★昭和36年(1961)カワサキが単車事業を始めた時から、
新しくできた単車営業課に異動したのだが、
昭和40年(1965)からは当時のカワサキオートバイ販売に出向して、
広告宣伝課・レースを担当し、
昭和42年(1967)からは仙台事務所を創って東北6県の代理店担当をしていた。
昭和46年(1971)からは大阪母店長として近畿を担当、
翌昭和47年には中日本営業部長、直営部長と兵庫から東京・北陸まで、
国内市場の中枢を担当することになったのである。
ほんとに目まぐるしく動いた10年だったのだが、
昭和48年(1973)からは大阪で新しく特約店制度をスタートさせ、
日本の二輪業界では初めての二輪車専門販売店網を設立したのである。
これは二輪業界の中でカワサキだけが50ccを持たなかったので、
当時の50㏄を量販するホンダ・スズキ・ヤマハとは差別化した独特の販売網で、当時では非常に珍しいことだったのである。
そんなことで二輪車新聞でも一面TOP記事で紹介され、
その全国展開を図ることになって、
たまたま当時新築していた三木の家に引っ越しすることになり、
勤務地も大阪から明石の本社勤務となったのである。
そして昭和48年(1973)10月からは企画部長として、
全国の販売網の担当となり、特約店制度の全国展開に直接あたることになったのである。
★昭和49年(1974)には、東北、北陸、中国、九州など地方の特約店制度も完成し、ほぼ全国展開となったのである。
そして翌年昭和50年には、最後に残った群馬・栃木・広島などの特約店制度を完成させて、
10月には10年間のカワサキオートバイ販売へ出向を終えて、
川崎重工業の単車本部企画部へ復職することになるのである。
カワサキオートバイ販売では、ほぼ10年前から課長と呼ばれ、早い時期から部長、それも東京・名古屋・大阪と言う太平洋メガロポリス地区の担当など大きな仕事を担当したのだが、
川重の企画に戻てみると『課長』だし部下も5人ぐらいのホントに世の中の「課長」に戻ってしまって、何か拍子抜けしたような感じになったのである。
★個人的には、昭和49年(1974)41歳の時にゴルフを始めている。
始める時期が遅かったのだが、仕事が忙しくてゴルフどころではなかった時期が続いたのである。
ゴルフも始めると結構一生懸命練習もしたのだが、野球をやってたので『止まっているボールを打つなど簡単』と思っていたが、なかなかそう上手くはいかなくて、
半年後の初ラウンドでは64・65・54と大叩きだったのである。
その後もゴルフの練習は一生懸命やったのだが、なかなか進歩せずに、
80台で廻れるようになったのは5年後からで、
その頃には播磨カントリーのオフィシャルハンデーが10になったのである
これはさらにもっと後だが、
この頃が一番いい時代で、たまには70台で廻れたりしたのである。
何でもやりかけるとハマってしまう性格は、
息子や娘もそっくりで二人とも子供のころから運動は得意分野だった。
この当時は息子は小学生の5年、6年当時だが、
サッカーの三木代表チームにも入って兵庫県大会で優勝したり、
関西のトレセンに選ばれたりしているので、
私もこの当時は息子のサッカーを追っかけたりしていた。
娘のほうは、私が不得意だった長距離走が得意で小学校から中学校までずっとマラソン大会は優勝が定位置だった。
そんなことで、この時期の日記には子供たちの記述も多いし、
魚釣りにもメチャ熱心で鮒釣りの記述がいっぱいなのである。
この三木の家も建てたばかりで、毎年支払える金の範囲で造園もやっているし、
40代前半、私もやはりまだまだ若くて元気な時代だったのである。