さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

思いつくままに

2020年10月31日 | 
※2013年8月の「無人島」に掲載した文章である。ブログにはだしたことがないと思うので、掲載する。
 思いつくままに                  
○ 渡辺良さんのご尽力によって、横須賀の歌人金井秋彦さんの遺歌集が出された。あらためて、金井さんの希求した詩の純度の高さに畏敬の念をいだく。滴るような時間をもたらしてくれる作品に、いちいちの作品に頷くような思いで、読むというより、さわるように読んだ。そこには、「見る」ことに徹底的にこだわりながら、平凡な客観写生の歌とは別物の「現実」への接近の仕方があるのだ。「現実」と言うよりも、私の造語で「現相」の把握をめがけているのである。
 歌を作ると言うことは、当たり前のものを見て、日々感じ直し、観じ直しすることである。それには、注意深く在らねばならない。大きく言うと、歌を通して、生きることをするのである。だから、どんなに現実の生活が耐え難いものであったとしても、歌にかかわる日常生活というものは、単に耐え難いというだけのものにはならない。金井さんの歌を見ていると、そういうことがわかるし、またそれが作品のもたらす救いでもある。
○ 沼波瓊音の『柳樽評釈』(一九八三年弥生書房復刊)という本を見ていたら、跋文が森銑三で、茂吉とこの著者との論争に言及していた。沼波が茂吉に向かって「あなたは川柳の面白さを解しないでせうといつた」というのは、おもしろい。手元の全集と篠弘の論争史の本で見るかぎり、二人の言い合いの原因となった短歌作者の作品は、たいしたものではない。茂吉にしてみれば反論で投げかけられた一言は、いかにも心外な言葉だったろうが、一面でそれは、くそ真面目な茂吉の痛いところを確かに突いていたのた。茂吉は例によってくどくどといろいろ書いているが、この言い争い(論争と呼ぶには内容がお粗末)は、後年の茂吉の作風の幅を拡げるのにかえって寄与したかもしれない。
 昭和十年代に入って、白秋や水穂などのライバルが「幽玄」と言えば、節や赤彦の歌を引きながら、こっち(アララギの陣営)の方がよっぽど「幽玄」の歌を作っている、と書くような茂吉であるからして、俺だって「フモールの歌」は、いいものが作れるんだ、というような、そういう気持ち(競争心)が底にあってできた茂吉の「フモールの歌」は、この後けっこう多いのかもしれないと思うのである。そういう俗な情動を底に沈めながら、あくまでも一首の創造に際しては純一である、というところに茂吉の才能がある。本当の実作者というのは、対立する相手をも食って栄養にしてしまうものなのだ。
○ ここまで書いたあとでサン=テグジュペリの『人間の土地』を通勤の車内で読み始める。疲れたらすぐに読みさすので、ちびりちびりと読み進む。至福の読書というのは、こういうもののことをいう。まず、堀口大學の訳がすばらしい。一部を分かち書きにして、詩のようにして見せようか。
  そこには 竜巻が
  いくつとなく集まって、
  突っ立って いた。
  一見 それらは寺院の
  黒い円柱のように不動
  のものに見えた。
  それら竜巻の円柱は、
  先端に ふくらみを 見せて、
  暗く 低い 暴風雨の空を
  ささえていた、
  そのくせ、空の 隙間からは、
  光の裾が 落ちてきて、
  耿々たる満月が、
  それら円柱の あいだから、
  冷たい海の 
  敷石の 上に
  照りわたっていた。

  そしてメルモスは、
  これら無人の 廃墟のあいだを横切って、
  光の瀬戸から 瀬戸へと
  はすかいに、海が
  猛り狂いつつ昇天しているに相違のない
  巨大な竜巻の円柱を
  回避しながら、
  自分の路を
  飛びつづけた。
 
 …全編がこんな調子の散文である。私は、後にも先にもこれほどに荘厳で幻想的な自然の情景に出会ったことはない。巨大な竜巻の円柱を「回避しながら」「自分の路を飛びつづけ」るところに励まされる。
 近年のぴかぴかしたCG画像の氾濫を前にして思うことは、昔のオーソドックスな油絵の具の画面の手触りのなつかしさである。生々と筆の跡が残るキャンバスは、生きる力そのものを見る者に付与する媒体だったのだとも思う。手触りというものは、一口に「ヴィジュアル」などと呼ばれる要素に還元できるものではない。言葉も、そういうところがあるのだ。
 先日私の生活の拠点のひとつである某所で松野俊夫遺作展というのをやっていた。主に北国の野山を描いた新制作会所属の画家で、大正十四年生まれ。享年八十六歳。先に物故した私の父と歳が近い。欲しいものがあればお譲りしますというので、半信半疑ながら入札の真似事をして受付に住所を書いて渡して来た。絵のすばらしさにはとても及ばない微々たる金額を書いて来たのである。そうしたら、春を待つ湿原の神々しいような絵が届いた。岬や山の絵はサイズも大きいし、人気もあるだろうから、ということで遠慮して、もっとも地味な絵を選んであったのだった。手前の枯れ原の間にうす水色の氷の張ったような水たまりが二筋見える。沖にたゆたう海は心持ちふくれあがっており、水平にえがかれていない。海というのは、たしかにああ見える、というようにかいてある。見えたとおりにかいてあるのだが、目の「見え癖」のようなものが定着されていて、リアリズムではあるけれども、風景から受け止めたものを包みこむように自分の力と化して、それが画面に定着されている。
 結局、誰かに頼ってものを考えたり書いたりしているだけでは、何も生まれて来ない。最近の書き手は、他人を意識しすぎるのだ。現在は、文化的な仕事の全体に、そういう空気が蔓延してしまった。サン=テグジュペリの本とそれを訳した堀口大學には、そういうものがない。詩歌にかかわることをやっている人は、自分が一番好きなことを大事にしていればそれでいいのだ。
○ 最近、藤村信著『ゴッホ・星への旅』(岩波新書 上・下)という書物に感銘を受けた。ゴッホが絵筆をとることは、仕事であり、表現であり、生きることそのものであった。だから、苦難のうちにあって、画家は絵筆を持っている時は、喜びに満ちていた。画家と歌人は、どうも似た人種ではないかと私は思っている。どちらも肉体に根ざした表現を志すところがある。方法のうしろに、もっとも個人的な生理がへばりついている。こういうことは、年をとってから私にもわかってきたことなのである。



















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