星を見ていた。

思っていることを、言葉にするのはむずかしい・・・。
良かったら読んでいってください。

休日

2007-06-02 23:32:36 | 休日
化粧を終えて階下に降りると、階段の足音で気がついたのか義母が廊下に出てきて「あら史帆さん、お出かけなの?」と聞いてきた。
「ちょっと買い物に出かけてきます。」「夕方までには帰りますから。」
 下駄箱から外出用のパンプスを出しながら、答えた。靴を履き終えると、玄関にある大きな鏡を見て全身をチェックする。まだ肌寒い気もするけれど、外にはほとんど出ないのだからこの服装で大丈夫だろう。
「そう。休みの日くらい家でのんびりすればいいのに。」「気をつけてね。」
 義母はそう言って、玄関を降りたところにある駐車場で、私が車に乗り込むまで見送ってくれた。義母の視線を感じながらエンジンを掛ける。クラクションを一回鳴らして、向かいの道路に滑り出た。
 畑ばかりの中を通っている道を走らせながら、何となく開放感を感じてしまう。私だって休みの日は家でのんびりしたいと思う。でも、あの家の空気は息苦しい。
 10分ほどで駅の駐車場に着いてしまう。駅舎とホームと線路と、駅前の小さなみやげ物店と一軒のコンビニ以外、見渡す限り目立った建物がない場所にある、だだっ広い駐車場に車を停める。あと5分ほどで電車が出発するはずだ。改札を抜けると、まだがらんとしている停車中の車内に入り、適当に空いた席に座った。始発の駅だが、平日のこの時間に席が埋まってしまうほどの利用者はいない。ボックス席の、進行方向を向く窓際に座った。
 勤めている小さな歯科医院の、休みである木曜日には大抵こうして出掛ける。特に買い物が無くても、用事が無くても出掛ける。大抵は一人だ。たまに実家の母と出掛けることもあるが、母もなかなか忙しいようである。兄一家と同居している母は、孫の面倒やら婦人会の会合やらなにやらで結構多忙な日々を過ごしている。休みが合えば以前は学生時代の友人や職場の友人などと出掛けることもあったが、次第に周囲の同世代の人は、結婚したり出産したり仕事が忙しかったりでなかなか会うこともなくなった。結婚しても子供が生まれるまでは一緒に旅行に行ったり飲みに出かけたりする友人も多少はいたが、気がつくと皆子育てに夢中で誘える状態ではなくなっていた。何時の間にか、私はひとりで行動することが当たり前のようになっていた。
 一息つくと持ってきていた文庫本を取り出した。図書館で借りた、3冊のうちの一冊だ。これを読み終わったら3冊とも読み終わるので、帰りによって返してこよう、と思う。図書館の、静まり返った空間を想像すると少し嬉しくなる。絨毯に足音が吸い込まれ、ひっそりとした空気の流れる図書館は落ち着く。このあいだ借りたいと思った本はすべて貸し出し中だったが、今日はあるのだろうか。本を開く前に窓の外をぼんやりと見る。緑が日に日に濃くなっていて、鬱陶しいくらいの濃さになっている。天気がいいので、空と雲のコントラストがはっきりしている。もう、夏の空になってきている、と思った。これからの季節は海岸の近いこの路線は、休日にもなると海水浴客達でごった返す。といっても逆方向に乗る私にはあまり関係ないが。賑わっている夏よりも、寂れた冬のほうが私は好きだ。ビーチサンダルを履いてノースリーブ姿の小さな子供達を見るのが、私は嫌なのだ。家族連れも嫌。夏休みも、嫌いだ。

 急行に乗ったけれど、目的の駅まではかなり遠い。それでも私は、その時間が苦にならない。もっと遠くへ行ってもよいとさえ思う。あの家にいるくらいなら、私は電車に乗っているほうがいい。時間が経過するのが早く感じるような、おおっぴらに何を考えていてもいいような、そんな時間だと思う。勿論、頭の中で何を考えるのも、それはどこにいたって自由なことに違いないのだが、ここのほうが余程落ち着く。私は私で、誰かの嫁とか、誰かの義理の娘とか、そんなことを考えなくてもいいような気がする。私だけの私でいられる。
 なんとなく、本を読む気になれなくて、ずっとそのまま外の風景を眺めていた。目的の駅に近づいてくるにつれて、駅前にマンションが多くなった。規則的にならんだベランダには、布団が干してあったり洗濯が揺れていたり、プランターから花が溢れるように咲いていたりと様々だった。電車に乗っているこちらから見ると、まるで文房具を入れるための、引き出しのたくさんついたキャビネットのようだと思った。こじんまりと区切られて、いろいろなものが入っている引き出し。コンパクトに物が納まる。私もあんな家に住みたかったのにと思った。
 浩平と一緒にマンションをよく見に行ったことを、まるで遠い昔のように思い出す。結婚して暫くたって、それほど安くないアパート代を払うのはもったいないと、なんとなく二人で思い始めてマンションを見に行くようになった。私はモデルルームを見に行くのが大好きだった。新聞の折込広告にチラシが入ると、日曜の夕方買い物に行きがてらモデルルームの見学に行ったりした。販売員が寄って来てあれこれ説明してくるのが嫌だったが、まだ資金面が不足だった私たちは、近い将来のためにということで気楽に見て廻った。私は、窓から海が見えれば、部屋は小さくてもよかった。でも浩平は、将来子供ができたら、子供部屋も必要になるだろうからと、最低でも3LDKはないとだめだよなと、当然のように言った。その頃まだ、子供のことなんて考えてなかった私も、そう言われるとそれも当たり前のことだと素直に思い、それからは3LDKを念頭にマンションを見るようになった。モデルルームの家具はたいていシックで落ち着いていてお洒落な雰囲気を醸し出していたけれど、私は浩平と、将来できるかもしれない私達の子供と、そして私の生活を、そこでぼんやりと想像したりしていた。
 ある日いつもどおり公告を見てからなんとなく訪れたマンションが、二人ともえらく気に入ってしまった。最寄り駅からも10分かからず、5階建ての、さほど大規模でないマンションだった。居間からは遠くに海が見えて、私はそれだけでもう満足だったけれど、まわりの環境も悪くなく、値段もそれほど馬鹿高くもなく、無理をすればなんとか頭金も捻出できるかもしれない、という状況だった。私の実家からも電車で数駅で来ることができた。
 今思えばあそこを勢いで買ってしまえば良かったんだ。何度もそう思った。なぜ躊躇してしまったのだろう。子供ができてからでも遅くないと、そう判断したのもあるし、それにお金のことで無理をするのは怖いからと、諦めたのかもしれない。大きな買い物を衝動的にしてはいけないと思っていたから、それで結局やめてしまった。その後すぐ、お義母さんが健康診断に引っ掛かって検査入院をする、という事態が起きて、そこから急に、お義母さんとの同居の話が進んでしまったのだ。

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