舞台は1792年のスペイン。時の王はスペイン・ブルボン朝のカルロス4世だ。おっとりで、狩りが大好きで、ちょっと小太りの様子は、ブルボン家の血筋なのかもしれない。
その3年前に、お隣フランスで吹き荒れた革命の嵐は、ヨーロッパ各国の宮廷を恐怖に陥れたが、まだそれほどに切迫感はない。「どうせ、民衆が立ちあがったとしても、そんなのは烏合の衆の遠吠えにすぎない」と思っている頃。
さすがにそれまでの旧態然とした、中世さながらのカトリックにがんじがらめになっている政治ではまずい・・・と思うべきだが、そのような機転のききそうな王ではない。
世界は確実に前に進んでいる。しかし、教会の中は一歩も前に進んでいない。世界が前に進んでいることを知っているのは、紛れもなく民衆であり、そのことをなんとか表わそうとしていたのが、宮廷画家ゴヤであった。
宮廷画家という特権的な立場にいつつ、世の中を風刺し、古臭い教会のかび臭さを絵で痛烈に批判する。その一方で神父の肖像画を描き、金にもあざとい。映画で見る限り。ものすごい才能あふれながら、フレキシブルで、芸術家にありがちな頭こちこちの人間ではない。
そのゴヤが、ある女性の肖像画を描いていた。町の有力な商人の娘、イネス。
描かれた絵でも、その美しさが際立っていた。同じころに同様に肖像画を描いてもらっていたのが保守的で、最近のカトリックのまだるっこしさに批判的なロレンソ神父であった。我々教会は、昔のように異教徒の摘発を厳しくしなければならない。生ぬるい。教会の権威を取り戻さなければならない。
ある日、ほんの些細なことで、イネスは異端の疑いをかけられてしまう。本当に異端であるかどうかなどは問題ではない。どんな手段をとってもいいから、本人に異端であると認めさせればいいのだ。
帰ってこない大事な娘を心配して、イネスの父は、財力を駆使して、なんとか娘を助けようとする。その時に頼りにしたのがゴヤだった。宮廷にも顔が利き、神父の肖像画を描き、世の中のことをよく知っている。
ロレンソ神父を自宅に招き、彼に迫る。娘は異端ではない!尋問(拷問)によってユダヤ教徒であると、強要されたのだ。拷問など、前世紀の遺物をいつまで続ける気か。
いや、神への信仰が真実のものならば、拷問なので強要されるはずがない。神が偽りを言わせるはずがない・・・。
そこで、イネスの父は実力行使に出る。ロレンソはそこで、まざまざと人間の弱さを痛感する。自分が信じてきたものは何なのか。いや、今までだって信じてきたわけではない。信念だと思っていたものはただの方便なのか。ロレンソは、父になんとかしようとその場を繕って、娘のいる牢に行く。
牢の鎖につながれたイネスは美しかった。自分を守る布切れ一つつけていないイネスは神々しい。今まで見たナタリー・ポートマンで、一番美しかったような気がした。
尋問のおろかさを自ら証明してしまったロレンソは、お尋ねものになってしまう。教会が血眼になって、ロレンソを探す。しかし、すでに彼は消息を絶つ。そして15年後・・・。
崇高な理想のもと、フランス革命は断行され、王であること自体が罪であったというルイ16世は断罪され、ナポレオンがヨーロッパを席捲していた。王を断罪したはずのナポレオンは、自らの兄を王にしたて、自分は王たる王、皇帝についていた。
ナポレオンの化けの皮はすでにはがれていたが、その権力ににじり寄って、古いものをぶち壊そうとする輩には、格好の錦の御旗である。いまや、彼に逆らえるものなどいない。気に入らないものを追い落とす絶好の機会になるのだ。
古いものから新しいものへ生まれ変わるときの生みの苦しみ・・。時代の流れの必要な犠牲とは言いたくないが、こうやって人々は多くの、本当に多くの数え切れない人々の命を代償に時代を動かしてきた。そうやって生み出されたものは、崇高なもののはずなのに・・・。
時代の劇的な変化を画家ゴヤの目から見た革命だ。かちこちの保守派のスペインは、カトリックをかたくなに守り、200年前とほとんど何も変わらない頭の固い様子を見せている。
あの異端を取り締まろうとする教会の聖職者たちは、滑稽を通り越して、哀れにさえも見えてくるが、その自分たちの姿をまるで客観的に見れない様子は笑うしかない。枝葉末節、重箱の隅をほじくるように無理やり異端の罪をかぶせ、拷問で告白させる。
そうやって人間たちは自分と違うものを見つけ出し、排除し、それが自分たちを守っているのだと思い込まされてきた。時と場合と国の違いによって、排除されるべきものは、変わっていくが、弱い人間たちが自分を守るために、営々と行ってきたものだ。
人間の弱さをまざまざと見せられたが、この矛盾に満ちた、悪意の渦巻く世界で生きていかなければならない人間の、なんと生きにくいことか。まともに立ち向かい、生き抜こうとすれば、どれだけの強い精神力がいるか・・・。
ミロス・フォアマンの映画には、精神を病んでしまった人が多く映し出される。それは残酷な世の中で生きた人間の、闘ったあとの姿のようにも見える。
見せた。さすがにうまい。さすが映画の達人。映画に力があった。あまり得手でないナタリー・ポートマンなのだが、この映画のナタリーはすごい。半端でない。目を見張った。
◎◎◎◎●
『宮廷画家ゴヤは見た』
監督 ミロス・フォアマン
出演 ハビエル・バルデム ナタリー・ポートマン ステラン・スカルスガルド ランディ・クエイド ホセ・ルイス・ゴメス ミシェル・ロンズデール マベル・リベラ
(似てる・・)
その3年前に、お隣フランスで吹き荒れた革命の嵐は、ヨーロッパ各国の宮廷を恐怖に陥れたが、まだそれほどに切迫感はない。「どうせ、民衆が立ちあがったとしても、そんなのは烏合の衆の遠吠えにすぎない」と思っている頃。
さすがにそれまでの旧態然とした、中世さながらのカトリックにがんじがらめになっている政治ではまずい・・・と思うべきだが、そのような機転のききそうな王ではない。
世界は確実に前に進んでいる。しかし、教会の中は一歩も前に進んでいない。世界が前に進んでいることを知っているのは、紛れもなく民衆であり、そのことをなんとか表わそうとしていたのが、宮廷画家ゴヤであった。
宮廷画家という特権的な立場にいつつ、世の中を風刺し、古臭い教会のかび臭さを絵で痛烈に批判する。その一方で神父の肖像画を描き、金にもあざとい。映画で見る限り。ものすごい才能あふれながら、フレキシブルで、芸術家にありがちな頭こちこちの人間ではない。
そのゴヤが、ある女性の肖像画を描いていた。町の有力な商人の娘、イネス。
描かれた絵でも、その美しさが際立っていた。同じころに同様に肖像画を描いてもらっていたのが保守的で、最近のカトリックのまだるっこしさに批判的なロレンソ神父であった。我々教会は、昔のように異教徒の摘発を厳しくしなければならない。生ぬるい。教会の権威を取り戻さなければならない。
ある日、ほんの些細なことで、イネスは異端の疑いをかけられてしまう。本当に異端であるかどうかなどは問題ではない。どんな手段をとってもいいから、本人に異端であると認めさせればいいのだ。
帰ってこない大事な娘を心配して、イネスの父は、財力を駆使して、なんとか娘を助けようとする。その時に頼りにしたのがゴヤだった。宮廷にも顔が利き、神父の肖像画を描き、世の中のことをよく知っている。
ロレンソ神父を自宅に招き、彼に迫る。娘は異端ではない!尋問(拷問)によってユダヤ教徒であると、強要されたのだ。拷問など、前世紀の遺物をいつまで続ける気か。
いや、神への信仰が真実のものならば、拷問なので強要されるはずがない。神が偽りを言わせるはずがない・・・。
そこで、イネスの父は実力行使に出る。ロレンソはそこで、まざまざと人間の弱さを痛感する。自分が信じてきたものは何なのか。いや、今までだって信じてきたわけではない。信念だと思っていたものはただの方便なのか。ロレンソは、父になんとかしようとその場を繕って、娘のいる牢に行く。
牢の鎖につながれたイネスは美しかった。自分を守る布切れ一つつけていないイネスは神々しい。今まで見たナタリー・ポートマンで、一番美しかったような気がした。
尋問のおろかさを自ら証明してしまったロレンソは、お尋ねものになってしまう。教会が血眼になって、ロレンソを探す。しかし、すでに彼は消息を絶つ。そして15年後・・・。
崇高な理想のもと、フランス革命は断行され、王であること自体が罪であったというルイ16世は断罪され、ナポレオンがヨーロッパを席捲していた。王を断罪したはずのナポレオンは、自らの兄を王にしたて、自分は王たる王、皇帝についていた。
ナポレオンの化けの皮はすでにはがれていたが、その権力ににじり寄って、古いものをぶち壊そうとする輩には、格好の錦の御旗である。いまや、彼に逆らえるものなどいない。気に入らないものを追い落とす絶好の機会になるのだ。
古いものから新しいものへ生まれ変わるときの生みの苦しみ・・。時代の流れの必要な犠牲とは言いたくないが、こうやって人々は多くの、本当に多くの数え切れない人々の命を代償に時代を動かしてきた。そうやって生み出されたものは、崇高なもののはずなのに・・・。
時代の劇的な変化を画家ゴヤの目から見た革命だ。かちこちの保守派のスペインは、カトリックをかたくなに守り、200年前とほとんど何も変わらない頭の固い様子を見せている。
あの異端を取り締まろうとする教会の聖職者たちは、滑稽を通り越して、哀れにさえも見えてくるが、その自分たちの姿をまるで客観的に見れない様子は笑うしかない。枝葉末節、重箱の隅をほじくるように無理やり異端の罪をかぶせ、拷問で告白させる。
そうやって人間たちは自分と違うものを見つけ出し、排除し、それが自分たちを守っているのだと思い込まされてきた。時と場合と国の違いによって、排除されるべきものは、変わっていくが、弱い人間たちが自分を守るために、営々と行ってきたものだ。
人間の弱さをまざまざと見せられたが、この矛盾に満ちた、悪意の渦巻く世界で生きていかなければならない人間の、なんと生きにくいことか。まともに立ち向かい、生き抜こうとすれば、どれだけの強い精神力がいるか・・・。
ミロス・フォアマンの映画には、精神を病んでしまった人が多く映し出される。それは残酷な世の中で生きた人間の、闘ったあとの姿のようにも見える。
見せた。さすがにうまい。さすが映画の達人。映画に力があった。あまり得手でないナタリー・ポートマンなのだが、この映画のナタリーはすごい。半端でない。目を見張った。
◎◎◎◎●
『宮廷画家ゴヤは見た』
監督 ミロス・フォアマン
出演 ハビエル・バルデム ナタリー・ポートマン ステラン・スカルスガルド ランディ・クエイド ホセ・ルイス・ゴメス ミシェル・ロンズデール マベル・リベラ
サスガ!名匠!ですが、
75歳でしたか?そのお年でこれほどパワフルな作品を
撮り上げてしまうのは素晴らしいですね。
今回もsakurai先生にお勉強させてもらっちゃいました。
映画の中で分からなかったところも細かく解説して
いただき感謝です~♪
こんだけ力のある、エネルギーあふれる作品だとは思いませんでした。見せましたねえ。
王様の絵を描いていたかと思うと、上記の処刑の絵のように、激動をまさに生きたゴヤ。
とっても興味深く、私も改めて勉強になりました。
しっかし、カルロス4世が、ランディ・クエイドと似てて、笑ってしまいました。
観る前はゴヤの伝記物かな程度の感覚でしたが、いえいえ、ゴヤは客寄せで、実は、ロレンソ神父とイネスの歪んだ愛の物語でした。愛の形にもなっていませんが。いわゆる時代に翻弄された人生は哀しすぎます。
ポットマンさんは、この映画では凄い女優さんでした。勝ち気のある表情が魅力ですが、いろんな女の姿を見せてくれ、次作が愉しみになりました。
いや、あれは愛の形でしたよね。純粋な。
『ブーリン家』も楽しみになってっきました。
>いや、あれは愛の形でしたよね。純粋な。
そうですねー。ナタリーさんからすれば、まちがいなく純粋ですが、
男の神父さんからはどうなんでしょうか。
そこがどうもわからなくて。
ですから、よけい哀れさを感じるのです。
ただそれまでのあまりの悲惨な状況を人は堪えうることができない。それほど強い生き物ではない人間の姿を監督は描いているいるような気もしました。
ロレンソは純粋な愛をないがしろにした末路が待ってましたが、それも人間の姿だなあと。
すごく、美しいし、さらに
母親としての愛も哀れでたまりません。
でも、イネスは獄中、この愛で生きていることができたんだろうと思います。
なにもかもを捨て、無になって、
すべてを愛の力に任せたことで
最低限の正気を保っていれたのだと・・・。
史実とフィクションをうまく扱った作品で
久々に、ほんとうに良いものを観たと
心から思いました。
ロレンソ神父に全幅の信頼を置いてる様子が表情から伝わりました。
このナタリーは絶品でした。
あたし、あんまり好きじゃなかったんですよ。
なんかねえ、どっかにバリアがあって、いまいちつき切れない何かがある。
今回のナタリーは、突っ切ったものを感じました。
旅行行ってきたんですか?いいなあ。
紅葉狩りもいい頃ですね?
今晩は☆★
コメント並びにTBありがとうございました!
何といっても、ゴヤの銅版画制作シーンが気になりました。もう少し場面があるといいのですが・・・。
元々ヨーロッパから入ってきた技法なので、300年前はどうなのか?薬品もどんなものがあったのか?と思い巡らしておりました。もちろん作品もなかなか素晴らしかったですよね。ナタリー・ポートマンの汚れ役は驚きました。ハビエル・バルデムももちろん凄いですが。時代設定ですが、18世紀末のスペインを選んだのも、現代社会と似ていることからだそうです。sakuraiさんの言われるように価値観。移ろいやすく、先行きが不安な時代の空気が、驚くほど似ているからと監督は語っておられます。イネスとアリシア、似すぎ!!おっしゃるように2役は、ちょいと不自然ですよね!
銅版画の製作シーンのときはmezzotintさんを思い出しました。
ちょっと短かったですかね。
ま、そこがメインじゃないですからね。
ナタリー・ポートマン、今までそれほど好きな役者さんじゃなかったのですが、この映画で見なおしました。
本当にすばらしかったです。
どの時代でも、探せば興味深い出来事があると思うのですが、やはり面白いのはこの辺のヨーロッパですかね。この劇的な価値観の転換がどのくらい人々に影響を及ぼしたか・・・。それを見ていたゴヤの視点。
ミロシュ・フォアマン、いい映画作ってくれました。