さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

中村草田男『蕪村集』

2017年07月05日 | 俳句
 何日か前に岩波文庫の『蕪村句集』をめくっていたら、

  述懐
椎の花人もすさめぬにほひ哉   与謝蕪村

という句が目に入った。この句については、中村草田男が『蕪村集』(大修館書店1980年刊)で注釈をつけているのを、一月ぐらい前に買った古書の中にみつけてあった。今日は初蝉の声を聞いたから、すでに椎やら柘植やらの花の時期は過ぎているのだが、椎の花に我が身を重ねるというのは、相当に鬱屈した自意識なのであって、草田男のような大自意識家がこれをどう説いているかという事に興味がわく。

[訳] 仮に花に身をたとえるならば、自分はまさに椎の花。世の人に賞美されるような派手な魅力を持ち合わしていない。しかし、好ましいにおいでなくとも椎は椎独特のにおいを格段に強く発しているように、自分は天から賦えられた自分の性能を自分なりに発揮してゆくばかりである。 
                     (『蕪村』211ページ)

 訳の最後の「自分は天から賦えられた自分の性能を自分なりに発揮してゆくばかりである」という言葉が、いかにも草田男である。謙遜してはいるが、相当な自負がなければ、「天賦」などという言葉は使えない。

認められたくて、自分を人に認めさせたくて焼けつくような若い頃の野心や功名心というものは、人生のスパイスである。その願いは、多くの場合叶えられない。文学というのは、また、そこから始まりもするのだということが、年を重ねてからようやくわかる。わかる前に、やめたり、死んでしまったりする人もいる。

年をとっても、何の悟りもない事を「徒に馬齢を重ねる」と昔の人は言った。現代の日本人がこの言葉を言うと、何だか動物に対して失礼ではないか、と私などは思うものだが、こんなことを言うと怒る人もいるかもしれない。

草田男の文章に話を戻すと、この句に対してはなかなか辛口である。引いてみる。

「「椎の花」を持ってきたのは、芭蕉の、

  先づたのむ椎の木もあり夏木立

の句と、同じく芭蕉の、

  世の人の見つけぬ花や軒の栗

の意味するものを一つにして、その上へ自己の想念を通わし託そうとしたのでのであろうが、宿命の自覚の上に築かれる真の決意、諦念の上に立ち上る真の覚悟というような切迫の気はほとんど感得されないようである。この句は「述懐」より「感想」に近い。 」 (以下略) 

といった具合で、酷評である。しかし、私はこの句は、梅雨前後のおもしろくもない気分と、人生不遇の感じを、うまく重ねて詠んでいると思うのである。でも、「人もすさめぬ」というのが、ゆるいし、弱い。他に迎合している気息まで感じられてしまうのかもしれない。続くページには、次の句がある。これまた、今にぴったりの句だ。

 秋立つや何におどろく陰陽師   蕪村

※七月十五日に文章を手直しした。帰宅してシャワーを浴びてから、昼間の猛暑のせいかすぐに寝てしまって、夜中に起きだした。七月のつごもりにまた手直しをした。


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