「岩城良三さんの思い出」
「隣国の兵は大なり、その武器は豊かなり、その武勇は優れたり、然れども指揮の一点譲るべからず。」
当時のカワサキにとってホンダ、スズキ、ヤマハはまさに大国であった。
訓示の最初に必ずこの言葉から入られた、岩城さん。 常にに強烈なリーダーシップを発揮された。
岩城常務が自ら単車本部長に就任された1965年4月、単車事業本部制がスタートし本格的な単車再建がスタートしたと言っていい。
この時点から販売促進部門はカワサキ自販に全員が出向となった。
広告宣伝とレースを担当していた私もその一員として参加した。
岩城さんはこの年の10月には、カワサキ自販の社長も兼務され、社名もカワサキオートバイ販売となった。
レースや広告宣伝にも非常に関心を示され、具体的な指示も直接受ける機会が多かった。
怒られたことも多かったが怒り方がすっきりしていて、気持ち良かった。
レース運営委員会を設置され、本格的なレース運営が可能になった。
当時の委員会のメンバーは、守田、山田、苧野、堀江、中村、高橋、渡部、大槻、安藤と事業部の主力が顔を揃えた強力なものだった。
事務局を担当したが、下部組織の小委員会には、田崎、水町などのイキのいい若手がいた。
カワ販の社長も兼務された岩城さんは、直ぐ各地の現場を回られ、東北では現地の社長連から仙台に事務所の新設を提案され、「即答をされた」とその時お付で出張していた八木君に聞いた。
「それは、えらいことだな。誰が行くことになるのか。」と彼と雑談していたが、まさか私にお鉢が回って来るとは、思いもしなかった。
その後この話が具体化して決まったとき、岩城さんはわざわざ私の席まで来られて「ご苦労だが」と仰って頂いて本当に恐縮したのを想い出す。
「指揮の一点、譲るべからず。」の教えは、ずっと守ってきた積りである。
「隣国の兵は大なり、その武器は豊かなり、その武勇は優れたり、然れども指揮の一点譲るべからず。」
当時のカワサキにとってホンダ、スズキ、ヤマハはまさに大国であった。
訓示の最初に必ずこの言葉から入られた、岩城さん。 常にに強烈なリーダーシップを発揮された。
岩城常務が自ら単車本部長に就任された1965年4月、単車事業本部制がスタートし本格的な単車再建がスタートしたと言っていい。
この時点から販売促進部門はカワサキ自販に全員が出向となった。
広告宣伝とレースを担当していた私もその一員として参加した。
岩城さんはこの年の10月には、カワサキ自販の社長も兼務され、社名もカワサキオートバイ販売となった。
レースや広告宣伝にも非常に関心を示され、具体的な指示も直接受ける機会が多かった。
怒られたことも多かったが怒り方がすっきりしていて、気持ち良かった。
レース運営委員会を設置され、本格的なレース運営が可能になった。
当時の委員会のメンバーは、守田、山田、苧野、堀江、中村、高橋、渡部、大槻、安藤と事業部の主力が顔を揃えた強力なものだった。
事務局を担当したが、下部組織の小委員会には、田崎、水町などのイキのいい若手がいた。
カワ販の社長も兼務された岩城さんは、直ぐ各地の現場を回られ、東北では現地の社長連から仙台に事務所の新設を提案され、「即答をされた」とその時お付で出張していた八木君に聞いた。
「それは、えらいことだな。誰が行くことになるのか。」と彼と雑談していたが、まさか私にお鉢が回って来るとは、思いもしなかった。
その後この話が具体化して決まったとき、岩城さんはわざわざ私の席まで来られて「ご苦労だが」と仰って頂いて本当に恐縮したのを想い出す。
「指揮の一点、譲るべからず。」の教えは、ずっと守ってきた積りである。
岩城良三さんには個人的にもお世話になりました。妹の仲人もお願いしました。私が入社したころの総務部長さんです。
私は砂野仁さんのコネで川崎航空機に入社しましたので、そんなこともあって岩城さんにはいろいろお世話になったのかと思っています。