★昨日、大学の野球部のOB会のゴルフコンペのことを書いた。
その打ち上げ会の席上で、幹事の川口君がこんな神戸高商・神戸商大運動部のことなど書いた16ページにわたる文章を渡してくれたのである。
読んでみて、不思議なほど私も関係のあることが書かれているので、ちょっとその感想を纏めてみたい。
★この文章を纏めているのは、ラグビー部の学部7回卒の野田五郎さんで、よく知っている。
私も学部7回卒にはなっているのだが、大学に5年行ったので野田さんはホントは1年後輩、私はOB会会長をしている滝川博司さんと同期の学部6回の年次なのである。
卒業後も野球部とラグビー部のゴルフ対抗コンペなどあったので、その幹事役もしていた野田さんをよく知っているのである。
この冒頭の文章に『宇治電』とか『田口政五郎』さんの名前が出てくる。
『宇治電』は山陽電車の前身だが、その設立には当時、電力事業をやってた祖父が関係していたようだし、私は明石で生まれ、本籍も明石で、戦後は朝鮮から戻ってきて、田口政五郎さんは私の高校・大学時代の市長さんなのである。
そのあと、各運動部のことが書いてあるのだが、戦前・戦後は神戸高商は、結構野球は強かったようである。
ここに出てくる久留島良三さんは、私にとっては明石高校・神戸商大とも野球部の先輩で、久留島さんが全日本代表に選ばれたころのメンバーは華やかで、後タイガースに入った別当薫さん、後藤次男さんなどもいた。明石球場で試合があったりしたので、私は中学生だったが、久留島さんの現役時代を知っているのである。
★そのあとに出てくる 小山修身くんが神戸商大に入学してきた年は、実は私は5回生で野球部の監督をしていたのである。
ホントにたまたまだが、先日巨人の菅野投手の連続無失点の話題があったので、それにひっかけて『書いたブログ』をもう一度再掲してみる。
★ 実は私自身は、『連続完封』をやったわけではないが、1年間神戸商大の大学野球の監督をやってた時代に、当時1回生だった小山修身くんが『53イニング連続無失点記録』を達成してくれたのである。
点を取られなければ、『野球は勝つ』と言っていい。 だから『野球はピッチャーだ』と思っている。
この小山投手のことを ずっと昔に、こんなブログで紹介している。
http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/d21821198f26da39c70d83cfbe7c6d12
ちょっとはしょって紹介すると、
大学の5回生の頃である。5年大学に通った。卒業できなかったわけではない。
卒業を1年延ばしたのである。・・・・・・・・
野球部のキャプテンをやっていたが、満足できていなかった。
もう1年延ばして監督をと野球部長に奨められたりした。ちょっと身体を壊したりしていて、それも理由の一つであった。
結局、野球部長のゼミだけ残して、卒論を書かずに残留して野球部の監督をしたのである。・・・・・・・・
秋のリーグ戦のことである。
1回生の投手小山修身君が凄い記録を作っている。これは、意識的に『造った記録』である。
11月2日市大戦。7-1で勝つ、小山完投、ここからスタートしている。
1週間空いて後半戦
11月7日市大戦。2-0と快勝した。
11月8日工大戦。1-0で勝利、小山の連投で順調にリーグ戦を立ち上がった。
11月9日工大戦。0-09回引き分け、3連投である。
ここまでは、惰性できた。3連投も凄いし無失点も凄い。前週の市大戦からだと29イニング連続無失点である。
7-1と1点を取られた1点もエラーからだから、36イニング連続無自責点である。ひょっとしたら『新記録ではないか』と思った。
ここからは正直記録を意識した。本人もひょっとしてチームメイトも記録については知らなかったと思う。
翌日の経大戦は『行けるところまで』と記録を意識して小山でスタートした。
11月10日経大戦。4-0 9回2,3塁の危機を見逃しの三振で完投完封。
そして翌週、ここまできたら小山しかない。
11月14日経大戦。4-0とまたも完封勝利。5試合無失点である。
11月15日薬大戦。13-3ここで記録は途切れた。
小山修身君の記録は53イニングス連続無失点61イニング連続無自責点である。
薬大戦の1点目も野手の悪投によるもので自責点記録は更に2イニング伸びて61イニングだったと思う。
これは、間違いなく学生野球の記録で、たぶん今も残っているのではないだろうか。
少々、無茶苦茶だが連日連投、記録の間一切他のピッチャーは投げていない。
小山君とは今でも家も直ぐ隣町で、年に何回かゴルフもするし野球部のOB戦でもお会いする。
この話も昨年出た。彼は記録のことは途切れるまで知らなかったと言う。
昔はホントに記録など眼中になかったのである。
明石高校の頃、チームが夏の予選で灘校相手にパーフェクトゲームをやったが、試合終了後球場の『この試合は完全試合でした』というアナウンスで初めて知った。
同期の溝畑圭一郎投手である。
そんな時代だった、当時は新聞などでも取り上げられなかったと思う。
もう50年以上も前である。