散歩の時に見つけた

東京都内を散策しますが、こんな所にこんな物がと再発見します。写真等を添えて記録します。

芸 能 紋 (地下鉄田原町)

2009-11-20 07:35:28 | Weblog
      

                

 東京メトロ田原町駅ホームには「芸能紋」が掲げてあります。説明によると昭和

2年(1927)12月30日、浅草ー上野間に地下鉄が開通したときに掲げられた

ものだそうです。  

 「浅草の玄関口に赴きを添えるために」当時の花形役者の家紋をホームに飾った

と記されています。なかなかの趣向ですね。尾上菊五郎さんなど、36の紋があり

ます。ウエルカムの歓迎アーチですね。

銀座煉瓦之碑 (銀座1丁目)

2009-11-19 07:29:30 | Weblog
      

                

 明治5年(1872)、和田倉門から出火した火事は、銀座一帯を焼きつくし、築

地ホテル館まで及ぶ大火になりました。  

 これを機に時の東京府知事由利公正は、不燃性の都市を建設することを主張し、

銀座煉瓦街の誕生になりました。彼の功績を讃えて造られたのがこの銀座煉瓦之碑

です。銀座1丁目テアトル銀座の前です。

江戸歌舞伎発祥の地 (京橋3丁目)

2009-11-18 08:04:33 | Weblog
       

 中村座の始祖猿若勘三郎は、歌舞伎の「猿若」で天下の名優とうたわれ、元和8

年(1622)江戸に下り、「猿若座」(中村座)の櫓を上げました。この地に太鼓櫓

を許されたのは寛永元年(1624)ですが、江戸城に近いという理由で長谷川町へ

移転、後に堺町へ転じています。  

 しかし天保年間に浅草へ移転を命じられます。中村座だけでなく、江戸三座と呼

ばれた市村座や森田座も移転させられ、歌舞伎と浅草の歴史が始まります。

京橋の親柱 (中央区京橋・銀座)

2009-11-17 08:20:12 | Weblog
       南詰交番横

                  北詰東側

 京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋です。橋は昭和34年(1959)

京橋川の埋め立てによって撤去されたが、3本の親柱が残っている。

 明治8年(1875)当時の石造の橋のものは、橋の北詰と南詰(銀座1丁目)にあ

ります。伝統の擬宝珠で、詩人佐々木支陰の筆によって「京橋」「きやうはし」と

それぞれ橋の名が彫られています。南詰の東側には大正11年のもの。貴重な建造

物として、中央区民文化財に登録されています。

家でやろう (東京メトロ)

2009-11-16 07:14:29 | Weblog
        

 最近というか、3年くらい前からよく見かけますね。女性に羞恥心がなくなった

のでしょうか。「公衆の面前で化ける?のがなんで悪いのよ」と言われそうです。

 昔は、夫が目覚める前に化粧を済ますのが常識、妻の務めと言うか、スッピンを

見せない主義だったと聞きます。今そんなこと言ってると  です。

 それにしてもこのポスター、使用前、使用後となかなか面白いですね。アイシャ

ドーの効果は素晴らしい。座布団3枚です。

 

深まる秋 色付く木

2009-11-15 08:00:49 | Weblog
      

                

 朝夕めっきりと冷える日が増えてきました。  

 奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋はかなしき (古今集)

 昔の人々はその情景をうまく表現するものですね。ここは都会の真ん中、小さな

公園の木が色付いたとて鹿は鳴きません。しかし子どもたちは無邪気です。風に舞

う落ち葉を追って遊びます。  

 何処からかお母さんの呼ぶ声が聞こえるような。

奇縁氷人石 小唄顕彰碑

2009-11-14 07:50:22 | Weblog
        奇縁氷人石      

                小唄顕彰碑

 湯島天神にはいろいろな石碑がありますが、なかでも「奇縁氷人石」と呼ばれる

石があります。落し物や迷子の時はこの石にお願いするというもの。  

 石柱の右側「たつぬるかた」尋ねる人、左には「をしふるかた」教える人がそれ

ぞれ書いた紙を貼るわけです。探す人と教える人が互いに助け合うという仕組みに

なっています。同じような柱は浅草寺本堂前にもあります。  

 小唄顕彰碑、都々逸の碑などがあり、この界隈には昔から粋筋の商売がありまし

たからね。いわゆる明神下の三組町なんか懐かしい。

石川啄木の歌碑 (湯島切通し)

2009-11-13 07:48:19 | Weblog
      湯島の歌碑

 「二晩おきに 夜の一時頃に切通の坂を上りしも 勤めなればかな」。本郷の理

髪店二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞の夜勤の帰り、この坂道を通っ

た。その歌碑です。  

                 銀座の歌碑

 勤務していた朝日新聞社は当時の滝山町、現在の銀座6丁目でそこにも啄木の歌

碑があります。「京橋の滝山町の新聞社 灯ともる頃の忙しさかな」と刻まれてい

ます。啄木は明治42年12月から45年4月まで勤務していて、27歳の若さで

他界しています。あまりにも若いデス。

湯島 切通し坂

2009-11-12 08:20:27 | Weblog
      

                

 湯島通れば思い出す・・です。昭和45年だったと思いますが、都電がなくなり

ましたね。当時は伝通院前から天神下まで都電で通勤していました。雪の日もちゃ

んと運転されていて重宝しましたよ。  

 切通しは天神社と根生院との間の坂なり。本郷3・4丁目より池之端、仲町へ達

する便道なり。と説明が始まり、初めは急な石ころ道であったが、明治37年に上

野広小路と本郷3丁目に電車が開通してゆるやかになった と続きます。その電車

も66年乗客を運んで廃止。思えば懐かしい。


恋みくじ (湯島天満宮)

2009-11-11 07:30:05 | Weblog
      

                恋みくじ 

 湯島の白梅といえば、お蔦と主税の悲恋の物語ですが、こちらは「恋みくじ」で

す。拝殿の前には菊を飾っていますが、お賽銭箱の隣にはお蔦と主税にあやかって

か、恋みくじを戴くようになっています。  

         

 天神様といえば「うし」ですが、この紋は天神様を象徴したものですね。親子の

うしが抱き合っているデザインはなかなかです。