青龍神界鏡

次はまた首相してみんかお前。
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ケントカウス二世のピラミッド

2013年11月21日 00時00分00秒 | 投稿

柔術の起源は、源義光(みなもとのよしみつ)の代、犯罪人の死体の解剖を伴った関節構造の理解也、と信じられていた。
恐らく播磨の医学の、興隆時代の結果であろう、と。
ところで、現在広くに知られる空手の歴史と同様、柔術には甚大な指摘を抱えていた。
その甚大さは、象限を無視し、つまりどう甚大なのか、が問われずして、正統性に関し、いたたまれない思いをばら撒いていた。
柔術の、正式楷書なる、目的を、誰一人として果敢に唱えし者は不在。
これは甲冑をまといての、戦での組み打ちの術に非ず。
無意味。
大勢が、時代をまたぎ、柔術の目的を追った。
その事実の継承法なら、存在が容易だった。
誰一人として現在、過去の芳名者と自己の連綿を仄めかしつつ、柔術の楷書目的を雄弁に語ろうとせず。
現在、の柔術修練者は、一人残らずは、過去、を口籠る、師範の、顔、を注視していた。
師範殿が、ああいった、佇み、口ぶり、柔術の深みを明晰言語文法で、解釈せず続け、これが、あの敵対的流派の師範との遭遇時期を過ぎ去っても尚変わらず続け、とあらば間違い無く・・・。
大勢の柔術師範と高弟の、柔術の正統性に関する口籠りは、いかなる時代でも、体術と、言語教示の間、深部領域の周辺で、暗い顔を灯しめていった。
この暗い顔の、御数、歴史を隔てず数えいき、これらの事実が、西郷、武田、二者の正座中の上半身が、狂乱を唱える下半身を黙らせる。
合気の伝達に、断固、柔術の正当性に関する無言、暗き顔が必要也、と振る舞っていったのが、それらだった。
二者は共に、意識深くで、知っていた。
“全く、如何ともし難し”との諦めをフタとしつつ。
柔術、実際の歴史、初期は、非倫理性が命ずるかん口令続きだった。
“人体の構造を解体して知ろしめられし巻物が伝う体術は、世に、つけ上がりや、残虐なからくり開発頭部を、井戸水が如く沸かせゆくとの計り、憶測と急いで出会わせるが妥当。
非倫理、極まる。
これで、何とする。”
義光の高弟は、人体の関節構造、医学的描写に満つ巻物を前に、何もせず、を選び続ける。
時代は、言語による、戦に対するつけ上がりとの誹りを、恐れずべし、だった。
大勢の政治家や軍師が、戦による無意味な殺傷を抑止すべくの議論に参加する。
時代は、民生品目が、薄きだった。
すぐに、弁舌のみは、鎧の重きから、逃げおおせるよすがは唱えられず、に会議関連組織の長の頭部が襲われゆく。
大いに困った。
“意識深き、本心から、非倫理性を知る、戦の野営幕の端、死寸前の戦傷兵の最期の告白に耳を傾けるかに見えて、実のところ、あやつめ、一人の責任に御座います報告が出世の弁との、聞き取りが下手野郎との、俯瞰上大外道の極致、これを、骨身に染みわたらせるべし。”
巻物曰くの、人間の関節駆動域を、会議参加者は、肉体実践すべし。
始めは、笑顔での、奇特体操会の相だった。
十年が過ぎる。
参加者は、質実志向精神が命ずるがまま、関節の痛みが発する条件を調べ始める。
義光の高弟が得ていた巻物は、変わらず丁寧に、実に真剣に、参照され続ける。
手首の関節技、二箇条と、前腕のツボを押す四箇条は開発が早かった。
当時七箇条、脇固めは開発の間合いが非倫理判定らしく、完成には十七年を要した。
“実際に、他者にかような技を掛けるなどとの実現性は、皆無。
ただ、巻物曰くの、関節構造へ、従わしめられゆきたる頭部と肉体を演ずる我ら、を記録していくが、目的は皆無。”
七十年が経つ頃、婦人が洗濯物をあちらこちらと干しまくる背中と、足首の向きの返り、
機能の同時ぶりを視点に、四方投げが開発される。
目的は、不明。
八方投げは、非倫理、危険にて、長く数えられ続けずだった。
相手を抱える腰投げ、これは、アホの相にて、百四十年、未開発判定。
四方投げ、との名前は、事故で確立してしまっている。
原型なる名は、詠唱者の頭への疲労を呼び込むが目的なる、無意味系、韻文が置かれている、の相。
全ての技は、実現性など期待されてはおらず、かつ開発の目的も無かった。
非倫理なる政経懇談会や、戦関連会議へ参加した武人家系者は、自らの意思にて、武家に広く知られる、難波の天下茶屋、豊中、梅田の道場、十畳から四十畳の広さへ、弟子を連れ赴いていった。
世相が代わる。
公家と近し難波の武家が柔術の体系を知り、教養への登用を強く衝動する。
十四世紀、千三百年台だった。
柔術、柔やわら、は武家のみならず公家までに広がりを見せるようになる。
捉えは、厳しめの一嗜み事。
流派は無い。
この時代の柔は、足関節が八割を占めていた。
実際には、成らん事など知っているが、とにかく痛いのをかまし合っとった。
実際に、技を要り用にてかます、など誰一人想定せずだった。
数百年、柔術は武家を中心に嗜まれし、厳しめの教養だった。
誰も、それ以外の目的を追求せず、だった。
江戸時代中期、頭をもたげる師範が書簡に告白するようになる。
柔は、何が目的であろうか。
如何にして、編まれしか。
冠する名、名誉への疾走可能性で、柔と人の間の柔軟解釈力や、武術未熟達者を受け入れる余裕を、凍りつかせずべし。
会津藩へ流れついていた、兵庫の東灘区、義光の巻物落ち着きし地との連綿、真、正統なる柔術の一流派はある時、致し方の無い、法的要り用に面し、頭の、朴訥印象、連続確保漢字を流派名に選ぶ。
白帯者が、一人での気付きにて、独力矯正せねばならぬ、社会体重の足音を、師範の傍で表すとの、頭の内部での、意味、価値、疾走音を。
大東流柔術は、人間を利用し、存在していた事を、過去より認めていた。

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