落合順平 作品集

現代小説の部屋。

おちょぼ 第106話 パリでの一年間

2015-02-06 10:51:23 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第106話 パリでの一年間



 パリ滞在の一年で、似顔絵師のクロッキーは格段に進化した。
週2回。大学の階段教室で開かれる3時間のヌードデッサンが似顔絵師の
感性と線描の技術を、さらに高いレベルへ押し上げた。
目の前でポーズを取るサンドリーヌの、まぶしい裸体にも慣れてきた。


 ヌードデッサンからの帰り道。
「なんだかもう、他人みたいな気が、しないねぇ」と似顔絵師が肩を寄せると、
「単細胞。それとこれとは別問題です!」と、サンドリーヌの肘鉄が飛んでくる。



 サンドリーヌとの奇妙な共同生活は、いまだに続いている。
ただし。寝室に2つ置いてあったベッドは、ひとつが居間へ移された。
客人に敬意をはらうということで寝室に残ったベッドは、似顔絵師に譲られた。
それ以外はいっさい境界線を引かない、男女の気ままな共同生活だ。


 冬が少しづつ遠のいていくとパリに、日差しの長い季節が戻って来る。
暖かさが増すにつれて、サンドリーヌが大胆になる。
夏が近づき、暖かい日差しが長い時間降り注ぐようになると、サンドリーヌが
アパルトマンのテラスに、パラソル付きのデッキチェアを持ち出す。
自分でデザインしたTシャツを、ためらいもみせず、その場へ脱ぎ捨てる。
似顔絵師の視線なんかまったく気にせず、形の良い胸を白日の下にさらして、
気持ちよさそうに昼寝タイムに突入する。


 夏になると、パリの町からフランス人の姿が消えていく。
一ヶ月以上にわたるバカンス休暇を、一斉に取りはじめるからだ。
一週間前後の夏休みしか取れない日本のサラリーマンから見れば、
羨ましい限りの話だ。
フランスでは全ての労働者がバカンス休暇を取れるよう、法律が定められている。
今からさかのぼること80年前。
2週間の有給休暇を労働者に与える『バカンス法』が、時のブルーム内閣により
制定されたことが、バカンス休暇のはじまりだ
その後。1980年代に、すべての労働者に25日間の有給休暇を与える制度へ変化し、
この法律を守らない企業は罰則が科せられるようになった。



 だがパリが、まったくの無人の町に変ってしまう訳ではない。
旅行シーズンの到来とともに、フランス人の消えたパリの町へ世界中から、
入れ替わるようにして外国人たちが押し寄せてくる。
当然のことながら、似顔絵師がせっせと腕をふるうモンマルトルのカフェも、
連日にわたって満員御礼の日々が続くことになる。


 稼ぎ時を迎えたサンドリーヌに、手ぬかりはない。
ぎっしりと並んだ観光客たちに、手際よく整理券を配り始める。
この頃になるとクロッキーの上手い似顔絵師の噂は、モンマルトルの丘で
知らない人は皆無になる。
日本からはるばるやって来る観光客たちばかりでなく、東南アジアから来た
黄色系の観光客たちも、訪ねてくるようになる。
東南アジア系の観光客たちの似顔絵を、一手に引き受けてくれる場所として、
浮世絵が飾ってあるカフェは、一躍パリの市内で有名になる。



 涼しい風が吹き始める秋に入っても、客足は一向に衰えない。
いつのまにか定時の出勤が午前11時になり、テーブルに座った瞬間から
閉店間際の午後6時頃まで、せっせと似顔絵を描く羽目に陥った。


 こうして、週二回のヌードデッサン。
週に4日。午前中の早い時間から、8時間近くも観光客の似顔絵を描き、
たった1日の休暇を、サンドリーヌと2人でセーヌ川で過ごしているうちに、
約束の一年の終わりが近づいてきた。

 「同じ飛行機を予約する?。大作君」

 サンドリーヌは最近、似顔絵師を本名で呼ぶようになった。
友禅染めの勉強をするため、サンドリーヌが日本行きを決意した夜のことだ。
1月になったら格安航空券を買い、日本へ旅立つつもりだと打ち明けた。
帰国する気があるのなら、一緒の便にしましょうよと、サンドリーヌが
似顔絵師を誘う。


 「いや。気が変わった。
 ヨーロッパを南下して、アラブの国々をのぞいてから、
 シルクロードを東に向かって旅してみたい」


 「呆れた。
 好き好んで紛争地帯の真ん中を行くなんて、正気の沙汰とは思えません。
 まぁいいわ。大作が行きたいというなら止めません。
 あなたのおかげで予想以上の資金が溜まったので、2年くらいは日本に居ます。
 アラブで犠牲にならず、無事に日本へ着いたら電話を頂戴」


 「了解した。必ず君に電話をするよ。
 ということは、君と一緒に暮らせるのはあと3週間余りということになる。
 ずいぶんと世話になったなぁ、君には。
 何かお礼がしたいけど希望が有るのなら、遠慮しないで言ってくれ」



 「ひとつだけ、こころからのお願いが有るわ」

 「なんだよ。ひとつでいいのか?。欲がないねぇ、君も」


 「ベッドを元の位置に戻してほしいのよ。
 ひとりになったら、もとに戻すのは重労働過ぎるもの。
 大作が居るうちに元に戻して、残りの時間を2人で過ごしましょ。
 うふふ。ベッドを元の位置に戻すことに特に、深い意味などはありません。
 わたしたちはこれまでも、実に良好な友人関係を築いてきたでしょう。
 元の位置にベッドが戻っても、たぶんそれに変わりはありません。おそらくね・・・
 そのことは良く分かっているでしょ、あなたにも」


 うふふとサンドリーヌが、小悪魔のように鼻に小じわを寄せてほほ笑む。

第107話につづく

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