さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

田丸まひる『ピース降る』

2017年08月13日 | 現代短歌 文学 文化
 田丸まひるのこの一冊は、人のこころの痛みをことばでくるみ、丁寧に包み上げて、そっと月影のさす棚の上にひろげているかのような作品集だ。この繊細な詩の輝かしさを前にして、私は読みながら確かな手ごたえを感じている。五月末にこの本が出たあと、すぐにコメントを出せば良かったのだけれども、ぱっと見ていいのはわかっているから、ゆっくり何か書いてみようと思ううちに、お盆になってしまった。装丁もいいし、構成も洗練されている。

 迎え火をたくことを思っていたせいか、母や叔父が出て来る夢から目覚めて、今朝私が思ったことは、ロスト・ジェネレーションと呼ばれた世代以降の日本の若い人たちは、それ以前の海外の文化・芸術から多大な影響を受けて、そこから養分を得ながら表現活動をして来た戦後世代(例をあげると、田村隆一とエリュアールの詩、中上健次とフォークナーやジャズ、寺山修司とフェリーニの映画、塚本邦雄とフランス文化、大江健三郎と何々というように、対になる一覧表ができる。)とは、根本的に立脚点が異なっているのだということである。語弊があるかもしれないが、前の世代の表現には、「もどき」の要素が常にあった。その分教養もあったのだけれども、あこがれの存在は常に海外にあって、どこかでそれをなぞることに快感を感じていた。そういう要素は、今の若い人たちの表現にはあまり感じられない。

 つまり、彼らの言葉は自生のもので、それなりに社会的に成熟をとげてきた戦後日本の中産階級的な社会文化の自壊する過程で、挌闘しながらつかみ取られたものだということだ。そうして、現代短歌の分野においては、このジャンルの中で自前で作り出された詩的言語のぶつかり合う<場>が、インターネットという技術的なツールを得てのち、それがうまく機能して各々の短歌作者の相互の関心を結び付けることに成功した。その成果としての、現代の若い世代の目覚ましいほどの登場ということになっているのである。

 水原紫苑が、直近の「現代短歌新聞」のインタヴューで語っているような事態、最近の若いひとたちの作品がすごいので、それに私も刺激された、という言葉が端的に示していることは、以上に述べたような背景を持っているのである。

 田丸まひるは、精神科医として現代の<こころの危機>の突端にいる。このことを織り込みながら作品集を読んだ方が理解がすすむということはある。でも、ここで強調しておきたいことは、そこで得た経験が本書においては十分に詩的に昇華されて表現されており、素材の生の衝迫力に支配されていないということだ。作品の持つ衝撃は、あくまでも作品の言葉から来る。この一冊は、相聞歌と作者の職業詠と言っていい性格の歌が混在する歌集なのだけれども、危機の現場から魂の詩的なレポートを届けているという点で、得難い真実性・リアルさを持っている。

 医師の歌というと、私の身近には重厚な思索派の歌人の渡辺良がいて、さらにその先には岡井隆の作品があって、これを田丸の歌と対照して読んでみたら、それなりにおもしろい論になるとは思うのだけれど、それぞれの世代には、それぞれの世代の課題があるのだ。一冊の歌集のなかで、田丸の世代の課題に向き合って読まれた歌はどれなのか、という観点からみた時に、やはり私の批評や読みは鈍るはずである。それは自分の仲間のもう少し共感力が高いひとたちに任せたいと思う。それで、私は定期的に読書会を行うことにして、私は私の興味の赴くままに語ればいいではないか、というような位置どりでいる。そろそろ作品の方にはいろう。

巻頭の六べージほど、特に何とも思わなかった。それが次の「可愛くて申し訳ない」の一連から、頭が慣れたというか、一気に引きずり込まれていく。この小題には、瀬戸夏子への挨拶があるかもしれない。一冊全体のなかにそういう要素が感じられる歌が散らばっているかとは思うが、私はそこのところは丁寧にトレースできる自信がない。こういうところは、現代における仲間同士の本歌取りと言っていいかもしれない。

こころには水際があり言葉にも踵があって、手紙は届く

脱ぎ捨てるものが足りない天井が鏡の部屋に逃げ込んだのに

 二首とも、「こころ」を詠んだ歌なのだ。そういう点を私は職業詠として読めると思う。

それなりのほどよい孤独ひとつずつふたりの夜の釦を外す

 二人の恋人たちがはだかになる場面だが、肉体と「こころ」の両方を重ね合わせながら「着衣」を脱ぐという、比喩の言葉のつなげ方が絶妙である。「ふたりの夜の釦」は、現代の掛詞であろう。

祈りとは家族映画に怯むときゆびのすき間に挟まれるゆび

雨は檻、雨はゆりかご 寒がりのきみをこの世にとどめるための

言い訳のところどころの関節が軋むつめたい夜のブランコ

 私が田丸まひるの歌に共感できるのは、比喩の材料となるものが、「夜のブランコ」や「ゆびのすき間に挟まれるゆび」というような確かな物としての手触りを持っているせいがあるだろう。心理的なものを扱う時に確固とした物体を持って来ることによって、イメージが焦点を持つ。

ほろほろと生き延びてきて風を抱くきみの感情のすべてが好きだ

 これに続く、詩とともに構成されている「あすを生きるための歌」の一連がいい。リストカットのある患者にむけて捧げた一連だ。生き難さに痛切に向き合うことの意味が、どきどきする心臓の鼓動となって、こちらに伝わってくる。

傷痕は表皮に残るだけというきみのたましいが終えるパレード

また明日を生きておいでよポケットのカッターナイフ光らせながら

 「ポケットのカッターナイフ」を「捨てよ」ではない。あくまでも「光らせながら」なのだ。これは感傷的な傍観者の立場ではない。ぎりぎりのところで相手を受け入れながら、危機の稜線に精神を均衡させる冷厳な目が、言い当てたこころの真実の<現前>の詩なのだ。

明け方のひとさし指はパン屑をぬぐい祈りの言葉をつづる

半年は死ねないように生き延びるために予定を書く細いペン

星ひとつ滅びゆく音、プルタブをやさしく開けてくれる深爪

こなごなだ。でも見えない。こころが硝子じゃなくてよかった。

ひとつまみの塩を小鍋に振るきみは冬に見つからないで生きてね

 ここでは、現代の若者の歌に共通するインフレ気味の修辞が、うまく事態の深刻さと調和していて、生き難いということの内実と修辞が支え合う関係にある。そこが脆弱ではないから、表紙の秀抜な絵のように、比喩の天使が羽根をはばたかせることができるのである。日本の文化の現在の到達点を示すものとして現代短歌が存在することを、この一冊は身をもって示している。    
  
※朝方に書いて、午後にまた文章を手直した。それにしても、こんな時代がやって来るなんて、私は夢にも思っていなかったのだ。


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