★ ふとテレビをつけたら、BS日テレで『ルマン24時間の実況生中継』をやっていた。
Kawasaki はどうかな?と思ったら、車番11番のKawasakiがTop で、車番111番のホンダが2位なので、俄然「見る気」になったのである。同じみるならテレビの画面を写真に撮って、Facebookに流したら、実況放送になるなと思って、最初に流した場面がこれである。
2時間を残す時間帯なので、まともに走れば優勝か2位という状況だったのである。
Top を走っていたのだが、1時間半前にピットインしたら、ホンダに追いつかれて、抜かれてしまったのである。
ただ、ホンダもピットインするだろうから、そんなに気にすることはないと思っていた。
約1時間を残して、今度はホンダがピットイン。
その間に、Kawasaki が再び Top に立ったのである。
Top を走っていたKawasaki だが、もう一度ピットインして、最終ライダーにチェンジ、コースに戻った時は2位だがホンダとは17秒差、最終ライダーはKawasaki の3人のライダーの中では、一番タイムがいいようで、ホンダとの差はどんどん縮まって同じ画面に入るようになったのである。
この時点あたりから現地に行ってる北川圭一くんの解説が始まり、ホンダはこのまま走るのか?もう一度ピットインするかが『非常に微妙』だというのである。
北川君は、山科カワサキの吉川健一さんのチームにいて、ヨシケンに頼まれて私が当時のチームグリーンに紹介したこともあって、いろんなライダーの中でも、私は特に近かったのである。
スズキに移籍してからさらに飛躍して世界チャンピオンになったりしているが、MFJの会合で久しぶりに会った時も『昔のままの北川圭一くん』で、先方から私を見つけて挨拶に来てくれたりした。その時私は北川が世界チャンピオンになったとは知らなかったのである。横にいた金谷秀夫が『今は北川が一番や』などと言ってたが、ホントにナイスガイである。
17秒差から追いついたちょうどその時点で、コースにオイルがこぼれて、セーフティーカーが入り、スロー運転が続くのだが、10分ほど前に再開、すぐKawasaki がトップに立ちその差は逆に開いていくのだが、レース終了直前に、ホンダはピットインして、Kawasakiの優勝が確定したのである。
耐久レースとしては、稀に見る息詰まる思いの迫力ある『レース展開』だった。
あっという間の2時間だったのである。
名前は知らないが、こんな3人のライダーたち。
表彰台の真ん中にいるのは気持ちがいい。
2位はホンダ、3位がスズキ だった。
★Kawasaki と耐久レースと言えば、Kawasaki France に遠藤治一さんがおられたころ、ヨーロッパの耐久レースでは『常勝カワサキ』の時代が長く続いたのである。
90年代の初めころで、日本でも鈴鹿8耐が最高の時代だったのだが、そんな『フランス・チーム』でも、高速耐久の『鈴鹿8時間』には、通用しなかったのである。
8時間と24時間では、同じ耐久レースでも、ちょっと違うのかも知れない。
日本でも、1964年に『鈴鹿24時間耐久』は一度だけ開催されたことがあるのだが、いろんな問題があって、その1回だけで終わってしまったのである。
ちょうど、その頃、私はMFJの運営委員をしていたので、カワサキは出場していなかったが『鈴鹿の現場』にいたのである。
24時間走ると『鈴鹿から香港までの距離を走る』ことになるなどと開会式の挨拶で言われたりして、確か午後5時スタートで、翌日5時のゴールだから、やはり8時間耐久とは、別物なのだろう。
こんな記録が残っている。
テレビのお蔭で、久しぶりの『二輪レース』を堪能した2時間だったのである。
いま、Facebook でお付き合いのある、多田喜代一・塚本昭一・宗和孝宏の日本人トリオが、1989年のフランス、ル・マン24時間耐久に参戦し3位表彰台にも上がっているのである。
レースの世界に幾らかでも関係したお蔭で『レース界のいろいろ』が懐かしい想い出として残っている。
沢山の方から『いいね』を頂いた 2019年4月21日の『ルマン24時間Kawasaki 優勝』も直接には関係はないのだが、忘れることは出来ない想い出として残るのだろう。