このブログは、自分の専門でもないことについては、なるたけ書かない、ということでやって来たのだけれども、ウクライナの戦争が起きてから、どうもそうもいかなくなって、書いているうちに予測でものを言うようなところが出て来たから、それは良くないなと思った。それで、最近のコメントを全部一度消した。けれども、この件に関して、私の書いたものでも参考にしようという方はおられるので、SNSの情報に飛びつく前に、とりあえず「世界」の今月号の特集などをごらんになったらどうでしょうか、と申し上げておきます。
私の身の回りの若い人を見ていると、スマホのニュースしかみていない人が多い。新聞もたいしたことはないが、それでもまだしも細かい情報が載っていることがあって、あまり馬鹿にしない方がいいのではないかと思う。そもそも新聞社系のニュースの断片がSNSにのっていることが多いわけだから、知らず知らずのうちに〇〇新聞的な発想に感化されたり、〇〇的な発想に染められたりする、ということが起きるわけなのである。
報道される死と、まったく報道されない死があって、命の重さがちがうのは不公平・不平等である。もっと言うと不当である、という文章をどこかで読んだ。たしかにそうで、今度のウクライナの記事の下に、イエメンの紛争で飢餓に陥っている人々についての記事が小さく載っているのを見るにつけ、われわれの浮薄な関心、または無関心の酷薄さというものについて考えさせられるのである。
以前このブログでとりあげた西巻真さんの歌集が、神奈川県歌人会の第一歌集賞になったということである。最近うれしかったことの一つである。短歌の話ができる平和な世界がありがたい。
私の身の回りの若い人を見ていると、スマホのニュースしかみていない人が多い。新聞もたいしたことはないが、それでもまだしも細かい情報が載っていることがあって、あまり馬鹿にしない方がいいのではないかと思う。そもそも新聞社系のニュースの断片がSNSにのっていることが多いわけだから、知らず知らずのうちに〇〇新聞的な発想に感化されたり、〇〇的な発想に染められたりする、ということが起きるわけなのである。
報道される死と、まったく報道されない死があって、命の重さがちがうのは不公平・不平等である。もっと言うと不当である、という文章をどこかで読んだ。たしかにそうで、今度のウクライナの記事の下に、イエメンの紛争で飢餓に陥っている人々についての記事が小さく載っているのを見るにつけ、われわれの浮薄な関心、または無関心の酷薄さというものについて考えさせられるのである。
以前このブログでとりあげた西巻真さんの歌集が、神奈川県歌人会の第一歌集賞になったということである。最近うれしかったことの一つである。短歌の話ができる平和な世界がありがたい。
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