朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

監督がいると、安心して、思いっきり、やれるのですね。

2016-05-16 07:44:02 | 聖書から
わたしは彼に答え、

   「彼こそわたしの民」と言い、

  彼は、

     「主こそ私の神」と答えるであろう。ゼカリヤ書13:9




 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、

今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ 

   戻って来たのです。Ⅰペテロ2:25




      (ローズンゲン日々の聖句5/16;月)




 キリストも、私たち、すべての人間のために苦しみを受けられました。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、

正しくさばかれる方にお任せになりました。




 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。

それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。

キリストの打ち傷のゆえに、いやされたのです(Ⅰペテロ21~25)。







 このイエスに対し、ペテロのように「あなたこそ生ける神の子、キリストです」(マタイ16:16)と告白し、「私の魂の牧者、監督者」としてお迎えし、「この方こそ私の神」と申し上げるのですね。




 この方は、「彼こそ私の民」と仰って下さるのだそうです。







 そして、このイエスが、受け入れる者に派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方は、「父である神」、「御子である神イエス」が、私たち一人一人を通してしようと思っておられることを、受け入れる者がしていくようにと、御思いのとおりに、ある人には「知恵のことば」、ほかの人には「知識のことば」、またある人には「信仰」、ある人には「いやし」の賜物、また、「奇跡を行う力」、「預言」、「霊を見分ける力」、「異言」、「異言を解き明かす力」として働いてくださり、それらの働き全体が一つとなって、一つのからだのように、「父である神」の御意志を実現していくのだそうです(Ⅰコリント12:4~11)。

その中に加わって欲しいのだそうですね。すべての人に。

その人でなければ埋まらない働きの場があるのだそうですから。

今日も。


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キリストの心が内にある者に

2016-05-15 17:14:42 | 聖書から
武力によらず、

 権力によらず、

  ただわが霊によって、

 と万軍の主は言われる。ゼカリヤ書4:6




 心を尽くして私はあなたを尋ね求めます。

あなたの戒めから、

迷い出ることのないようにしてください。詩編119:10




 食べ物ではなく、

恵みによって心が強められるのは

  よいことです。ヘブル13:9




      (ローズンゲン日々の聖句5/15;日聖霊降臨祭)






 バビロンの捕囚を解かれて、エルサレムに帰って来た人たちの神殿再建も、また、私たちが行うことを成し遂げることも、私たちの側の力によるのではなく、「神の霊」とか、「聖である霊」とか呼ばれる方の働きによると、天の神、主は言われるのですね。




 私たちの理性、その判断は、私たち、人間の創造者である天の神、主に対抗し、迷い出て行くもの、のようです。

あの、父親に反発し、家を出た放蕩息子のように(ルカ15:11~24)。




 天の神、天の父の戒め、父の思い、その父の言葉に聞いていくことが、さまよい出ない秘訣と言うことでしょうか。




 イエスが、私たちの罪を背負って十字架に架かって死んでくださり、三日目に墓より復活し、天の父である神の右の座に帰られて派遣してくださる、「神の霊」とか、「聖である霊」と呼ばれる方。




 その方が、受け入れる者に、「父である神」の御思い、その言葉を示し、思い起こさせ、分からせてくださるのだそうです(ヨハネ14:23~27)。




 この方は、受け入れる者に、「神の子」の身分を与え、「子」として、父である方の御思いによって生きる者とし、御国を受け継ぐ者ともしてくださるのだそうです。

「父である神」の御思いを、心に置いてくださり、キリストの心が内にある者にしてくださるのだそうですから(Ⅰコリント2:16)。

この新しい週も。

欲しがるのですね。私たち。隣の人のものも。

2016-05-14 08:13:25 | 聖書から
あなたの隣人の妻を欲してはならない。申命記5:21




 実に、神の御心は、

あなたがたが聖なる者となることです。

すなわち、みだらな行いは避けなさい。Ⅰテサロニケ4:3




        (ローズンゲン日々の聖句5/14;土)




 天の神、主は言われます。

「殺してはならない。

姦淫してはならない。

盗んではならない。

あなたの隣人に対し、偽証をしてはならない。

あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。

あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、

すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」(申命記5:17~21新改訳)と。




 天の神、主は、このような思いを忌み嫌われる方なのでしょうね。

だから、このような思いを持つ者が、神の国に入ることはないと言われる。

天の神、主は、私たちが聖くなって欲しいと思ってくださっているようです。

御自身と同じように。







 それで、使徒パウロを通しても言われるのですね。

「神の御心は、あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。

なぜなら、主はこれらすべてのことにおいて正しくさばかれるからです。

神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです」(Ⅰテサロニケ4:3~7)と。




 天の神、主は、私たち人間の、表面に現れた行動だけでなく、心の思いを重視される方。

私たちと、心の思いにおいて、一つでありたいと願っておられる方なのですね。




 私たち、人間は、天の神、主に、御自身と「一つになる者を」と願われて造られたものなのだそうです。

けれども、最初の人、アダムは、天の神、主との「一つ」の場にとどまることよりも、「神のひとりのようになり、善悪を知る者になろう」(創世記3:5、22)とし、「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう」(イザヤ14:13~14)とする者の性格を受け継ぐものになったのだそうです。

そして、その性格を、私たち人類は、ずっと受け継いでいるようです。

自分が、人よりも上にいないと気が済まなく、良いものは全部自分一人で独占したい、隣人のものも自分のものにしたい思いを。




 それで、私たち人間が、その「生まれたときからの霊」のままで、神の言葉を戒めと受け取り、これを自分の力で実行しようとしても、それは、表面を整えるだけで、心は元のままなのですね。




イエスは言われました。

「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです」(ルカ6:43~45)と。




 それで、私たち、人間が「生まれたときからの霊」のままで、神の戒めを守ろうとするのは、いばらの実を、一つ一つ摘み取って、そのあとにいちじくの実をセロテープで貼り付け、いばらがいちじくの木になったかのようなふりしているようなもの、なのですね。




 天の神、主は、私たち、人間が、ご自身と一つの思いを持つ者の場に帰るためには、人間の本体である「霊」を取り換えなければならないことを御存じなのですね。最初から。




 それで、永遠の初めから共におられ、この天地創造を共になさった御子である方を(創世記1章、ヨハネ1:1~3)、人間のそむきの罪を引き継いでいない「女の子孫」(創世記3:15)として、ダビデ王の家系である、ナザレ村の貧しい一処女、マリヤの胎を通して人間の世に派遣し、この方を人間の身代わりにして処刑することで、すべての人の「生まれたときからの霊」を処刑済み、死んでしまっているものと手続きしてくださっているのだそうです。

今から2000年ほど前、ナザレ出身のイエスが十字架刑で処刑されたことによって。




 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださり、この方によって、受け入れる者の心に、「父である神」の私たち一人一人に対する御思いを語ってくださり、話してくださり、置いてくださって、受け入れる者が「父である神」と同じ思いを持ち、一つ心になるようにしてくださるのだそうです(ヨハネ167~15)。




 それで、私たちが、自分自身である「生まれたときからの霊」は、イエスの十字架刑で処刑されたものとしていただき、新しい霊として、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、その方の働きを受け入れていくなら、「父である神」が厭うことを厭うようになり、「父である神」が願うことを願う者に、「父である神」がしようと思われることをしていく者にしていただけるのだそうです。

今日も。



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光の中に出て行けるのだそうです。赦しがあるから

2016-05-13 07:17:47 | 聖書から
赦しはあなたのもとにあり、

  人はあなたを畏れ敬うのです。詩編130:4




 神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、

互いに交わりを持ち、

御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。Ⅰヨハネ1:7




        (ローズンゲン日々の聖句5/13;金)




 詩篇130では謳っています。

「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。

主よ。私の声を聞いてください。

私の願いの声に耳を傾けてください。

主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、

主よ、だれが御前に立ちえましょう。

しかし、あなたが赦してくださるからこそ

あなたは人に畏れられます。」(詩篇1301~4新改訳)と。







 また、使徒ヨハネは書いています。

「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。

もし、私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。

 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:5~9より)と。







 それで、使徒パウロも書いているのですね。

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、

神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」(エペソ1:17)と。




「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、

神の召しによって与えられる望みがどのようなものなのか、

聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。




 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、

キリストを死者の中からよみがえらせ、

天上においてご自分の右の座に着かせて、

すべての支配、権威、権力、主権の上に、

また、今の世ばかりでなく、

次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。




 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、

教会にお与えになりました。




 教会はキリストのからだであり、

いっさいのものをいっさいのものによって満たす方のみちておられるところです」(エペソ1:18~23)と。







 神のほうでは、すでに、このようにしてくださっており、

心にかかる、思い当たる罪は、

「父である神」、「御子である神が人となられたイエス」、「聖である霊」と呼ばれる方の前に差し出し、見ていただき、受け取っていただき、光に照らされた出来事、光の中の出来事、明るみの出来事にしていただき、

「聖である霊」、「知恵と啓示の御霊」と呼ばれる方をお迎えして、御思いを心に置いていただき、交わりの中へ進んで行かせていただけるのだそうですね。

今日も。


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圧倒的な勝利者として

2016-05-11 23:47:47 | 聖書から
恐れてはならない。

  おののいてはならない。ヨシュア記8:1




 信仰の戦いを

立派に戦い抜きなさい。Ⅰテモテ6:12




        (ローズンゲン日々の聖句5/12;木)




 エジプトを脱出したのち、40年の荒野での生活を終え、いよいよ、ヨルダン川を越え、約束の地に入ろうとするイスラエル。

 

 エリコをのぞむモアブの草原で、天の神、主は、モーセに命じられたのだそうです。

父祖の家ごとに20歳以上で軍務に着くことができる者すべての人口調査をせよと。

その結果、20歳以上で軍務に着くことのできる者の数は、60万1千730人だったそうです(民数記26:1~51)。

20歳未満と軍務につくことのできない高齢の男子が、その同じ数くらいだとすると、合わせて男子120万人。女性が同じくらいだとすると、総勢240万人くらいのイスラエル人と加わって来た多くのイスラエル以外の人々(出エジプト12:38)が40年、荒野の旅をしていたということでしょうか。

 

 指導者モーセがモアブの地で死んだ後、神である主は、モーセの従者、ヌンの子ヨシュアをモーセの後継者として立て、民を率いてヨルダン川を渡らせ、立ちはだかるエリコを陥落させたのち、アイの町を目の前にして、ヨシュアに仰せられたのだそうです。

「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた」(ヨシュア8:1)と。




 使徒パウロも、晩年、年若い弟子のテモテに書き送ったのだそうです。

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。

私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることも出来ません。

衣食があれば、それで満足すべきです。

金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

金銭を愛することがあらゆる悪の根だからです。

ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心にもとめなさい。

信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠の命を獲得しなさい」(Ⅰテモテ6:6~12)と。




 イエスも言われました。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。

しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)と。







 少しも恐れていない者に「恐れてはならない」という必要はないのですね。

恐れているなら恐れているまま、おののいているならおののいているまま、不安なら不安なまま、ひざがカグガクしているなら、ガクガクしているまま、そのままで出て行けばいいのだそうです。

すでに世に勝っているイエスがともにいてくださるのですから(マタイ28:20)。

今日も。


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