さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

大口玲子『ザベリオ』

2019年07月13日 | 現代短歌 文学 文化
 きれいに罫線が引かれている原稿用紙のなかのことばを順に追っているうちに、その罫線がぼやけて、その時々の光景が映像として見えて来る、といった印象を持つ歌集である。つまり、感性の秩序が揺るぎないものに支えられていて、そのあちら側に、日常の時間、特にこの歌集で主だって詠まれている息子との時間がある。それはむろん著者のキリスト教の信仰によるものであるが、もともと作者自身が資質としてかかえているもの、あるいは自然と形成して来た志向性のようなものと、キリスト信仰の「祈り」の方向が合致しているということなのだろう。

 祈りとは遠く憧るることにして消しゆく われを言葉をきみを

 むらぎもの心は折れることなくて読みたし『工場日記』のつづき

 ぐっと、こういう歌を作る作者にこころが寄るという人はいるだろう。なるほど、これか、と私などは思う。二首目の「むらぎもの心は折れることなくて」の「折れない」のは、第一に著者のシモーヌ・ヴェイユである。第二にこの「なくて」は、「(私も折れること)なく(ありたく)て」と普通は読んだほうがいい。と同時に、「私も(いまは、いままでは)折れることはなくて」という含みも多少ないではない。どこで読んだのか、祈りというのは、魂のなすアスピレーションだと書いてあった。高みをめざして高揚する。矢をものすはたらき。

 「つぎ」と言はれやや小走りに進み出てわれは証言台に立ちたり

 「安保法制は違憲である」といふ文字に弁護士の若き声が重なる

 これは訴訟団の原告に加わったらしい作者のドキュメントである。これは「折れることなくて」ふるまっている作者の姿の一面である。信仰者であるからにはたたかうのである。

 いまだ見ぬハウステンボスいまだ子を原爆資料館に伴はず

という巻頭に近いところにある歌で、原爆の残酷な光景をまだ心の準備の整わない幼子に見せてよい時期がくるまで待っていた作者は、巻末に近い所で、ようやくそれらの被爆の事実を子に示す時が満ちたことを確かめる。一集は、子の物語をライトモチーフにして一貫している。

 われと違ふガイドに付きてやや先の展示に見入る子の背中見ゆ

 それにしても、われわれの生の時間は限られている。

 かたつむりつの出すまでを子と待てるこの世の時間長くはかなし

ということなのだ。母子の黄金の時間をうたいとどめようとした歌集というべきだろうか。

 


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