散歩の時に見つけた

東京都内を散策しますが、こんな所にこんな物がと再発見します。写真等を添えて記録します。

真先稲荷(石浜神社境内)

2010-12-21 07:07:47 | Weblog
      

              

 真先稲荷は天文年間(1532頃)石浜城主の千葉守胤によって祀られたと伝えられます。隅田川

沿岸にあり、その門前は景勝地として知られました。また、奥宮の狐穴から出現する「お出狐」は、

三囲稲荷の狐と並んで有名であったとされます。  

 江戸中期から参詣人が多くなり、宝暦7年(1757)ころからは、吉原豆腐で作った田楽を売る

茶屋が立ち並んで繁昌した。吉原の遊客もよく訪れ「田楽で帰るがほんの信者なり」などの川柳が詠

まれています。(荒川区史跡)

 この辺りは「橋場」で対岸は「鐘が渕」、小説「剣客商売」の秋山小兵衛名人の隠居所があって、

若い女房おはるの漕ぐ舟で料亭「不二楼」へやってくる。息大治郎の道場は真先稲荷の近くにあっ

て、「たまには美味いもの」を食べさせようと呼びにやる・・・というシーンが好きで、真先稲荷を

訪ねてきました。

石浜神社(荒川区南千住)

2010-12-20 07:22:21 | Weblog
      

              

 聖武天皇の時代、神亀元年(724)の創建と伝えられる古社で、源頼朝、千葉氏、宇都宮氏らの

崇敬を受けたといいます。江戸時代の夏越の祓(6月30日)は、その壮麗さにおいて名高く、天保

9年(1838)刊行の「東都歳時記」の挿絵に夏の風物詩として紹介されています。  

      

 一の鳥居を入ると、子伏せ玉抑えの狛犬が目を光らせていました。

羽子板市(浅草寺)

2010-12-19 07:09:06 | Weblog
      

              

 キレイな女性が並んでいますね。今年も浅草寺で羽子板市が賑やかです。例年より大勢の方々が訪

れているようでしたが、スカイツリー見物もありますかね。もともと歳の市として正月用品や縁起物

を売っていたようですね。  

        

               

 古くは「邪気を跳ね返す」として、女の子の成長を願って羽子板を贈ったという風習からきている

と言います。追羽根もいろとりどりでキレイです。本堂には大きな助六と揚巻の羽子板が飾られて人

気を呼んでいました。

生命の言葉(東京都神社庁)

2010-12-18 07:33:11 | Weblog
       

 「全徳の人は得難く 一失あれば一得あり」。これは徳川吉宗の言葉です。全く申し分のない人と

いうのはいるものでなく、誰でも短所があれば長所もある。相手に何か不足を感じることがあって

も、どこか取り柄があるから多少の過ちはゆるしてやらなければならない。と解説しています。

 吉宗は徳川八代将軍で紀州藩光貞の子。享保の改革と呼ばれる司法体制の改善、財政再建、人材の

登用、防火制度の創設などの政策を実施し、幕府の中興の祖とされます。


橋場不動院(台東区橋場)

2010-12-17 07:06:02 | Weblog
      

              

 白鬚橋西詰を南下するとたくさんの幟があります。このお不動さまには布袋尊もお祀りしていま

す。太平宝宇4年(760)に開創されたもので、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。  

        

 江戸時代には武家の尊信を集めており、明治大火、関東大震災、昭和20年3月東京大空襲にも、

この不動院を中心とした橋場の近辺は災禍をまぬかれたことから、霊験あらかたな不動尊として広く

庶民に尊信されています。現在の本堂は弘化2年(1844)建立のもので、小堂ながら江戸時代の

建築様式を保ち、美しく簡素な佇まいとなっています。本堂に隣接して御授地蔵尊は子育てなどで崇

敬されています。境内には樹齢700年の大銀杏があります。


三美神(新お茶の水ビル)

2010-12-16 07:32:50 | Weblog
      

              

 新お茶の水ビル1階南側、背景にニコライ堂の鐘楼が見える空間に「三美神」なる彫刻を発見しま

した。プレートを見ると、オシップ・ザッキン(1890~1967)作でした。  

 ザッキンさんは旧ロシア領ベラルーシ出身で、母親の実家の北部イギリスからパリに渡り、ピカソ

やモデリアーニ、藤田嗣治たちと知り合って活躍した彫刻家・画家ですね。 

 三美神は三姉妹だそうで、何処かで見たのですが思い出せない。ニコライの鐘にきいてみたけれど

思い出すにはしばらくかかりそう。

またやろう(東京メトロ)

2010-12-15 07:15:39 | Weblog
      

 東京メトロのマナーポスターです。「スムーズな乗り降りに ご協力下さい」と書いてあります。

 出入口に大きな男性が立っていますね。例のメガネのおじさんが迷惑そうに見上げています。する

とこの男性は、すっと外にでて道を開けましたので、スムーズに降りることができました。これでど

ちらの人もOKですね。またやろう・・です。

晩秋 幽霊坂と淡路坂

2010-12-14 06:55:54 | Weblog
       ニコライ堂

         

 ニコライ堂から通りをはさんだ東側に幽霊坂。往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりしを以って俗に

幽霊坂と唱えたり。古くは光感寺坂とも埃坂(ごみざか)などとも呼ばれたり・・と。  

       

 淡路坂の上に太田姫稲荷、道をはさんで鈴木淡路守の屋敷があり、それで町名と坂名がつきまし

た。この坂を東に下ると昌平橋があります。この坂の上には1960年頃まで日本体育協会がありま

したが、東京オリンピック前に代々木に移転しました。 

晩秋の駿河台

2010-12-13 07:04:37 | Weblog
       本郷通り

                紅梅坂

 本郷通り聖橋から小川町への途中、ニコライ堂の北側を西側へ上がる坂道は紅梅坂。このあたりは

紅梅町とよんでいたのでこの坂名がついたと言います。淡路町に下る幽霊坂とつながっていたが、大

正13年の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれました。  

         観音坂

 もっと坂下へ進むと、東へ下る道があってこれは観音坂。「江戸名所図会」には、新編江戸志に、

観音坂は埃坂(幽霊坂)と並び、むかし茅浦観音寺やしきありし故に名づくなりと見ゆ。この坂の

上、観音院と称する仏刹ありしことは寛永の古図を見ても知らるべし。とありますがこの季節は色づ

いた街路樹がなんとも美しい。

能勢妙見堂(墨田区本所)

2010-12-12 07:07:04 | Weblog
      

              

 安永3年(1774)能勢頼次は、故郷の能勢(大阪府)から妙見大菩薩の分体を移し、当時この

地にあった下屋敷に安置しました。妙見大菩薩は日蓮宗の守護神で、江戸っ子には開運厄除けの神と

して信仰を集めました。  

          勝海舟像

 震災と戦災で焼失しましたが、昭和28年から15年を費やして再建されました。昔、勝海舟が子

どもの頃に犬に噛まれて重傷となった時、父の勝小吉はこの妙見堂で水垢離をして息子のケガが平癒

することや、出世を祈ったことから、勝海舟の晩年の銅像があります。