からいただくこの慰めによって、
あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。Ⅱコリント1:3~4
ルカ7:1~10
エレミヤ26:1~19
(ローズンゲン日々の聖句9/21;水)
行こうとする先に、困難や、反対する者、迫害する者、わなを仕掛ける者があって、霊がなえ果て、衰え果てるときがあります。
エレミヤは、天の神、主、「わたしはある」という者だと名乗られる方から遣わされて、その方が語れと言われたとおりをエルサレムの民に語ったのだそうです。
「主はこう仰せられる。
主の宮に立ち、主の宮に礼拝に来るユダの町の者に、私があなたに語れと命じたことばを残らず語れ。
一言も省くな。
彼らがそれを聞いて、それぞれの悪の道から立ち返るかもしれない。
そうすれば、わたしは、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直そう。
だから彼らに言え。
『主はこう仰せられる。
もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、
あなたの前に置いたわたしの律法に歩まず、
わたしがあなたがたに早くからたびたび送っているわたしのしもべである預言者たちのことばに聞き従わないなら、
――あなたがたは聞かなかった――
わたしはこの宮をシロのようにし、この町を地の万国の呪いとする。』」と。
エレミヤがこのことばを主の宮で語っているのを聞いて、祭司と預言者とすべての民は、エレミヤを捕らえ、「あなたは必ず死ななければならない。なぜ、主の御名により、この宮がシロのようになり、この町もだれも住む者のいない廃墟となると言って預言したのか」とエレミヤを攻撃したのだそうです。
使徒パウロも、イエスを「神の子、キリスト。死から最初によみがえり、私たちを罪と死から救ってくださる方」と伝えることで多くの迫害を受け、いのちさえも危うくなり、死を覚悟するような目に遭う中で、このように、「神はあらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さる方」と経験していったのだそうです。
カペナウムでのこと、
ローマ軍の百人隊長は、自分のしもべが病気で死にかけていたので、ユダヤ人の長老たち、友人たちを送って、しもべを助けてくださるよう、イエスに願ったのだそうです。
「主よ。わざわざおいでくださいませんように。
あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。
ただ、おことばをいただかせてください。
そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士がいまして、
そのひとりに、『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。
また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします」と。
これを聞いて、イエスは驚かれ、
ついて来た群衆に、「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と言われ、
使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていたのだそうです(ルカ7:1~10)。
この百人隊長は、イエスを、
命じれば、死にかけていた病気さえもそのことばに従う権威をもっている方と認めていたのですね。
天の神、主「わたしはある」という者と言われる方は、百人隊長の願いを聞き入れ、しもべの病気を治してくださったように、困難の中にあって、敵対者によって霊がなえ果て、衰え果てている者を慰めて下さる方、私が行こうとする道をご存知の方なのだそうです。
「聖である霊」と呼ばれる方により心に来る、この方の御思いの中に出て行き、御業の現れを見、慰めをいただくのですね。私たち。
今日も。
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