さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

『御供平佶歌集全四冊』

2017年06月04日 | 現代短歌 文学 文化
 私は父が旧国鉄の職員だったので、御供氏の作品は何やらなつかしい気がするのである。その父が亡くなったあと弔問に訪れた同僚や後輩の方々とはじめて会って印象的だったことは、私が日頃接している青少年や、文学系統の人々とはまったく異なった、技術畑の実務家たちの持つ雰囲気の明るさであった。ああ、こういう人たちと毎日一緒にすごしていたら父は楽しかっただろうな、と私は思った。あとは昭和二年生まれの父に接して常日頃感じていたことは、規律の感覚が身体化されている者の持つすがすがしさと、善悪のけじめがはっきりしていることである。だって自分がルールを外れたことをしたら事故になってしまうのだから、自分が責任を果たさなかったら人が迷惑するのだから、だらしないことはしない。不肖の息子は、二言目には「だらしがない」と叱られていたのを今思い出した。

御供氏の歌を読んでいると、昭和十九年生れの氏と私の父とではだいぶ年が違うのだが、やっぱりどこかで父の後姿を思い出してしまう。

 何と言っても、鉄道公安員としての仕事に従事していた時の歌がおもしろい。これは現場のリアリズム、職業人のリアリズムである。抑制された過不足のない言葉の運用で、きびきびと一瞬の出来事を捉えてゆく。まさに言葉はこうして用いるのだ、というような随所に行き渡った描写の冴えが、読む者を飽きさせない。

 ぴりぴりとわが青ざむる顔をすぎ彼の視線は鞄に坐る  『車站』

 バッグ割る指の見えし瞬間の充実の感替ふる何がある  

※「ゆび」に「えんこ」と振り仮名。「えんこ」は隠語である。

 次々と連続する行為を写しているから、結句にしばしば動詞が来る。それが囲碁の石を盤面にぱちんぱちんと打ちつけるような、言葉の活気を呼び込んでくるから読む方も夢中になって読む。むろん、こういう歌ばかりではない。特に妻や子供を歌った作品には佳品があるが、職場の歌には戦後という時代の空気が感じられるものが多くあり、今では忘れられつつある事件の背景を作者にはぜひ散文として書き残しておいてもらいたいと思う。不思議なほどに短歌は、その現場の雰囲気をまるごとつかんでいるために、得難い歴史の証言ともなっているのである。左右の政治的立場は、後から読む者にはあまり関係がない。現場にぶつかり合っていた者からすれば、同じ危機を共有している緊迫した場がそこにあったということだろう。短歌のリアリズムは、そこでは非政治的である。

 保護靴のなかにしびれて足があり六時間半立ちしわが足 『河岸段丘』

 かれがれて押すなの声はとどかぬか足よりずるずるすべり始めつ

 事件のなかで目に見えるものを歌うのは、比較的たやすい。でも、事件の中で自分の足元を歌うのは簡単なようでいて、実はむずかしい。この肉体の存亡の上に言葉が載っているのだということを、御供平佶の歌は常に踏まえている。この武人のような覚悟がどこで生まれたのかは、私にはわからない。三浦武による『冬の稲妻』の解説文にある若い頃からの「国民文学」での修養も関係があるのかもしれない。

 超越を心に重く年の過ぐ美学のくだり超えよわがうた 『車站』

 こういう歌をわれわれは、もっと懼れるべきだ。


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