雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

単車事業との出会い  2

2024-10-04 14:26:06 | カワサキ単車の昔話

★ 川崎航空機工業と言う会社は軍事産業だということで戦後は事業を中断されていたのだが、昭和28年(1953)にようやく再開されるのである。
戦時中はその名の通り飛行機を造っていたのだが、明石工場がエンジン、岐阜工場が機体だったのである。
 そんなことで再開された川崎航空機の明石工場では農業発動機などの小型エンジンの生産が中心だったのだが、その中の一つに当時のメイハツ工業が生産していたバイクのエンジンを提供していたのである。

カワサキオートバイ70周年」として言われているのは、この明発工業スタートから70周年なのである。


 


  そんなカワサキが単車の一貫生産を明石工場で始めたのは、昭和35年(1960)のことなのだが、
 広い工場敷地の南に新しく「単車工場」が建てられ「テストコース」も工場内に新設されるのである。

 
  


★ 新しく単車営業課も新設されるのだが、私がその新しく出来た課に異動になったのは昭和36年(1961)12月のことで、
入社して4年と6か月というまだ新人時代と言ってもいい時期なのである、
一応、部長・次長・課長・掛長と上司はいたのだが、どなたも全く「単車事」など初めての経験で、誰も何も解っていないのである。
 当時はカワサキ明発工業から「カワサキオートバイ販売」となった国内販社があって「単車営業課」はそこに単車を販売している部門なのだが、 
 現在の職制で言うなら事業本部の開発・生産を除いた部門で、営業と言いながら品質保証機能のサービスも含んが所謂「企画・営業」部門なのである。
 現在は多分数百人の陣容だが、当時は課員は私以下サービスもいれて、7人ほどだった。
開発・生産以外のことはすべてホントに「何でも担当」で滅茶苦茶忙しかったのである。
加えて、物品税などと言う余分な仕事もあって、今思うとホントによくやったなと思うのである。
それは係長以上の上司もよく認めてくれていて、その当時の考課は抜群で、
ボーナス」なども最高だったのだが、その額は手取りで53000円だった。
 そんな時代だったのである。

★私自身は以降40年間「単車一筋」で定年まで勤めたのだが、その間単車事業は日本からアメリカ、ヨーロッパから更には東南アジアのCKD事業と世界に拡大していくのだが、
 そんなことでスタート時代からカワサキの単車事業と共に歩めたのは非常に幸いなことで「素晴しい現役生活」だったと言えるのである。
 




 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« パソコンの画面 | トップ |   
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

カワサキ単車の昔話」カテゴリの最新記事