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Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

ヨーロッパキャンプ旅行ードイツ Ludwigsburg

2025-06-30 21:04:41 | 旅行

ワインフェスティバルでにぎわうキャンプサイトで一泊した後ライン河をよこぎって東へ向かう。最終目的のギリシャ以外の観光案内書を持ってこなかったので、ドイツの何処が見所なのか判らない。キャンプサイトを探してStuttgartへ行く途中Ludwigsburg へ寄ってみた。


小さい町だったらしく初めに見つけた駐車場にキャンパーを停め、町の中心に向かって5分も歩くとタウンスクェアーに着いた。
土曜日のマーケットが開かれていて新鮮な野菜や果物があふれて居る。あせりの亭主と一緒だとゆっくり見て買い物をする時間がない。

見つけた観光案内所で聞くとすぐ近くにLudwigsburg宮殿があるというので行って見た。宮殿の中庭でフォルクスワーゲンの自動車ショーを開いていて珍しいスポーツカーや例のカブトムシ型がずらっと並んでいた。

 

 

団体行動を嫌う亭主は一時間のガイド案内を嫌がり私一人で見てこいというので、英語圏から来た観光客20人くらいとぞろぞろ歩き回り写真をとりまくった。

 

 

この宮殿は18世紀の貴族の館で18棟に452室を容するという。300年前のこの辺りは深い森に囲まれ,この近く2つの狩猟のための別荘と併せ持ってドイツの中流貴族が出入りしていたとのことだった。王族でなくても貴族でこのような豪華絢爛、搾取されたであろうその当時の平民農民の生活はいかがであったろうと思ってしまう。

フランスの宮殿だと言われても信じるくらい豪華絢爛。

その反面このような富の集中がなければ現在のような芸術、文化は生まれなかったであろうとも考えた。上の写真は色石を集めて作ったテーブルトップ。下の芸術作品のような裏庭も感嘆に値する。


ドイツの9月といえばオクトーバーフェスト(10月祭)の始まりで,町の通りのデコレーションや宮殿の庭の飾りも,かぼちゃやスコッシュをつかった珍しいもの。

 

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2009年 ヨーロッパキャンプ旅行

2025-06-30 18:14:28 | 旅行

秋晴れの良い天気、たった一晩泊まったベルギーのキャンプサイトを早々に出発し、河に沿ってDinan まで行きまた高速道路でルクセンブルグの環状線からドイツに向かった。
ドイツの高速道路アウトバーンはいつ行っても素晴らしい。もちろん英国と同じでここも無料、この日は地図とキャンピングBook をにらめっこでライン川の西Bad Durkheim へ行くことにした。

 

高速から田舎道にはいっていくつかの町を通った。どの町も通りの上はぶどうのつたが這っていてワインを売っているお店が多い。郊外はきれいに並んだぶどう畑でそれ以外の作物は見かけられない。

探しに探して行ったキャンプサイトはブドウ畑の真ん中にあり料金も30.4ユーロとびっくりするくらい高い。聞けばこの週はここ地域一帯のワインフェスティバルだと言う。キャンプサイトも今まで見たことのないくらいの広大さ、サイトの真ん中を走る2車線道路の両側にはぶどうのつるが這っていてグリーンと紫のぶどうが熟れている。

トイレやシャワーの設備が完備してよごれも見えない清潔さ、こんなブロックが4箇所もあり千人位のキャンピング収容人員も大丈夫なようすだった。
キャンプ場の周りを散歩してみたがブドウ畑ばかりで町へ歩いてゆくには遠く、キャンプサイト入り口に飾ってある巨大なワインの樽が一番印象深い。

 

 

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2009年 ヨーロッパキャンプ旅行

2025-06-30 16:47:02 | 旅行

2009年3ヶ月のヨーロッパキャンプ旅行に行き、ブログはこれと違って新しくreikoh1944で書き送った。今回此のブログがクローズするにあたって新しく編集し直して次のブログ(はてな/アメーバ)へ移行できることを願っている。此の旅行では ベルギー・ドイツ・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・ギリシャ・イタリア・フランスの各地田舎を回ってきた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

9月9日午後慌しく我が家を出発した。インターネットや東ヨーロッパの観光案内所で情報を集めた結果、ほとんどのキャンプ場は9月末で閉まるところが多いと判り、あせってしまった。
我が家からドーバーまでは73マイル、明朝9時のフェリーに間に合わせるためにこの夜はフォークストンのキャンプサイトで一泊し、翌朝6時過ぎに起床、7時半には港でフェリーに乗るために行列を作っていた。

 

ドーバー・カレー間はフェリーで1時間半、そして英国・フランス間には1時間の時差があるため、カレーからベルギーへの高速道路に乗ったときは12時になっていた。

 

ベルギーの高速道路は無料でオステンド、ブルージュ、ゲンツ等をスムーズに通り過ぎ、ブラッセルで環状線に乗るべきがどうしたことか町の真ん中に入り込んでしまった。ブラッセル大聖堂の周囲の緑の多い公園から左に折れて数人の人に聞いて走り回った挙句、1時間半後にはまた同じ大聖堂の後ろに広がる公園にたどり着いてしまった。あせりの亭主はない髪をかきむしる勢いで怒っている。

やっと元のところから環状線を見つけてブラッセルを抜けNamur まで60Km、そこでも迷っておまけにキャシュマシーンが見つからず、親切な女性に車で先導してもらった。キャンプサイトも迷ってあちこち聞いて周り、やっとたどり着いたときはポールは疲れ切っていた。(ポール78歳)

上の写真はDinan 城とRiver Meuse (ムース川)でまるでライン川を見ているよう、ここからルクセンブルグへ向かった。

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20年ぶりの日本ー帰国

2025-05-10 01:39:32 | 旅行

帰国2日前、 以前英国で親しくしていた日本人女性でもう10年も前日本へ帰った友達のフラットで一泊した。彼女はご主人が亡くなって、子どももいなかったから、老後を英国で過ごすのは辛いと言って、帰国したもの。大きなお家を売って帰ってきたから、とっても素敵なフラットにゆうゆう自適で生活している。

そしてその翌日、この10年の間に帰国した日本人女性たち3人(私を入れて5人)と銀座でお食事。

皆とっても元気で、最高年齢86歳、今でもチャリティの仕事をしていると言う。彼女たち英国では独身で、定年まで働いて、住んでいた家を売って帰国した人たちばかり。ちなみに英国の家は毎年バリューが上がっても下がることがないから、皆日本で高級老人ホームや日本の家族とゆうゆう暮らしている人たちばかり、そしてみんなとっても元気だ。

長い間外国暮らしだと、日本での生活に色々障害が出る。私が泊まったフラットの友達もまる1年は電車のチケットの買い方もわからなくて困ったそうだ。

韓国料理で舌鼓を打った後、銀座のコーヒーショップでおしゃべりに夢中。もう何年も会っていない友達とは思えないほど、誰も変わっていない。

 

とうとう3時過ぎ、皆と別れて羽田空港へ行くことになった。翌朝の出発が7時50分、早朝だから羽田JAホテルに予約した。

とってもいいホテルで、日本に着いたときに泊まった品川ホテルとは段違い、同じ料金を払ってこんなにも違う。(1万9千円)

翌朝5時のシャトルバスで羽田空港第3ターミナルへ行き、預けてあったスーツケースを受け取り、すぐチェックインカウンターで2個の重いスーツケースを渡してしまった。

身軽になって空港の中に入ってしまうと、JALのラウンジで無料の朝食。和食に洋食あらゆる食べ物がでていて満足するまで食べた後、サッポロビールを2杯も飲んだ。

 

 

搭乗したのに出発が遅れ、8時40分くらいやっと出発、私の横3席には若い日本人夫婦と1歳4ヶ月の男の子。この子が眠るまで夫妻は眠れず、私も眠れなかった。

13時間後フィンランド・ヘルシンキに到着、本来ならばついた1時間後にはロンドン行きの飛行機で、夕方5時5分にヒースローにつく。ところが出発が遅れたばかりに、乗るべき飛行機はでてしまい、ヘルシンキの空港で4時間も待たされてしまった。

15ユーロのヴァウチャーをくれこれでパンと水を買って夕食。ロンドンについたのは9時近く。トータル20時間を飛行機と空港で過ごしたことになる。

4月18日は英国では休日Good Friday という。日曜日がイースター(復活祭)だからこの夜迎えに来てくれたパトリックとジュードは車で我が家まで送ってくれた。

11時に我が家に着いた。パトリックは空港から家まで1時間で来れたなんて新記録だと驚いていた。それくらいこの休日の夜は車が少なかった。

 

 

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20年ぶりの日本ー能仁寺と飯能博物館

2025-05-07 05:12:54 | 旅行

 

この立派な山門、従姉妹はこのお寺の檀家で、お寺の人たちとは顔なじみ。

山門を通ると片側は素晴らしい竹林。

中雀門から正面に本堂が見え、その右側に鐘楼。

もう10数年昔、娘とパトリックが飯能へやってきて、お正月を従姉妹の家でお世話になった。その時除夜の鐘をつきに行ってきたとパトリックから聞いていたとおり、この鐘だったそう。

このお寺のはじめは室町時代1501年というから古い歴史あるお寺だ。

能仁寺北庭は池泉鑑賞蓬莱庭園として桃山時代の作風と推定され日本名園百選に入っており、東日本の代表的な名園と言われている。(この寺院の案内書から抜粋)

飯能の武将中山家勝がこの地に名僧斧屋文達師を招いて少庵を結んだところから、家勝の息子が本格的な寺を創建、家康の庇護のもと江戸中期から50人もの雲水を抱える禅道場として栄えた。1868年の飯能戦争でほとんど焼却、昭和9年から再建されてこんにちに至る。

さすが素晴らしいお寺だ。

さて次に行ったところが飯能博物館。

すごーい!!! 英語で書いてあってびっくりした。

茶甕は挟山茶を入れて貯蔵や出荷するときに用いられたもので、木製の蓋をし、使い古した和紙を重ね鍼して防湿した。

知観寺板石塔婆 は埼玉県指定文化財で、鎌倉時代(1242年)墓地に並べられた物と言う。1298年のものと3基ならんでいた。

 

飯能の祭りの色々、

1830年頃に始められた陶器生産は真能寺村原(現飯能市八幡町)に窯が築かれ、片手鍋など江戸へ多くが出荷されていた。明治20年ころに廃業された。

木造軍荼利明王立像は平安時代の作で国指定重要文化財。この仏像は髪が逆立ち憤怒の相をして山岳修験寺院にふさわしい雰囲気を醸している。(説明書から抜粋)

埼玉県内最古の仏像。

雲板(1313年)は修行の開始を知らせる合図に打ち鳴らしたもの。

山仕事の道具の一切。

こうしてこの博物館を一巡してみると飯能が歴史に残る重要地であったことがわかる。とってもいい街だと思った。

 

 

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20年ぶりの日本ー下田

2025-05-06 01:31:43 | 旅行

従姉妹の昨年なくなったご主人は下田の田舎出身、4人兄弟の末っ子に生まれ、彼だけが学校の先生として埼玉で働いていた。ほか3兄弟は下田で働いていたが上2人がすでに亡くなり残るは3男だけになってしまった。

今回従姉妹は彼女の長男夫婦の車で下田の親戚へ行き、その後下田の山奥のひなびた観音温泉へ行く計画。

 

 

 

晴天のこの日、青梅街道から南西に向けて高速道路を走る。桜が咲いて木々の若葉がとってもきれい。

このあたり雑木林に、竹藪が多く

その間に山桜がさいている。  

英国では決して見られない風景。

下田近くの道路は急な坂道を降りるすごいエンジニアリングワーク。

静かな田舎の通りに出て、従姉妹の親戚のお家に着いた。

 

すごいごちそうで大歓迎。そこの家族が昔私の息子が10歳の頃日本へ一人で行ったときに、このお家で遊んだらしく、息子を覚えていてくれた。

このお家はまだ日本のトイレが今現代のようになってない頃、すでに洗浄や温風のシステムが有り、それが面白くてトイレを水浸しにして遊んでいたそうな。

山の中の墓地で従姉妹の家族は墓参り。墓誌は江戸時代から書かれていて、古い家柄だと知った。

お食事を終わって今度は山の中へ入っていく。この観音温泉は地元の人も行ったことがないそうであまり知られていないとのこと。従姉妹がここを知ったのは、温泉キチガイの友達が、下田ならこの温泉と勧めてくれたおかげですばらしい良いお湯だった。

温泉の外では梅干しを干していた。

温泉の庭にはナンジャモンジャの木が花盛り。

そして珍しいコウゾウの花。

お湯はすべすべしてまるでジェリーのようだった。

お湯をでた後、梅干しとお茶をいただいて飯能へ帰っていった。

夕暮れには未だ間のある高速道路を走っているときに左手に大きな富士山が見えていた。

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20年ぶりの日本ー埼玉・飯能

2025-05-05 03:33:47 | 旅行

飯能は子供たちが小さいときに連れて行って、あのきれいな川で子供たちが水遊びをして楽しんでいた記憶しかない。

今回丸一日従姉妹は飯能の川べりから街や博物館お寺まで連れて行ってくれ、飯能がとっても素晴らしい歴史のある街だというのが良く判った。

街路樹のハナミズキ、白と赤が有って今花の咲きはじめ。

グリーンの広場を取り囲む桜並木、いろいろな種類の花が競っている。

通りかかったお家に咲いていたボタンの花は我が家のよりも極端に小さかった。写真を撮ったらその家の奥さんの喜んだこと。

 

水のきれいなこと、英国では見られない。

ムラサキハナナがあたり一面に咲いていた。

真っ赤なツツジ。

 

従姉妹が飯能の秘境と呼ぶ静かな谷間。

ワイルドな山吹の花。

此の川水は下流の町(東京)の飲水になるのだ。割岩橋という橋

橋の近くのお地蔵様

きれいに咲きだしたハナミズキ。

豆の花ににている英語名はジューダスツリー 日本語ではなんという?

さすが歴史のある街、寺院が多い。

 

 

こんなに多い寺社仏閣、たまに訪れる人々の賽銭とお祭りの上がりでは、どこもやっていけないだろうと思うのは、わたしだけだろうか? 

 

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20年ぶりのニッポンー埼玉・名栗温泉

2025-05-04 22:13:29 | 旅行

金沢の5日目午後小松飛行場から羽田へ向かう。午後2時55分発というのを、14時55分を見て4時発と勘違い。1時半に姪が車で迎えに来て、ゆうゆう時間があるからと、確認したらぎょっとしてもう間に合わん。

姪が100kmで飛ばしてくれて金沢小松間を20分ぐらい。感謝!!感謝!!!2時過ぎには空港について、大きなスーツケース2個は無料で引き取ってくれた。

羽田空港には4時過ぎ着、埼玉の従姉妹が迎えに来てくれていて、一番大きなスーツケースは空港の長期荷物置き場に預けて、二人で埼玉県の飯能市まで電車3回乗り換えて着いたら7時だった。

翌日午後雨模様の田舎町を飯能の山奥へ向かって従姉妹が運転してくれた。

山や道端にまだ咲き残った桜が咲いていたり巨大な紫ピンクのツツジが目にも鮮やか。

着いたところが本当に山奥の名栗温泉という。

温泉玄関先はこんなお土産がズラリ。

建物の天井は吹き抜けの明かり取り?

入浴後の休憩室がゆったりしていて昼寝もできそう。

温泉はもう何年ぶり?20年前は兄の看病とお葬式に来たから温泉へ入った覚えがない。お湯は満ち溢れる大きな風呂に入って、野外の小さな岩風呂へ入っていたら近くで鶯が鳴いていた。素晴らしい思い出。

温泉周囲には山桜が満開。

温泉を出ると此の奥に湖があるからと雨の中従姉妹は運転していく。

雨でなければどんなに素敵なところだったでしょう。

 

それでも道端の花を愛でながら飯能の従姉妹の家にたどり着いた。

従姉妹は昨年ご主人を亡くし、此の素敵なお家を売って老人ホームへ入ると言う。日本の家は年々バリューが下がっていくと言う。もったいない話だ。

 

 

 

 

 

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20年ぶりのニッポンー輪島

2025-05-03 00:27:53 | 旅行

父が田舎回りの警察官だったので、小学校5年生から高校を卒業するまで、輪島周辺の駐在所で過ごした。中学1年生の夏休み、輪島沖の舳倉島で過ごしたときに、親しくなった海士町の同級生、ミセスHK は海士町を統率する家元の娘で、舳倉島と輪島に立派な家があった。

昨年1月1日の地震で輪島は壊滅。彼女とご主人の行方は4ヶ月も判らなかった。彼女は二人の娘に恵まれたが家を継ぐ息子には恵まれず、長女は東京で結婚して、男子2人女子1人の子どもたちと埼玉県で暮らしていた。地震直後から7月まで娘一家の家に避難していたが、その後は輪島へ戻って仮設住宅暮らし。

金沢へ着いた2日後、足が悪いが車は運転できるという弟夫婦と輪島へいった。片道3時間

地震以来1年4ヶ月、穴水近くから幹線道路は工事中のところが多く、道路もガタガタ。あまりに広範囲のがけ崩れや道路脇の崩壊で、見るも無惨。

天気の悪い日で、雨の中工事中の人たちが気の毒でならない。

 

20年の間に変わったものといえば、此の のと里山空港 でここは昔の三井の山の中、私は高校2-3年の間三井の駐在所に住んでいた。三井は電車の駅があり、輪島まで2駅、穴水まで1駅の山間の小さな町で、小学校、中学校が有った。

冬になると雪のため中学校の生徒達は、通学が困難になるため、駐在所の近くの公民館に宿泊して、週末自宅へ帰っていた。それで我が家では一週間に2晩お風呂を子供たちのために入れてあげていた。

此の のと里山空港 内でトイレ休憩。石川県出身の相撲力士の大きな写真が飾られてあった。

 

昔の三井駐在所のありかも解らない内に通り過ぎ、河原田の道路が全く変わってしまって、昔の景色が思い出せない。ただ洪水で流された河原田小学校後が自動車教習所に変わっていた。

そして近くの山沿いに移転した河原田小学校を見つけた。此の学校地震で被害を被ったかはわからない。

輪島の街はまだ復興に程遠く、

朝市通りの200軒も火事で消失した通りは更地になっていた。

未だ手入れされていない建物も多く、見た限りでは昔の活気ある輪島の街に戻るには10年も掛かりそうだと思う。

普通ならここが1軒のお家だとしても大して大きくないのに、3家族が入っている仮設住宅。海士町壊滅で、海女たちもこんな狭いところに住んでいるのだろう。

私の親友ミセスHKも信じられないくらい狭い仮設住宅の一室に住んでいた。元が大きな家で、火事で焼けなかったから、大きな家の家財道具だけでも収納が大変だったろう。来年は夫婦二人だけの小さな家を建てるということだったが、気の毒で言葉もなかった。5年したらまた戻って来るからと約束して励ましたが・・・・

たった1軒有った和食のレストランでお昼をいただき、雨の中2時間半かかって金沢へ帰ってきた。

 

 

 

 

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20年ぶりのニッポンー金沢その3

2025-05-01 22:38:11 | 旅行

 

久しぶりのニッポンで一番変わったものは父母が住んでいた家の後の川が埋め立てられて、散歩道になりその後ろに整備された川ができ、川の両岸を埋める満開の桜。

わざわざ花見にどこへも行く事無しの素晴らしさ。

一体何拾または何百本の桜があるのか誰も知らない。

以前川向うの森の中に有った神社は、取り壊されて新しくなり、やっぱり川向うに作られた。

あの薄暗い森の中ではなくて明るく気持ちの良い神社に変わっていた。

 

 

 

 

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20年ぶりの日本ー金沢その2

2025-04-30 22:28:43 | 旅行

金沢には奥能登の中学校で一緒だった同級生が2人いる。昭和19年生まれはまだ戦中のため出生率も少なくて、田舎の中学校では男子24人女子10人の1クラスだった。

今回会った同級生2人は家族にも恵まれ、健康にも恵まれて、好きな趣味を楽しんでおられる。ところが男子24人の内12人も亡くなり、女子は1人だけ。男子は弱いのかしら?

二人の友だちと一夕をともにし、色々ごちそうになりおしゃべりに花を咲かせた。輪島郊外に住んでいる同級生で、農家に嫁いだ3人があの地震で、地すべりのため今では仮設住宅ぐらしとのこと。気の毒で言葉もない。

姪が連れて行ってくれた金沢図書館。素晴らしいモダンな図書館で3階まであらゆる本がぎっしり。3階の1隅に私が読んだことのある英語のミステリーがたくさんあった。姪は英語は全然わからないから見たくないと・・・残念。

金沢で一番食べたかったのがお寿司とラーメン、兄嫁があちこち連れて行ってくれた。そして行きたかったところが百円ショップと大きなスーパーマーケット。

100円ショップでは必要ないものまでも買ってしまったが、大きなスーパーは野々市店の業務スーパーという。ここではあらゆるものが大きくて安い。カレーのブロックなど英国の3分の1の値段、買わずにいられない。切り餅2kg、しば漬けに福神漬各1kgなんて荷物が重くなるのも当たり前。ここで45点も買って1万円近く払った。

それで帰国時の大きなスーツケースが1個 23.1kg,小さいほうが22Kg、あまり重くて、羽田空港の長期荷物預かり所に置いて、帰国するその朝までとりに行けなかった。

 

 

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20年ぶりの日本ー金沢

2025-04-30 21:14:39 | 旅行

此の電車は福井と金沢を結ぶローカル線、線路と並行して上にあるのが新幹線、私の父母が住んでいた金沢郊外の野々市駅から2駅で金沢に着く。

20年で一番変わったのが金沢駅だろう。

金沢に滞在した4日間の内、1日だけ一人で電車に乗って金沢の近江町マーケットへ行ってきた。

あらゆる金沢名物と名産品のオンパレード、お土産によし。でもここでは買わない。

ここは金沢の台所、昔から父はここへ来て新鮮な魚を買って家で刺し身食べさせてくれた。こうして色々見ると値段も上がって観光地化しているのがよく分かる。

ここへ来たのは2-3年前に来た友達(英国に住む日本人)が近江町で食べた寿司が忘れられない。また行きたいと言っていたから。ところがここを歩き回っていろいろな写真を写していたら、食べたいものは刺し身や寿司ではなくて、うす塩の効いた干しカレイや昔よく食べたことのあるハタハタなど。

とうとうハタハタを一皿買って、ブリの落合?という骨の周りについた身を削ぎ落としたもの。他にはかまぼこやちくわなどの練り物をいくつか買った。でもかまぼこなどはイギリスへ持って帰れないと言う。ここでいっぱい食べるしかない。

兄嫁がハタハタを炊いてかまぼこや漬物などいっぱいだして、遅いお昼ご飯にしてくれた。こうして食べたものが一番美味しかった。

こんなにたくさんのお土産品が積まれて、あらゆる国からの人達がいっぱい来ていて、食べ物屋さんは外人でいっぱい。地元の人達より外人が多かった。新幹線が通って、観光客が押し寄せて、観光業者以外の人たちは眉を潜めている。

此の夜甥夫婦や姪、兄嫁それに姪の子どもも一緒に高級レストランで、私のウエルカムプラス兄の命日20年を記念してごちそうをいただいた。

 

 

 

 

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20年ぶりの日本ー新幹線で金沢へ。 

2025-04-29 20:42:36 | 旅行

今日4月29日、日本は連休にはいっただろうか? 先日書いたブログで書き忘れていた大事なことが1つ。

鳥羽の周辺を車で案内してもらったときに、千鳥ヶ浜で海岸を歩いた。そのときに砂浜に打ち上がっていたピンクの海藻ーところてんの原材料。天草を一つかみほど拾った。

もう60年ほど前、昔の仲間と此のあたりへ来たらしい。(どこだったかは覚えていないが)その時たくさんの天草を拾い、箱詰めにして両親に送った。今回これを京都のミセスTに話したところ、地元のおばさんが天草の処理から寒天に作るまでを教えてくれて、彼女はとっても美味しいところてんを作ったと言う。

今回帰国するなり此の天草を水に浸し、何度も洗って茹でたり干したり、10日ぶり今日とうとう水ようかんを作って大成功。インターネットで作り方を習った。とっても嬉しい。

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さて鳥羽からまたJR線で名古屋に着き、新幹線で京都へ向かった。

以前から一度食べてみたかった駅弁を名古屋駅で買い、新幹線で京都へ行くまでに急いでたべた。 京都では2度目のトライ。ドクターT と京都駅で待ち合わせ。

そしてやっと会えた。!!! 私は判らなかったけれどドクターが見つけてくれた。

35年ぶりだった。お互い積もる話がいっぱいだったが、お土産にお香をいただいた。さすが京都の人らしい。およそ1時間ほどで私は金沢へ立つ。

京都から敦賀まで特急雷鳥、琵琶湖を右に見ながら素晴らしく早い。

敦賀から金沢へは新幹線で乗り換え、およそ2時間で金沢へ着いた。

亡くなった兄の息子(まるで兄が生き返ったようによく似ていた。)が金沢駅へ迎えに来てくれていた。”玲子おばちゃん” の呼び声まるで昔と変わらない。

 

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20年ぶりのニッポンー伊勢神宮

2025-04-29 04:06:44 | 旅行

江戸時代なら伊勢参りといえば、一般市民の一生に一度の旅であり、娯楽でも有ったかもしれぬ。

昔から宗教に興味のなかった私は、京都で働いていたときも一度も行きたいとも思わなかった。今回ここを訪れてみて多くの日本人が鳥居の前でお辞儀をし、此の地を去るときにもお辞儀をして敬意を表して去っていくのを見て、ニッポンには今も深く神仏を信じている人たちが多いのだなと感心した。

広々とした社殿、千年以上も経っていそうな巨大な木々、さすが此の社は日本古来の信仰の元締なのだろうと思われる。

20年に1度神殿を建て替えるとは大変な仕事だろう。今も歴代の習慣が変えることなく続けられているなんて、私からしたら不思議でならない。

ここが外宮のお参りするところ、柏手を打ってお参りするに何も考えずお願いも感謝の気持も持たなかった。(私はもう日本人ではない。)

どこから内宮だったのかわからないが

こんな素晴らしい屋根の建物がひとかたまり。

その一角にあった屋根付きの此の地では雨の日に行われた祭りにはここが使われる。

私が2日間鳥羽でお世話になったカップルはユーチュブで日本の祭りをヴィデオに撮って世界に発信しているが、此の伊勢神宮のあらゆる行事が一番観覧が多いそうだ。

 

ここが内宮の参拝場所。これ以上カメラ禁止。

茅葺きの屋根が面白い。

 

お祭り時に活躍するであろう神馬 一体何を考えているのだろう。

此の内宮にも桜が花盛りだった。

此の橋をわたってしまえば神域を出る。

橋の外からは古い日本家屋が立ち並び沢山の人。

伊勢名物だといううどんを食べた。腰のしっかりしたうどんでまあまあ。

素晴らしい日本家屋。こんな建物はここしか見られない。

もう53年も日本を離れていても赤福の名前を忘れていなかった。帰りに金沢へのお土産に買った。

全くふざけた猫のディスプレイ。猫が伊勢神宮と関係があるのだろうか?

川縁の土手を飾る桜並木、どこも花を愛でる人々でいっぱい。

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20年ぶりのニッポンー鳥羽

2025-04-28 01:26:21 | 旅行

さて名古屋で2泊した翌日早朝、名古屋駅に行った。出発時間に30分ほど早く行ったのにプラットフォームはたくさんの人。長い行列だった。

快速三重1号は3-4両編成でドアが開くなりたくさんの人が殺到し、たった1つ空いていた席に数秒の差で若い男性が座り、私を見ると渋々席を譲ってくれた。大きなスーツケースを見た車掌さんが急いできて、荷物棚へ押し上げてくれた。

それからも車内はぎゅうぎゅう詰め、とうとう乗れないお客も多くて、15人もの駅員が1つのプラットフォームにいたのを見たのは初めて。一体こんなたくさんの人達がみんな鳥羽へ行くのだろうかと不思議に思ったいたおよそ1時間後、鈴鹿の小さな駅に着いた。今度はプラットフォームが一杯で乗っている人たちが降りられない。

電車はここで20分以上も遅れて発車したが車内はがら空き。

鳥羽近くに外人組の数人の女性と男性一人が乗ってきて、若い男性に頼んで、スーツケースを棚から下ろしてもらった。そのグループはロシア人で、何を思ったか男性が私に1ルーブルのコインをくれた。今もテーブルの上にある。

鳥羽では昔ロンドンの日系会社で働いていたときに親しくなったイギリス人と奥さんは日本人のカップルに会い、2日間いろいろなところへ連れて行ってもらい、ごちそうを食べとっても素晴らしい2日間だった。

日本人の奥さんが車を運転してまず行ったところが、かの有名な夫婦岩。このあたりにはカエルの石像があちこち有って

水をかければ願いが叶うという満願蛙。

小さな神社の外にはこんなたくさんの人達の願い事?絵馬とおみくじ。

此の海辺の裏山が桜の花で素晴らしい。

鳥羽の海岸線で彼らがよく行くという高級料理屋での素晴らしいごちそう。

いかにもひなびたニッポンの老舗、真珠店。

道端に咲いていた珍しいお花。

海岸線をそぞろ歩きをしていたらお店の前で生牡蠣を食べている若者2人、思わず写真を取らせてもらった。うーん美味しそう。

素晴らしい観光船が港へ入ってきた。

通りの掲示板に2016年の伊勢志摩サミットの写真が貼ってあった。そうここがそれだったのか。本当に素晴らしいところだ。

こうしてあちこち案内してもらい写真を撮りまくって、何度見ても良いところだと感を新たにした。

鳥羽駅の近くに立つ御木本幸吉翁の像。此の人の努力がなければ此の地は今ほど発展していなかったに違いない。

観光船に乗らなくてもこの辺り見るところが多く

 

近くの神社では昨日お祭りがあったそうだ。

神社の裏山には鳥羽城の石垣があり、あたり一面の桜の花。季節の一番いいときに来た。ラッキー!!!

江戸時代でも通用しそうなお店。

 

花盛りの鳥羽だった。友達夫婦は岐阜にお家があるが、此の鳥羽に1ベッドルームのフラットを持っていて、終の棲家はここでとのこと。羨ましい。

 

 

 

 

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