もう87才になり、今でこそほとんど触ってもいないだろうけど、私が子供の頃は、カメラというか、撮影、現像までをひとりでやっていた。
実家には、当時は暗室として使われていた部屋があり、父親が作業をしているときは間違って開けようなら、死ぬほど怒鳴られたものだ。あとでカギを付けていたけど。何度か暗室には入れてもらったことがあり、中に入るとツーンとした臭いが立ちこめて、いくつもバットのようなものに、温度計と透明な液体が入っていた。
薄暗くボワッと灯った赤い光の下で、白い紙に光を当てて、その紙を液体の入ったバットに沈めると、しばらくして黒い模様のようなものが浮き上がってくる。それは、やがて人の姿になったり、風景だったり、モノクロームの不思議な世界が浮き上がった。
手を近づけようとすると、さわったらあかん、毒やから、ぜったいさわったらあかん、と怒鳴られた。やがて、すべての作業が終わって部屋を開け放つと、写真が何枚もぶら下がり、モノクロームのフイルムや透明のフィルムみたいなものが何本もぶら下がっていた。
私が3才頃に、今の実家に引っ越したんだけど、その前の家、私が生まれたのは、まだ地上にあった近鉄奈良駅から数分の林小路町だったらしい。母親は幼い私を抱いて、電車に乗って出勤する父親をよく見送った、と言っていた。もちろん記憶にない。
父親はサラリーマンだったけど、休みの日はアルバイト代わりに、三脚に積んだマントつきのカメラを持って奈良公園に行き、観光客などの記念写真を撮っていたらしい。子供の頃、今の実家の風呂場の水除け代わりに新聞紙大の金属でホーローみたいなDPEの看板があったのだけど、それはそういうことだったんだ、と大きくなってから知った。
実家には、当時は暗室として使われていた部屋があり、父親が作業をしているときは間違って開けようなら、死ぬほど怒鳴られたものだ。あとでカギを付けていたけど。何度か暗室には入れてもらったことがあり、中に入るとツーンとした臭いが立ちこめて、いくつもバットのようなものに、温度計と透明な液体が入っていた。
薄暗くボワッと灯った赤い光の下で、白い紙に光を当てて、その紙を液体の入ったバットに沈めると、しばらくして黒い模様のようなものが浮き上がってくる。それは、やがて人の姿になったり、風景だったり、モノクロームの不思議な世界が浮き上がった。
手を近づけようとすると、さわったらあかん、毒やから、ぜったいさわったらあかん、と怒鳴られた。やがて、すべての作業が終わって部屋を開け放つと、写真が何枚もぶら下がり、モノクロームのフイルムや透明のフィルムみたいなものが何本もぶら下がっていた。
私が3才頃に、今の実家に引っ越したんだけど、その前の家、私が生まれたのは、まだ地上にあった近鉄奈良駅から数分の林小路町だったらしい。母親は幼い私を抱いて、電車に乗って出勤する父親をよく見送った、と言っていた。もちろん記憶にない。
父親はサラリーマンだったけど、休みの日はアルバイト代わりに、三脚に積んだマントつきのカメラを持って奈良公園に行き、観光客などの記念写真を撮っていたらしい。子供の頃、今の実家の風呂場の水除け代わりに新聞紙大の金属でホーローみたいなDPEの看板があったのだけど、それはそういうことだったんだ、と大きくなってから知った。