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朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

赦し、清めて下さるのだそうですね。天の神、主が。

2015-03-20 23:19:50 | 聖書から
イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。
「私たちはあなたに罪を犯しました。
私たちの神を捨てました。」士師記10:10







自分の罪を公に言い表すなら、

神は真実で正しい方ですから、

罪を赦し、

あらゆる不義から私たちを清めてくださいます。Ⅰヨハネ1:9





      (ローズンゲン日々の聖句3/20;土)







 赦しを用意していて下さる方なのですね。天の神、主は。

 あの時も、平穏無事な時が続くと、イスラエルの人々は、主を捨て、

主に仕える代わりに、先住民族の神々に仕えるようになったのだそうです。




 それで天の神、主は、イスラエルに対して怒り、

彼らをペリシテ人とアモン人の手に渡されたので、

アモン人はヨルダン川の東側に住んでいたイスラエル人を18年間苦しめ、

さらに、ヨルダン川を渡って西側のイスラエルの地に攻め込んできたのですね。

それでイスラエルは非常な苦境に立ったのだそうです。





 そして、このように主に助けを求めて叫んだのだそうです。




 すると、主はイスラエル人に仰せられたのだそうです。
「わたしは、かつてエジプト人、エモリ人、アモン人、ペリシテ人から
あなたがたを救ったではないか。
シドン人、アマレク人、マオン人が、あなたがたをしいたげたが、
あなたがたがわたしに叫んだとき、
わたしはあなたがたを彼らの手から救った。




 しかし、あなたがたは私を捨てて、ほかの神々に仕えた。
だから、私はこれ以上あなたがたを救わない。
行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。
あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい。」と。




 すると、イスラエル人は主に言ったのだそうです。
「私たちは罪を犯しました。
あなたがよいと思われることを何でも私たちにしてください。
ただ、どうか、きょう、私たちを救い出してください。」





 そして、彼らが自分たちの内から外国の神々を取り去って、
主に仕えたので、
主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなったのだそうです。




 それで、遊女の子だったのでみんなから憎まれ、追い出されていた
エフタと言う人を選び、この人を立てて
イスラエルを救い出されたのだそうです(士師記10:6~11:33)。







 罪は、誰かが償わなければならないのですね。
天の神、主は、私たち人間の罪を赦すためには、
罪のない人がその罪を背負って処刑されなければならなかったのですね。

 それで、主は、永遠の初めから一緒におられ、

人間と、
その人間の住まいとしてこの自然界を共に造られた方、
御子と呼ばれる方を人間イエスとして人の世に送り、
この方を、人類の罪を一身に背負って処刑される
贖(あがな)いの小羊として、十字架刑で処刑されたのだそうです。




 それで、このことが完成している今は、
天の神、主の御前に罪を言い表していけば、
その罪は、すでに、イエスの十字架刑の処刑で処刑済みになっていることが分かるのだそうです。




 私たち、自分の罪や失敗、不都合なことは、神にも人にも隠して、
気付かれないうちに自分でつじつまを合わせて、
そんなことはなかったかのように涼しい顔をしていたい者ですが、
隠していくところにサタンの付け入る隙ができるのだそうですね。




 言い表して、全部、見ていただき、知っていただいて、
赦された、すがすがしい、晴れやかな歩みを
いただいていきたいものですね。
今日も。


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自らをなげうち、罪人として死ぬことが勝利だったのですね。あの方

2015-03-20 00:27:34 | 聖書から
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで、
罪人のひとりに数えられたからだ。イザヤ書53:12








もろもろの支配と権威の武装を解除し、
キリストの勝利の列に従えて、
公然とさらしものになさいました。コロサイ書2:15




          (ローズンゲン日々の聖句3/20;金)







 イザヤ書53章で預言されているように、
彼はいためつけられ、苦しんだのだそうです。
それでも、ひと言も弁明も抗弁もせず、
屠り場に引かれていく羊のように、
毛を切る者の前で黙っている雌羊のように
口を開かなかったのだそうです。
虐げと裁きによって彼が取り去られたとき、
だれも思わなかったのですね。
彼が、私たち人間のそむきの罪のために打たれ、
生ける者の地から断たれたのだということを。
彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったのに。




 まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになったのだそうです。

私たちは、思ったのですね。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎(とが)のために砕かれたのだそうです。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされたのですね。

私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行ったのですが、
天の神、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせらたのだそうです。




 彼が、女の子孫として(創世記3:15)、
天の神、主のみこころのとおりに、
自ら、すすんで、全人類の咎をになって、
十字架刑での処刑を受け切って下さったことが、
サタンの頭を踏み砕くことになり、
サタンに対して完全な勝利をおさめられることになったのだそうです。

 

それで、多くの人々を戦利品として勝ち取り、
サタンの支配から解放して、
ご自身の民とし、
神の家族として迎え入れて下さるのだそうです。

それで、私たちは、創造主、天の神、主を、
「アバ、父」と呼びかけ、

一つ一つのことを相談し、見ていただきながら進むのですね。
今日も。








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塵(肉体)はもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰るのだそうですから。

2015-03-18 23:44:13 | 聖書から
お前たちはなんとゆがんでいることか。
陶工が粘土と同じに見なされうるのか。

造られた者が、造った者に言いうるのか、
「彼が私を造ったのではない」と。


陶器が、陶工に言いうるのか、
「彼には分別がない」と。イザヤ書29:16





人よ、

神に口答えするとは、あなたは何者か。ロマ書9:20



            (ローズンゲン日々の聖句3/19;木)






 創り主と造られたものとの関係は、
ちょうど、陶工と粘土の関係のよう、ということのようですね。

粘土が、あるいは陶器が、
自分を造った陶工に向かってこんなふうに言うとしたら、
それはとってもおかしいことなのでしょうけれど、
私たち人間は、創り主に対して、こんなふうに言っているのでしょうね。
声高らかに。




 「神はいない」と心の中で言うのは
愚かなことなのだそうです(詩篇14:1)。




 若い日に、自分の創造者を覚え(伝道の書12:1)、
自分の悟りに頼らず、心を尽くして主により頼み、
行く所どこにおいても、創り主を認める(箴言3:5~6)ことこそ、
知恵のある在り方なのだそうです。




一人として、
気まぐれに、無駄に、無目的に造られた者はないのだそうですから。




私たちの一日一日の歩みにおいても、
一人一人に目的・ご計画をもっておられるのだそうですね。
今日も。












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御心を行う者にしていただけるのだそうです。この方によって。

2015-03-16 23:47:06 | 聖書から
主の道は正しい。
神に従う者はその道に歩み、
神に背く者はその道につまずく。ホセア書14:10

イエスの言葉;
わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、
天の国に入るわけではない。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。マタイ7:21

      (ローズンゲン日々の聖句3/17;火)

 私たちが御心を行うことが出来るのは
聖である霊と呼ばれる方によるようですね。
 天の神、主は、一人の人、アブラハムを選び、
この一人の人から、イスラエルの民族をつくり、
この民族に、モーセをとおして、
人間が生きて行ってほしい御心を文章にして示し、
自分の努力でこれを行うよう、契約を結ばれたのですが、
これを全うできた者は一人もいなかったのだそうです。
 それどころか、聞き従おうとせず、自分の思うままにしていったので、
ついには国を失い、世界中に離散することになったのだそうです。
 今は、御子である方が、人間イエスとして人間の世に来て下さり、
私たち人間が受けるはずであった一人一人の罪の刑罰のすべてを、
ご自身におって下さり、十字架刑で処刑されて下さって、
神から呪われた者として、
天と地の間にかかげられて下さったことにより、
私たちが了承しさえすれば、
このイエスの処刑を私の処刑と見なして下さって、
私たちは処罰済みの者として、
御前に立たせていただけるのだそうです。
「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」のだそうです(新共同訳;ヨエル書3:5、新改訳;2:28)。
 けれども、イエスは言われたのですね。
「主よ、主よ」と呼んでいる者の中にも、
天の国に入れる者と入れない者とがいると。
 私たち、自分の努力で御心を行うことが出来ないので、
イエスが身代わりに十字架刑で処刑されて下さって
私たちの救いが成った者なのですから、
もう一度、自分の力で御心を行いなさいと言うことではないのでしょうね。
 天の神、主は、もう一つの道を
旧約聖書の初めから啓示して下さっているのだそうですね。
その道は、御子イエスの十字架刑での処刑で始まり、
復活し、天に帰られ、御父の右の座に就かれたイエスが派遣して下さる、聖である霊と呼ばれる方が私たち人間一人一人の中に来て下さって、
この方が私たちの心を一新して下さることで完成する道なのだそうです。
 生まれた時からの私という霊から来る思いで生きて来た私たちが、
新しく来て下さった聖である霊と呼ばれる方から来る、
天の父の、私たち一人一人に関わる御思いで生きる者になるのだそうです。
 私たちは、自分の力によるなら絶望的ですが、
この、私たちのうちに働く、聖である霊と呼ばれる方の働きによって
天の父の御心を行う者にしていただけるのだそうですね。
今日も。


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私たちのところへ来て一緒に住んで下さるのだそうです。あの方。

2015-03-16 00:31:32 | 聖書から
わたしの声に聞き従え。
そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、
あなたたちはわたしの民となる。エレミヤ書7:23







イエスの言葉:...
わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。
わたしの父はその人を愛され、
父とわたしはその人のところに行き、
一緒に住む。ヨハネ14:23




            (ローズンゲン日々の聖句3/16;月)







 これを行えば、幸せになり、
生きることができるお言葉を与えて下さったのですね。
出エジプトの時、モーセを通して、天の神、主は。




「しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、
悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、
前進するどころか後退した。
あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から
(7~800年たった)今日まで、
わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、
毎日朝早くから、たびたび送ったが、彼らはわたしに聞かず、
耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。」(エレミヤ7:24~26)

と、天の神、主が嘆かれる結果だったのだそうです。







 人間の愛は、愛する相手を、情に絡めて、
自分の思ったとおりに支配しようとするものですが、
完全な愛とか、尊敬は、愛する相手の思っていることが実現することを
ひたすら願うもののようですね。




 あの本を、特にヨハネによる福音書などを読むと、
御父は、御子を、聖である霊と呼ばれる方を愛して、
御自分の思いの全部を知らせておられ、





御子である方、聖である霊と呼ばれる方は、御父を愛して、
その御父の御思いが実現することをひたすら願い、
それを御自身の生き甲斐、存在意義としておられるようです。




 御子イエスは、全知・全能の神でありながら、自分からは何ひとつしようとしないで、

御父を愛するゆえに、ただ、御父の御思いのとおりに行動しておられたようですね(ヨハネ8:28、12:50、14:10)。

それで、イエスは、はばかることなく、
「わたしと父とは一つです(ヨハネ10:30)」、
「わたしを見た者は、父を見たのです(ヨハネ14:9)」と、
大胆に言うことができたのですね。







 私たちにも、もし、この完全な愛が心に来れば、
御父の御思いが成ることが、
あるいは、私の願い、生き甲斐になるかもしれませんね。




 復活されたイエスが弟子たちに言われました。
「聖霊を受けなさい(ヨハネ20:22)。」




天に帰られる時にも言われたのですね。
「わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、聖霊のバブテスマを受けるからです(使徒1:4~5)」と。




 聖である霊と呼ばれる方が来て下さるなら、
この方の御父への、御子イエスへの愛の思いが私たちの心にも伝わり、
また、御父が私たち一人一人を通してしようと思っていらっしゃる御思いを、

私たち一人一人の心に書き記して下さって、
イエスがそうであったように、私たちも、
御父がしようと思っておられることをしていく者に
していただけるのかもしれませんね(エゼキエル36:27、ヨハネ14:12)。
この新しい1週間も。


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