時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

熱田大宮司家について その6

2007-06-08 05:30:16 | 蒲殿春秋解説
さて、長いこと大宮司の職は範忠の弟範雅の手にありましたが、
保元三年(1158年)になるとついに範忠が大宮司に就任します。

その保元三年ですが、つぎのような状況です。

2月 後白河天皇姉宮統子内親王(後の上西門院)が天皇准母として皇后に立后
   (同日 源頼朝(12歳)が皇后宮権少進に任官)
8月 後白河天皇が二条天皇に位を譲る

いかなる事情があって範忠が大宮司に就任できたのかが気になるところです。

さて、翌年平治の乱が勃発し大宮司家の婿であった源義朝が最終的には謀反人として死亡します。
けれども、その乱の数ヶ月前に大宮司家と義朝をつなげていた義朝室が既に死去しています。
平治の乱では「新古典大系版」の「平治物語」によると熱田大宮司家は援軍を出していないようです。(他本では援軍を出したように書いている本もありますが)
平治の乱の信頼・義朝の政治的立場は確執の生じつつあった後白河上皇と二条天皇のどちら寄りであったかは
未だに議論の分かれるところでありますが
その頃の熱田大宮司家はその義朝の政治的立場から少し離れた場所にあった可能性があると思われます。

その後も範忠らは後白河上皇の側にいたようなので
この乱において熱田大宮司家はなんの損害も無かったと思われます。

平治の乱の後、またまた事件が勃発します。

応保元年(1161年)
熱田大宮司の座は再び範雅の手に戻ります。
この時期、範忠は大宮司を辞めさせられたようです。

この年にある事件が起きていました。
九月に後白河上皇の皇子憲仁親王(母は平滋子)の即位を図ったということで
平時忠(清盛義弟)、平教盛(清盛異母弟)が解官されてしまいます。
恐らく範忠はこの時忠らの政治勢力の中にいたのではないのかと思われます。

さらに、翌年平時忠らが二条天皇を呪詛したとのことで流罪になってしまいますが
範忠も一緒に流罪になってしまったようです。

なぜ、範忠が平時忠グループの側にいたのでしょうか?

当時二条天皇と後白河上皇の間には深刻な確執がありました。
政界で勢力を伸ばしつつあった平清盛はその頃はどっちつかずの態度をとっていたようです。
さて、その頃二条天皇にはまだ皇子は誕生していませんでした。
その一方で、後白河上皇の寵愛を受けていた平滋子が皇子を出産します。
二条天皇に万が一のことがあった場合この皇子に即位する可能性もあります。

その憲仁親王生母の平滋子は時忠の腹違いの妹です。(ちなみに清盛の妻時子は時忠の同母姉)
また、滋子は元々上西門院の女房でした。
そのため上西門院に近い人々が滋子とその所生の皇子を支持していた可能性が高いと思われます。
平教盛はその母が待賢門院(後白河上皇・上西門院母后)の女房でした。
また、息子通盛と上西門院女房小宰相局とのロマンスが伝えられていることからみても、その後も教盛は上西門院に近い立場にあったということが推測できます。

そして範忠ですが、以前は美福門院寄りの立場だったようですが
1160年の美福門院の薨去、上西門院の権威の上昇
もともとの待賢門院ー上西門院に近い熱田大宮司家のトップの立場
そのような状況から
上西門院ひいては後白河上皇寄りになっていたのではないのかと推定されます。
そして、上西門院側近の教盛らとかなり接近していたのではないかと考えられます。

その結果、二条天皇側近からの攻撃にさらされることになり
大宮司解任→流刑となってしまったのではないでしょうか?

さて、範忠ですが暫くすると赦免されて都に戻ったようです。
その後はおそらく後白河院の北面となったと考えられます。



この熱田大宮司家と後白河上皇の関係は後に外戚源頼朝の挙兵後の政治的運動に多少なりともかかわりを持つと思いますが
その話はまた機会があったら書かせていただきたいと存じます。

PS.この記事を書いた後熱田大宮司家のことを詳しく考察されている論文を目にする機会がありました。
藤本元啓「平治の乱の熱田社」(『軍事史学』135号 1998.12)
です。2008.3.18

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