さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

大田美和 思考集 『世界の果てまでも』

2020年04月25日 | 
今朝は目が覚めて時計を見ると四時半である。いつもなら、まだ早いなと思ってそのまま再び目をつむり、浅い眠りのなかで夢を見ながら小一時間ほどをすごすのだが、今朝はこのまま起きてしまおうと思って、服を着て手洗いに立ち、玄関の戸をあけてポストまで新聞を取りにでると、夜明けの空はまだ薄暗く、少しだけ囀り出した鳥の声もかん高く響いてはいない。ゆっくりと伸びをして、靴音を立てないように、そっと自己流のスウェーデン体操風の円運動で体を振ってほぐす。戻ると上着を羽織らずに薄いセーターだけだったせいか、背中が冷たい。寝床の温かさが恋しくなって、結局また毛布をかぶりながら手元の本を適当に手に取って見はじめた。
 
 昨日届いたぱかりの本の包みを開くと、大田さんの新刊である。白い本の表紙に「ひらく、つながる、うまれる」とあって、まさに朝の新鮮な目覚めの気分にぴったりの気がした。真っ先に「両性併記パスポート獲得記 結婚制度を使いこなす」という文章を読む。私は一度読んだことがある文章だ。これは個人としての意識をしっかりと持った一人の人間が、夫婦別姓の表記を公的にかちとるまでの粘り強い取り組みを書いたもので、筆者の現実感覚がいきいきと動いているところが新鮮で、新聞記事のオピニオンの文章などとは別種の趣を持っている。風が通り抜けるような、とでも言ったらいいか、どんな事柄に言及しても筆者の感性がいきいきと躍動している。

本書に収録されている短文に、結婚直前に病気になって急に入院することになった時に、「私はこれまでに感受性をむやみに刺激するというかたちで、自分のからだをいじめすぎたのではないかと不安に思った。」という一文がある。そんな自分を救ってくれたのが、タルコフスキーの日記と韓国出身の亡命作曲家の尹伊桑(ユンイサン)の対話集だった、と続けて書かれているところが、なかなかブッキッシュで英文学の研究者らしい所なのだけれども、そこには何の衒いもなくて、常に自由な精神の動きを追っているうちに、病のなかでもそういう選択をしていったという感受性の必然としての道筋が、そこには語られているのである。

同様なことは、「壬子硯堂訪問記」という海上雅臣氏の住居を訪ねたときの文章や、続く「Ouma 展」という美術家について書いた短文などにも、生き生きと現われていて、筆者の感性の指先が触れるところに、泡立つ美神の息吹が通り抜ける瞬間が活写されている。何ともすがすがしいのである。ちょうど私の今朝の目覚めの空気にぴったりの、汚れていない、もう少し平たく言うと、世俗の塵埃にまみれていない裸身の〈関心〉の姿がここにはある。もっと言うとそれは、「文学」にかかわることの原初的なあらわれの様相を示すもので、感性的なものを形象化するなかで生きはじめ、確かめることができる生の実感というようなものが記録されているのだ。

この本には、偶然にも私がつい最近このブログでとりあげた画家で詩歌人の小林久美子との往復書簡も載っているのだが、筆者が「絵」というものにどういう感じ方を持っているかということをよく示している文章が別にあるので、それをここでは引いてみたい。

「私が一生をかけている、言葉を紡ぎ出す仕事にも、むろん喜びはあるが、絵を描くときの無心の喜びにはとうていかなわない。絵を見るとき、絵に向き合うとき、その無心の喜びがよみがえる。その喜びは、強いて表現するならば、この絵の前で踊りたいとか、この絵を抱きしめたいとか、この絵と同衾したいとかいう生の衝動、エロスに関わる思いである――。こうして文字にすると、絵に較べて、言葉とはなんと不自由なものなのかとため息が出る。」
                         「クラウディアに寄す」

私自身がこの一、二年絵に没頭しているので、こういう文章は特に強く印象づけられるのだが、筆者の芸術全般に対する感性的なありようというものが、よく解る表白である。

現在の世界の「コロナ危機」のなかで「蝸牛のように殻に閉じこもって」(「Epithalamion」)いる多くのひとびとの心のなかに、ぽんと投げこまれた小石のような波紋を本書はひろげることができるのではないか。

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