ささかのブログ

雑多な思考整理のためにブログを活用中。
自分が生きやすくなればいいと思うけれど、教祖になるつもりはない。

コミュニティーとコミュニケーション

2016-03-14 21:50:32 | 日記
コミュニティー【community】

居住地域を同じくし、利害をともにする共同社会。町村・都市・地方など、生産・自治・風俗・習慣などで深い結びつきをもつ共同体。地域社会。

(出典:goo)

人が他の動物と違い優れているのは、言葉やあらゆる表現手法を用いて、他者と関わり合い、共同体を作って組織的に行動することによって、巨大なエネルギーを扱えるようになっているという点。
コミュニケーションによるコミュニティの構築であり、コミュニティを維持するためのコミュニケーションである。
どちらがなくなっても成立しない相互補完関係である。

逆に言えば、コミュニケーションのない人ほど弱い動物はいない。
快不快を訴えることもできず、要求を伝え、不可能を拒むこともできない。
衣服も食事もない、泣き叫ぶことのできない乳幼児は可哀想な話だが生きる可能性は少ない。

とはいえ人間社会はコミュニケーション不足と障がいで満ちている。

この文章も含めて、自らの意思をネット上の不確定多数の人間に公開することは、場合によっては大きな暴力であるかもしれないし、誰かを救うものかもしれない。後者であって欲しいが。

社会現象に対する評論、どちらかといえばバッシングや否定は、これもまた人の本能であると考えられる。

人は敵と味方をはっきりさせたいという本能がある。
味方であれば安心できるし、敵であれば防御や攻撃をする。

自分との違いをはっきりとさせて、これは敵、これは味方。あるいは、これは良い、悪いをはっきりさせると、防御態勢と休憩態勢をはっきりさせることができる。

ところが行き過ぎた他人との違いの比較は、結局のところ自分自身の存在そのものを否定することになる。
肌の色や民族や出身国。あるいは宗教や政治思想など、違いを明確にして行き過ぎれば、様々な闘い、衝突、戦争など、せっかくのコミュニティをぶち壊しにする。
意味がない。

引きこもりやニートなども、仮想の人格とコミュニケーションしている限り、少なくとも物理的には攻撃してこないはずなので、安心だから他者と関わらないという点で、非常に安心である。

そこにはまた経済的に自立した社会人としての義務的なものも存在するように見えるが、「カネ」という価値でさえ、人がコミュニケーションのひとつの手法として発明したものなので、コミュニティから完全に脱出してしまったら、カネの価値はない。
コミュニティがあってこそカネも意味をなす。

結局のところ、コミュニケーション次第でコミュニティに関わり続けることができる。


結局何が言いたいかというと、「敵」のように見えるものは、自分と違う異物を見出した際に見えるものであって、でもそれは単純にコミュニティに対するアンチテーゼだったり、革命なのかもしれないし、深層心理に眠るトラウマ体験を彷彿とさせるようなものであったりするのだが、否定すればするほど、自我を脅かす厄介者になる。

「そういうこともあるよねー」
と、放っておけばいいのに、まさに(自らの)墓穴を掘ってしまうという場面も多々ある。

これもそうかな?
コメント
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