落合順平 作品集

現代小説の部屋。

おちょぼ 第117話 千と千尋の宿

2015-02-19 11:08:14 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第117話 千と千尋の宿




 積善館は新湯(あらゆ)川の対岸にそびえている、老舗旅館だ。
木造の本館前に、千と千尋の冒頭に登場する朱塗りの橋が架かっている。
積善館の創業は元禄7年。
ここには、趣の異なる3つの建物が有る。
湯治文化を今もそのまま伝えてている、木造の「本館」。
桃山様式のデザインと建築で、国の登録文化財に指定されている「山荘」。
四万温泉の中で最も高いところに建ち、老松の静寂に包まれている
「佳松亭」の3つだ。

 
 サラが赤い慶雲橋の手前で、歓声を上げた。
「うわ~、夢にまで見た千と千尋の、『油屋』、そのものどすなぁ!」
夢やおまへんやろなぁと、橋の手前で、ピョンピョンと無邪気に飛び跳ねる。
「夢やおまへん。現実どす」浮かれすぎていると、置いていきますよと
佳つ乃(かつの)が、赤い橋を渡っていく。


 車で渡るのは野暮すぎますと、2人は、橋の手前でワンボックスから
降りて、わざわざ徒歩で橋を渡り始めた。
雪の中に浮かびあがる積善館の赤い橋は、指先でひとつひとつ感触を確かめながら、
ゆっくり歩いて渡りたいという衝動を、何故かかきたててくる。
似顔絵師も橋の手前で、ワンボックスから降りた。



 橋の中央で、佳つ乃(かつの)が振り返る。
ピョンピョンとウサギのように橋の上で跳ねていたサラが、立ち止まった佳つ乃(かつの)の
背中へ追いつく。
くるりと腕を回したサラが、佳つ乃(かつの)の背中でV字のサインを作る。


 「兄さん。美女2人の、願ってもないシャッターチャンスどす。
 はよ撮ってな。他のカメラマンさんたちがうじゃうじゃと集まってこないうちに!」

 
 積善館に架かる赤い橋は、四万温泉でも屈指の撮影ポイントだ。
滅多に見ることができない雪景色の中という、願ってもないシャッターチャンスだ。
橋の周囲には、それなりに素人のカメラマンたちが集まっている。
あわててスマホを取り出した似顔絵師が、美女2人の笑顔を2枚、3枚と
立て続けにシャッターを押す。


 「ほな、次は兄さんの番どす。
 ウチがシャッターを押しますさかい、せいいっぱい寄り添っておくれやす!」



 雪の冷たさのために、頬を真っ赤にして駆け戻って来たサラが、
似顔絵師の手から乱暴にスマホを奪い取る。
急きたてられた似顔絵師が、少し離れて佳つ乃(かつの)の隣に立つ。
2人で並んで写真を撮るのは、はじめてのことだ。

 「何してんの2人とも。
 いまさら他人同士やあるまいし、よそよそしいのにもほどがあります。
 もっとひっいてんか、べたべたと」


 絵になりませんなぁ2人とも、とぼやくサラの背後で
「まったくもって、その通りだ」と、どこかで聞いた覚えのある男の声が響いてくる。
あわてて振り返るサラの背後に、美人を連れたおおきに財団の理事長が
憮然とした顔で立っている。


 「何をしとんのや、お前たちは。
 来るそうそう橋の上で大騒ぎをするとは、まことにもって情けないやつらじゃのう。
 おっ、紹介しておこう。
 こちらの美人は、水上温泉で芸者修行をしておる駒子ちゃんだ。
 そこでスマホを構えてさっきからはしゃいでおるのは、わしの孫娘でサラ。
 で向こうの美人は、祇園の売れっ子芸妓、佳つ乃(かつの)だ。
 隣にぼうっと立っておる男はどこぞの馬の骨だから、紹介するまでもなかろう。
 あはは。怒るな、冗談に決まっておる。
 路上似顔絵師で、佳つ乃(かつの)のハートを、つい最近射止めたという
 実に幸運な男じゃ。
 なんだ。呼んでもいないのに、なんで此処に居るんじゃ、お前は?」


 「失礼どすなぁ、お祖父ちゃんは。
 ここまで朝早くから車で送ってくれたというのに、文句が先とは心外どす。
 お祖父ちゃんのほうが、よっぽども失礼にあたります」


 「そう言えばお前さんの実家は、上州と言っておったなぁ・・・
 いや、こちらこそ失礼した。
 で、予定は有るのか、お前さんは。
 せっかく来たんだ、佳つ乃(かつの)と一緒に泊まっていけ。
 駒子、お前。フロントへ行って、もうひと部屋が空いているかと、
 たずねてきてくれ」


 ハイと答えた駒子が、トントンと下駄を鳴らして赤い橋を渡っていく。




第118話につづく

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おちょぼ 第116話 四万街道

2015-02-18 12:38:35 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第116話 四万街道



 中之条から山道を走りはじめて、20分余り。
四万温泉まであと半分という地点で、鉛色の空からパラパラと水滴が落ちてきた。
進むにつれて、雪の結晶を含んだ白っぽい雨に変化してきた。
県の天然記念物に指定されている四万の甌穴(おうけつ)群を過ぎたあたりから
ついに、本格的な細かい雪に変って来た。


 「京都駅のあたりで、ハラハラと風花(かざはな)などが舞うときは、
 洛北あたりで雪が舞い積もります。
 今出川通りを境に、急に景色が変わりますなぁ。
 北大路通りを境に、雪景色になることもたびたびあります。
 けど。ここは、雨から雪に変っていくのが実に早いどすなぁ。
 あっという間に道が白くなってきました。
 大作はん、大丈夫どすか。雪道で車が、滑ったりしまへんか・・・」



 後部座席から佳つ乃(かつの)が身体を乗り出す。
不安そうな目が、前方の雪道を見つめる。
白い路面以上に周囲の畑が、早くも厚みのある白一色の雪景色に変ってきた。
『ようこそ四万温泉へ』の看板が見えてきた頃には、雪はさらに激しさを増してきた。
はっきりと分かる、大粒の雪に変ってきている。


 「冬タイヤに履き替えているから、滑る心配はありません。
 今年の2月に想定外の大雪が降り、おおくの農家でハウスが潰れるという被害が出ました。
 そんなこともあり、今年の冬は、どこの家庭でも早くから雪の準備をしています」


 「ありましたなぁ。大きな被害を生んだという、そないな出来事が。
 雪は見ていて綺麗なものどすが、白さの奥に凶暴な本性を隠しているんどすなぁ。
 30を過ぎた女も、秘密が多いことで一緒どす。
 綺麗で美しいなどと、のんびり雪景色などに見とれている場合では、
 ありまへんなぁ・・・うふふ」


 四万温泉の案内標識の先で、道路がY字路になる。
国道を右に外れて、温泉街のある四万街道へ車が入っていく。
温泉街は手前から温泉口、山口、桐の木平、新湯(あらゆ)、ゆずりは、
日向見(ひなたみ)地区と集落が続いていく。
最奥にある日向見地区は、四万温泉発祥の地として知られている。
かつては日向見温泉と、呼ばれたこともあるくらいだ。
四万温泉の硫酸塩泉が四万の病に効くという効能から、今日の四万の名前が付いた。


 月見橋を渡り、ひなびた雰囲気が漂う桐の木平の商店街を抜ける。
さらに川に沿って進んでいくと、旅館の姿がポツポツと見える新湯地区へ突入する。
四万ダムから流れ出して来る清流の四万川と、新湯川が合流するあたりが、
四万温泉の中心部にあたる。
「たしか、このこあたりに」と、似顔絵師が町営の駐車場を探す。
駐車場は見当たらないが前方の土産物屋の脇に、車を停めるスペースが見える。



 「積善館はもう、目と鼻の先です。
 お腹が空いたでしょう。群馬名物のお昼ご飯を御馳走します」


 車を停めた似顔絵師が民家を改造したような風体の、古びた食堂を指さす。
暖簾は揺れているが、営業しているのかと思えるほど静かすぎるたたずまいだ。
昼時が近いというのに、温泉街を歩く人の姿もほとんど見当たらない。


 「人っ子ひとり歩いていないなんて、随分と静かな温泉街どすなぁ。
 屈指の名湯のひとつだと聞いてはるばる京都からやって来たのに、
 こんなもんどすかぁ、群馬の温泉地というもんは・・・」



 ピョンと助手席から飛び降りたサラが、開口一番、いきなりの不満を口にする。
「ここは観光客目当ての温泉ではおへん。長逗留の湯治が中心の温泉どす。
ふらふらと昼間から温泉街を散策するのは、あんたのようなミーハーだけどす」
あまり羽目をはずさないでねと、後部座席から降りてきた佳つ乃(かつの)が、
サラに向かってクギを刺す。


 暖簾をくぐりガラス戸を開けると、内部はうっそうとした湯気に満ちている。
「おっきりこみを3つ」と似顔絵師が、湯気の向こうへ声をかける。
「へい」と立ち上る湯気の向こうから、緊張感のない呑気な返事が返って来る。
「おっきりこみ?。なんどすか、それっ」
初めて聞くメニューの名前にサラが目を真ん丸にして、喰いついてくる。


 「群馬のうどん屋さんで、寒くなると注文が増えるのが、おっきりこみだ。
 山梨の「ほうとう」に似た煮込みうどんのことで、群馬の郷土料理のひとつだよ。
 大根、にんじん、里芋、ごぼうなどを煮た鍋に、今が旬のネギと
 油揚げを加え、太い麺を入れる。
 みそ味と醤油味が有るけど、あとは、食べてみてからのお楽しみだ。
 満腹になったらお待ちかねの積善館へ行こう。
 歩いてもここからなら、たぶん、5分くらいで行けるからね」



第117話につづく

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おちょぼ 第115話 四万温泉・積善館へ

2015-02-17 11:38:37 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
第110話につづく

おちょぼ 第115話 四万温泉・積善館へ



 「千と千尋に出てくる、千尋とハクに会えるかもしれませんねぇ!」


 助手席に座ったサラが、四万の積善館と聞いて大はしゃぎをしている。
積善館はスタジオジブリのヒット作、『千と千尋の神隠し』のモデルになった
と言われている四万温泉の老舗旅館だ。
『千と千尋の神隠し』は、2001年7月に公開されたアニメ映画だ。
夏休み用に公開された映画にもかかわらず、翌年の春休みまで上映が続くという
異例のロングランを記録した。


 サラはこの映画を、中国語に翻訳されたDVDで見たという。
『大きい画面で見たいのに、なかなか機会に恵まれません』と本気で嘆く。
「そうよねぇ、もう10年以上も前に公開された作品だもの。
なかなか再上映はありませんねぇ、たしかにねぇ・・・」
車窓に目をやりながら、後部座席で佳つ乃(かつの)がポツリとつぶやく。



 「それにしても、来るなら来るで一報を入れてくれ。
 心臓が止まるかと思ったぜ。ワンボックスの中に、2人の顔を見つけた瞬間は」


 「嘘ばっかり言いはりますなぁ兄さんも・・・白々しいどす!。
 ウチはどうせ、お邪魔虫のよけい者どす。
 兄さんが会いたいのは、佳つ乃(かつの)姉さんだけで、ウチはただの邪魔もんどす。
 けどな兄さん。車の中で安全な席といえば、運転席の後ろどすえ。
 大事なお方は後部座席に乗せて助手席には、どうでもええ人を乗せるもんどす。
 それが当節の、乗車マナーと言うもんどっしゃろ」


 「たしかに後部座席なら安心だ。サラちゃんの言い分は筋が通っている。
 そうじゃないよ。俺が言いたいのは群馬へ来るなら来るで、ひとことでいいから
 連絡を入れてくれと言ってるんだ。
 実家に戻っているんだ、俺は。立場があるし、都合というものも有る」


 「ふふふ。その割には嬉しそうな顔してますなぁ、兄さんは。
 突然のほうが喜ぶだろうと、美容室の陽子姉さんも申しておりました。
 そういえば、今朝お会いしたお母はんも素敵な方どすなぁ」

 「サラちゃん、少しおしゃべりが過ぎます。
 運転に集中させてあげないと、山道で、大作はんが可哀想どす」



 後部座席から佳つ乃(かつの)が、助け舟を出す。
榛名の山道にさしかかったワンボックスは、右に左へ忙しく道路が曲がっていく。
上越への起点に当たる渋川市から、群馬県北端にある四万温泉へ行くためのルートは
国道353号を直進するのが一般的だ。


 353号線は、群馬県桐生市を起点に、新潟県柏崎市を終点とする一般国道だ。
桐生市広沢町にある国道50号との交差点を起点に、赤城山の南斜面を通過してから
中之条町の四万温泉を通り、群馬と新潟の県境を越えていく。
吾妻川に沿って吾妻の谷あいを走る353号線は、中之条町の手前で、
もうひとつの観光道路・国道145号線と合流をする。
国道145号線の先には、ダムの完成が待たれる八ッ場や、草津温泉への道が有る。
行楽客が集中する春や秋の行楽シーズンには、必ずと言っていいほど
両方の国道の随所で、激しい渋滞が連続的に発生をする。


 吾妻川を挟み、国道353号線に並走する形で榛名山の北山麓を抜けていく
もう一つの道、県道35号線が有る。
通称「日影道(ひかげみち)」と呼ばれ、地元の人たちが使う生活道路がある。
少々狭いが、中之条までの抜け道として利用されている。
北の山麓を走り抜けていくため、太陽が傾く冬場になると道路に直接、
陽が射さなくなることから、日影道路の別称がついた。



 大作は渋川の市街から本来の国道ではなく、通過する車の少ない日影道を選択する。
北向きの狭い道を20キロほど走っていくと、前方に中之条の市街地が見えてくる。
市街地に入る直前を、谷底の吾妻川に向って下降する。
架け替えられたばかりの竜ヶ鼻橋を渡ると、吾妻川を挟んで並走をしてきた
国道353号線と合流をする。


 道路はここから、四万温泉に向かう、ゆるやかな登り道に変る。
先ほど見えた中之条の市街地は、あっけなく車窓の向こう側へ消えていく。
小さな畑と農家が点在する景色の中を、353号線がゆるゆると高度をあげていく。
此処まで登ってくると、もう周囲に見えるのは、四方を取り囲む枯れた山並みだけになる。


 「兄さん。この道は、新潟まで行けると標識に書いてありましたが本当どすか。
 うねうねと登った挙句、最後は、山にドンと突き当りそうどす。
 ホントに行けるんどすか、雪の深い越後まで?。
 あら・・・なんでっしゃろ・・・
 道路に、滑り止めのようなギザギザの模様が見えてきました・・・」

 
 「いまは越後までは行けないよ。
 県境の峠の途中で、冬の間だけ、交通止めの処置がとられるからね。
 それに、道路に見える凹凸は、滑り止めじゃないよ。
 千と千尋のメロディラインだ。
 時速40キロで走行すると、主題歌の『いつも何度でも』が聞こえてくる。
 ほら始まったぞ!。♪~呼んでいる 胸の何処か奥で~♪
 いいねぇ、千と千尋の夢物語がこれから、はじまるぞ。
 快適な道と快適なドライブ。
 なんだか最高の年の瀬になるような、そんな気分になって来たぞ~」


 「ウチより千と千尋のメロディで喜ぶなんて、兄さんこそ餓鬼みたいやなぁ。
 佳つ乃(かつの)姉さんも、山ばかり見て笑ってなんかいないで、
 浮き上がっている兄さんに、何か言ってくださいな!。
 あっ、グダグダと文句言っとる間に、メロディラインが終ってしもうたわぁ・・・・
 なんや。ウチが一番損したみたいどす、アホらしい!」



第116話につづく

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おちょぼ 第114話 四万温泉へ

2015-02-15 12:45:29 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
第110話につづく

おちょぼ 第114話 四万温泉へ




 「父さん。大作を借りるわよ。そのかわり、今日は私が手伝います」


 突然姿を見せた陽子に、父の徳治が驚きの表情を見せる。
時刻はまだ、朝の7時を過ぎたばかりだ。
手が荒れるという理由で美容師の陽子は、採れたての野菜に触れたがらない。
野菜の水分に含まれている大量の灰汁が、指先を黒く荒らすからだ。
いったいどういう風の吹き回しだと、徳治が目を丸くして陽子を見つめる。


 「あっ、お母さん。あたしったら、車の中に忘れ物をしてきちゃった。
 悪いけど、取ってきてくれるかしら?
 今日に限って、街道の入り口のほうに停めてあるんだけど」



 ああ、いいよと、ためらいも見せず母の育代が立ち上がる。
車の中に佳つ乃(かつの)とサラが乗っていることを知らない母は、頭から
姉さん被りを外しパタパタとズボンの埃を叩きながら、街道を
ゆっくりと歩いて行く。


 「大作も、部屋に戻って着替えてきて。
 行く先は、四万温泉よ。
 大事な友人だから、くれぐれも粗相のないように送って頂戴な」



 「四万温泉?・・・ずいぶん辺鄙な場所だなぁ。
 吾妻(あがつま)の山奥に有る、湯治専門のひなびた温泉じゃねえか。
 群馬といえば、定番は草津か伊香保、水上温泉あたりだろう。
 わざわざ鄙びた温泉地を指名するとは、変った客だ。
 それよりも姉ちゃん。朝採りの野菜なんかに素手で触ったら、
 自慢の白い指が野菜の灰汁(あく)で、真っ黒けに荒れちまうぜ。」


 「馬鹿。私の指先よりも、もっと大切なものも有るのよ、この世には。
 いいから 行けば分かります。さっさと支度して来てちょうだい。
 いつまでも待たせると、待っているお客さまに失礼です」


 陽子に促されて、渋々と似顔絵師が立ち上がる。
「いきなり来て、四万温泉までお客さんを送れと言うのは意味が分からねぇ・・・
なにが有るっていうんだ、吾妻(あがつま)の鄙びた四万温泉に?」
「いいから、行けばわかることです。あとできっと、あんたはわたしに
心の底から感謝することになるでしょう。
うふふ。そういうわけですから、早く支度をしてきてちょうだいな」
チェッ、いつだって強引なんだから姉ちゃんは、とぶつぶつ言いながら、
似顔絵師が、作業場から立ち去っていく。


 「なんだか朝から、ずいぶん機嫌が良さそうだな、今日のお前は。
 どうした。夕べ、何かいいことでも有ったのか?」


 「うん。最高の一夜を過ごしたわ。
 私だけじゃありません。父さんにもきっといいことが、そのうち起こります。
 でもね、今はそれ以上のことは言えないわ。
 毎年のことだけど、今年も多いわねぇ、親戚へ送る野菜の数が」



 「そういうな。一年にたった一度だけ、俺が本家の役目を果たすんだ。
 今年も一年。無事に終わりましたと言う気持ちを込めて、親戚中に野菜を送る。
 こうして野菜を送り出すと俺の長い一年が、ようやく終わることになる」

 「うふふ。良く言うわ。
 例年なら、野菜を送り出したあと、さっさと鉄砲を担いで山へ飛んでいくのに、
 今年は行けないなんて残念ですねぇ。
 でも仕方がないですねぇ、病み上がりの療養中の身体では」


 「大作も戻って来たし、今年は久しぶりに炬燵で水入らずの正月を過ごすさ。
 お前も来るんだろう、孫の真理を連れて」


 「どうしょうかな・・・
 いまさら実家へ戻ってきて、家族と3が日を過ごすのも芸がないけどなぁ。
 かといって、私を誘ってくれる男も結局、今年も出来なかったし・・・」


 「なんだ、出来なかったのか、あたらしい男は?。
 ということは、車に乗っている友達と言うのは、男じゃなくて女の友達なのか?、」



 「うふふ。それ以上は、ノーコメントです!」今は白状できませんと陽子が立ち上がる。
とりあえずお客様を見送って来ますと、陽子が作業場を後にしていく。


 「可笑しいなぁ・・・俺に何かを隠しているだろう、お前たちは。
 女どもときたら何を考えているんだか、油断が出来んからなぁ。
 まったくもって秘密が多すぎる。
 今度は何だ。何を隠しているんだ、この俺に」


 「良い感していますねぇ、お父さん。そうよ。
 女は、とかく秘密が多いのよ。
 でもね。悪いことばかりじゃありません、たまには良い秘密も有ります。
 今は明かせませんが、明日か明後日か、そう遠くない先にたぶん、
 きっと良いことが起こると思います、お父さんにも」

 ホントか、と渋い顔を見せて、父の徳治がふたたび野菜の選別作業に戻っていく。


 

第115話につづく

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おちょぼ 第113話 12月30日

2015-02-14 10:45:29 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
第110話につづく
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おちょぼ 第113話 12月30日



 朝の5時。父の徳治が、いつものように自分の部屋で目を覚ます。
身支度を整えると、いつものようにトントンと階段を踏んで居間へ降りていく。
気配を感じた母の育代が、驚いたように台所から振り返る。


 「もう起きてきたの、父さんたら。
 退院してきたばかりだもの、無理して起きてこなくても大丈夫です。
 親戚へ送る野菜の準備なら、私たちだけでも十分です
 大作はもう、畑へ行きました。
 無理をするなとお医者さんに、何度も念を押されたでしょう」

 
 「忠告は有りがたいが、俺はもう病人じゃねぇ。
 それに暮れの野菜と餅つきは、俺が決めた年中行事のひとつだ。
 親戚中に野菜を送ってやらないと、俺の正月がやって来る気がしねぇからな」

 
 「はいはい、よく分かりました。強情なんだから、もう。
 暖かくして出かけてくださいね。もう、若くなんかないのですから」



 手を止めた母の育代が、野良着の上に羽織る分厚いジャンバーを取り出してくる。


 「おっ、新品のジャンバーじゃねぇか。どうしたんだ、これ・・・・」


 「言ってもきかないだろうと思って、上に羽織るための分厚いものを用意しました。
 うふふ。大作とお揃いです。
 来るんですかねぇ、あなたと大作が並んで、農作業なんかをする日が・・・」



 「馬鹿やろう。俺の仕事は継がなくてもいいと、大作にははっきりと伝えてある。
 妙な期待をするんじゃねぇ。百姓じゃ苦労するのは目に見えている。
 そのくらいのことは、おめえだって充分に承知しているだろう。
 なんだか妙に暖ったけぇなぁ、これ。じゃ、ちょっくら様子を見てくる」
 


 12月終盤にはいった群馬の朝は、氷点下まで冷え込む。
表の畑には、霜が一面に降りている。
まるで雪が降ったかのように真っ白になり、野菜の葉の上には氷の結晶が光っている。
白い息を吐きながら露地道を歩くと、5分ほどで畑に着く。
徳治はビニールハウスの出荷用野菜とは別に、露地で自家用の野菜を育てている。
おおくの農家が露地に数種類の種をまき、無農薬で自家用の野菜を育てる。

 
 白い息を吐きながら黙々と、野菜を収穫している大作の背中が見えてきた。
横に並べたコンテナには、大根、白菜、ホウレンソウ、水菜、里いもなど、
この時期に旬を迎えた冬野菜が、すでにぎっしりと詰め込まれている。



 (へぇぇ・・・教えたつもりはないのに、分かっていやがんな、こいつは。
 毎年、12月30日に俺が、親戚へ野菜と餅を送ることを、まだ覚えていたのか)



 このくらい有れば充分だろうと、徳治がコンテナを持ち上げる。
「あっ」と振り返る似顔絵師を尻目に、コンテナを軽トラックの荷台へ放り込む。。
何か言いたそうな似顔絵師を手で制して、そのまま次のコンテナを持ち上げる。
軽トラックの狭い荷台は、冬野菜のコンテナですぐ一杯になる。


 「じゃ。こいつを作業場へ運んでくれ。
 俺は久しぶりに、散歩をかねて、ビニールハウスの様子を見てくる」


 父の徳治が霜柱を蹴散らしながら、ビニールハウスに向かって歩き出す。
父の背中を見送った後、似顔絵師が軽トラックの運転席へ乗り込む。
時刻は5時20分。東の空はずいぶん明るくなったが、まだ夜が明ける気配はない。
この時期の群馬の日の出は、6時55分。
農家がひと仕事を終えても、東の空はまだ、太陽が昇って来る気配をまったく見せない。




・・・・

 「ここが、わたしの実家」
後部座席に佳つ乃(かつの)とサラを乗せた陽子のワンボックスが、
街道の入り口で停車する。
徳治の家には、50メートルほどの細い街道が有る。
表の通りから専用の街道を通り、作業場を越えると母屋がそびえる中庭へ出る。



 「突き当りに見えているのが、野菜を仕分けるための作業小屋。
 姉さん被りで忙しく働いているのが、母の育代。
 隣で美味しそうにタバコを吸って休憩しているのが、脳溢血で倒れたばかりの父の徳治。
 農作業用のジャンバーが似合っているのが、あなたの大事な大作。
 どう。これがわたしの我が家の、フルメンバーたちよ」

 じゃ、少し車の中で待っていてねと陽子が、運転席から降りていく。


 

第114話につづく

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