時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

中間解説11 頼朝の血統の地位Ⅰ

2006-05-19 22:47:58 | 蒲殿春秋解説
[源義朝] ブログ村キーワード
⑦為義ー義朝ー頼朝の源氏諸派の中の地位
保元の乱の第1陣の布陣を見ると
「清盛300騎、義朝200騎、義康100騎」とならんで表記されています。(兵範記)
義康とは誰かといえば
足利尊氏のご先祖様で足利氏の第1代目の人物です。
以前の私には当然義康は「河内源氏の傍流」だと思っていました。
このような人物が「兵範記」(公家の日記)や「保元物語」では清盛、義朝と同列に記されているのは
なぜだろうと思っていました。
しかし、よく考えてみると
「義朝が清和源氏全体の代表者」という考え方自体がおかしかったのです。
当時は同レベルの武士達が「貴族」として朝廷に仕えていました。
そして、頼政などの摂津源氏、光保などの美濃源氏などは独自に有力者に仕えていて
他武門や同族からの独立的な地位を保っていたのです。
官位が低迷し続ける為義ー義朝に比べると彼らの官界での地位、経歴は遥かに上を行きます。
そんな彼らが為義ー義朝に従っていたはずはありません。
保元の乱、平治の乱には彼らは独自の判断で去就を決め
為義や義朝の指示に従っていたわけではないのです。
ちなみに、平治の乱において最初信頼に同心して後に六波羅に走った源光保ですが
彼の娘は鳥羽法皇の寵妃でもう一人の娘は二条天皇の乳母。
光保自身も院の近臣です。
長いこと受領にも、五位にもなれなかった為義の息子義朝よりは遥かに官界では格が上です。その光保が義朝の指示に従うはずはありません。
光保が義朝を裏切って清盛についたという見方は適用できず
独立的立場にあった光保が自分の判断で信頼につき、形勢をみて
自分の政治的立場を考えて自らの判断で至極妥当に六波羅に走ったとみるべきでしょう。

つまり、保元の乱の時点では「義朝」と「義康」はそれぞれが独立した武士団で
それぞれの意志で後白河天皇に従っていたわけで
義康が義朝に従って出陣していたわけではないのです。
奥さんも同じ家からもらっています。(熱田大宮司家) 同格でしょう。
(もっとも、下野に所領のある義康は下野守義朝に対しては弱い立場だったでしょうが)


また、頼朝と同時期に甲斐で挙兵した武田氏も最初は頼朝と同格でした。
平家が水鳥の音を聞いて逃げ帰ったという富士川の合戦においては、
源氏方は頼朝・武田連合軍であり、
後の摂政九条兼実が書いた日記「玉葉」では
「甲斐源氏と平家の戦闘」と認識されていて、
頼朝と甲斐源氏は別個のものという印象があったのではないかと思います。

ですから、木曽義仲の息子義高に甲斐源氏の武田信光が縁談を申し込んだ
という「平家物語」の話も
頼朝、義仲、武田氏は同格だったのですから至極当然だったわけです。

しかしながら「吾妻鏡」は富士川の頃から武田氏が頼朝に従っていたという
書き方をするので
多くの人が武田氏が最初から頼朝の下風に立ったと思ってしまったのでは
ないでしょうか?

実際には木曽義仲が上洛するときには武田一族の安田義定が自分の判断で
義仲についていって、その後義仲とは同格扱いで院から恩賞をもらったりしています。
その後武田一族は頼朝に「同族だ」という態度をとりつづけていたようです。

武田一族が本当に頼朝の臣下扱いになったのは
頼朝が弾圧と懐柔を進めて彼らの力を相当削いでからのことです。

また、新田、志田などの源氏他流も頼朝とは同格でした。
新田氏にも頼朝が懐柔と圧迫をしました。志田は本編で書いていきます。

そして、源氏諸流を臣下に従えた後の姿を知っている我々は最初から
頼朝の系統が最初から源氏の代表者だと思い込んでしまっているのです。

その後押しをしているのが「吾妻鏡」です。
頼朝を押し立てて作ったのが鎌倉幕府。
いたるところで「頼朝の先例」を持ち出しつづけ
頼朝の妻北条政子と其の一族である自分達も正当化しなければならない
北条氏も「頼朝が嫡流で源氏の代表」であると主張する必要がありました。

*嫡流 その氏族の本家筋みたいなもの

前回 (つづき)

2006.5.19 初up

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