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スノーマン見聞録

ジャンルも内容も気の向くまま~“素浪人”スノーマンの見聞録

水爆 恐ろしや

2017年09月05日 | 雑感
朝刊に北朝鮮、核実験6回目 ≪ ICBM搭載用水爆実験に成功 ≫ の記事が掲載されていた。

今回のエネルギーは最大規模、1945年広島に投下された原爆の4倍のエネルギーだという。
マティス米国防長官は3日、米国は北朝鮮からの脅威に対し 「大規模な軍事対応」 の構えを示唆。


とはいうものの外交優先策を取るだろう、中国・ロシアも「強烈に批難・最大限に避難する」 とこれも建前論、
石油を停めるところまでは無理なような気がする。 日本の得意言葉 <遺憾に思う> と大差はない。

テレビでは中国はメンツを潰された、とかなんとか・・・いやいや百戦錬磨・中国はそんな、もっとしたたかだ。
これは中ソと米の大国に戦いだ。 日韓は勿論カヤの外、得意の念仏を唱えるしかないのかも。

仏教・涅槃経に <一切衆生悉有仏性> というのがある。 この世のすべてに仏性が宿るという
日本人が最も愛する言葉のようだが、これ、その後に <除一闡提(じょいっせんだい)> と続くようだ。
  

除一闡提(じょいっせんだい) 一闡提とは極悪人という意味なのだそうだ。
原語の「イッチャンティカ」という、その音を写したものらしいが、仏教でさえそんな調子だ。

立場を逆にすれば、ISもしかり北挑戦もみな相手を <極悪人> と称している。 
何が善、何が悪と問うよりも いやいや 人がこの地球上に存在する限りはその争いは絶えない。


BSで放映され当ブログでも一度取り上げたが < バーバリーマカク > という猿がいるらしい。 
アルジェリア・モロッコ・イギリス領ジブラルタルだけの針葉樹林に生息するという。

ほとんど争わない極めて平和な猿のようだ。 稀に争いがあると相手をなだめるのだという。

水爆 恐ろしや などと叫ぶだけではらちがあかない。 人はこの猿の生態に学ぶしかないようだ。

       
   (極似しているが、争いが絶えない日本猿とは趣が違うようだ)





 


ある花嫁

2017年09月04日 | 雑感
処刑から20年、獄中で死刑囚の花嫁となった人の、二人の461通もの往復書簡が今年の春公開された。

ご存知だろうか、永山則夫当時 19歳。 1968年に4人もの人を銃で殺害し当時の日本を震撼させ、
獄中で書いた 『 無知の涙 』 がベストセラーにもなったあの事件だ。
   

        

当時、私も 『 無知の涙 』 を読んだことがあるのですが、自らの貧困・生い立ちから犯罪へと
至る過程をどこか正当化しているような、そんな思いを著者の奥底に感じたものです。
 

被害者と加害者、未成年の問題、死刑の是非論、現代でもその解釈は十人十色。

一審死刑、そして無期懲役、高裁の無期懲役を破棄し差し戻しとの判決、そして再び死刑となる。

一旦生きろとの判決(無期懲役)から一転死ね(死刑)との判決、想像を絶する葛藤だったに違いない。
その時から二人の心は通じ合わなくなり、ついに離婚。 7年後の1997年死刑執行。

元妻は遺言通り遺骨を網走の海に散骨するのですが、散骨する際 彼女はこう言ったという。

 「 彼の悲しみの始まりがここだったから。ここに何があるのかを確かめたかったのよ 」
 「 則夫と生きたからこそ、いま私はこうして生きていくことができている 」


今回この書簡集読ませていただいた限りでは、あるんですねぇ これほどまでの純粋な愛の形って。

小池さん

2017年09月03日 | 雑感
< 紙とペン 探してる間に 句を忘れ >   < もの忘れ このまま全部 忘れたい >
シルバー川柳じゃないが、テレビを観ながらメモっていた紙切れが見つからずに数日、ようやく発見。

前ブログでのタゴールの詩、紹介したのがインドコルカタ旅のナビゲーターをつとめた小池昌代の名と判明。
1959年生れ  詩人。  数々の文学賞受賞しており、詩集・エッセイ・絵本の翻訳など多数あり。 

早速彼女の詩集やらエッセイを読んでみた。  ちょっと魅力ある女性を知ったらすぐ行動(笑)。
世の中けっこう素晴らしい人っているものですね。  最近ようやく見えてきました。  遅いか !

     
            小池昌代wikipedia

  ≪ 罠 ( わな ) ≫

    山道をゆく わたしたちの 目線より少しうえ
    枝と枝のあいだの小暗い空間に
    初夏の木漏れ日が不意に差し
    そこに透明な蜘蛛の巣があらわれた

    山のなかに そっと仕掛けられた見えない罠が
    光の一撃で 静かにあばかれている

    大掛かりに編みこまれた精妙な美しさに 
    わたしたちはみとれて 言葉を失った
    それが罠であることもすっかり忘れて

    生きるとは 通過すること

    蜘蛛の巣の罠のこちら側と向こう側
    生は連続して あたりじゅうに満ちているのだったが
    それを断絶する見えない手が
    不意に頭上に かざされるときがくる

    山道でひとり ふりかえれば 
    再び透き通って見えなくなった蜘蛛の巣

    宙空には 死角に掲げられた表札のように
    囚われた枯葉が 一枚揺れていた



朝夕めっきり肌寒くなってきました。  札幌での枯葉の秋ももうすぐですね。
コーヒー色に染まった山道を歩くのもいいものです。

 
先日途中断念した栄町から藻岩山頂上迄(4時間ほどか)、情けなさからの解脱をしなければ今年は暮れぬ !


インドの詩人・タゴール

2017年09月01日 | 雑感
BSテレビでインド特集が組まれていてラビンドラナート・タゴールという詩人を知りました。 

いいい詩があったので抜粋してみます。   『 タゴール死生の詩 』(森本達雄編訳)より

インドの詩人 (1861~1941) ・ アジア人として初めてのノーベル賞(文学賞)受賞者。
                                タゴールWikipedia
       

≪ ギタンジャリ ≫ より ( 十二 )

 おお 死よ わたしの死よ 生を最後に完成させるものよ
 来ておくれ わたしに囁きかけておくれ。

 来る日も 来る日も、わたしは おまえを待ちうけてきた 
 おまえのために 人生の喜びにも痛みにも わたしは じっと耐えてきた。

 私の存在 所有 望み 愛 すべてが 秘かな深みで たえずおまえに向かって流れていた。
 最後に ひとたびおまえが目くばせすれば わたしの生命は 永遠におまえのものになるだろう。
 ・・・・・・・・


≪ ギタンジャリ ≫ より ( 十三)

  わたしは知っている いつの日か 地上のものが見えなくなり 
  生命が わたしの目に最後の帷(とばり)をおろして 静かに 立ち去る日が来るだろうことを。

  それでも 星々は 夜どおしまたたき 朝は 変わることなく 明けそめるだろう。
  そして時は 海の浪のように高まり 喜びや苦しみを打ち上げるだろう。

  わたしの時間のこの終焉を思うとき 刻々にきざまれる瞬間の仕切りは破れる
  そして死の光にすかして 巧まぬ財宝にみちたおんみの世界を わたしは見る。

  そこでは どんな賤しい座も すばらしく どんな卑しい生命も 尊い。

  わたしが求めて得られかったものも 得たものも みんな 消え去るがいい。

  ただ わたしがかつて 退けたもの 見のがしてきたものを まこと この手に持たせてください。


≪ 最後のうた ≫ より ( 二 )

  死はラーフ(悪魔)のように ただ影をなげかけるだけ
  生命の聖い甘露までは その無感覚な口に 呑みこむことはできない
 
  このことを たしかにわたしは知っている。

  愛の永遠の価値を 完全に騙し取る
  そのような掠奪者が 世界の洞窟の奥深くにひそんではいない

  このことを たしかにわたしは知っている。

  この上もない虚偽を そのうちに秘めた見せかけであったという
  存在のこの日常の汚点が 世界の法とともに存続するものではない

  このことを たしかにわたしは知っている。

  ものみなは 小止みない変化のうちに 迅速に移ろいゆく
  これこそ 時の法則。  死は どこまでも不変のものとして現れる。


≪ 最後のうた ≫ より ( 十三 )

  初めての日の太陽が 新しい存在の出現にあたって たずねた

  おまえは誰か ?  返事はなかった。

  年また年は過ぎ去り 最後の日の太陽が  静かな夕暮れ
  西の海の岸辺で 最後の問いをなげかけた

  おまえは誰か?  答えはなかった。



タゴールのように人生を達観できる人は稀かも知れませんがね。 
私なんぞここ数年で二度の大病を経験しましたが、平静を装ってはいたものの 心の中は オロオロでした。

人間 生きているあいだは死なないようです。  まぁ そう単純に考え 生き切りましょう!

私の仲間(ハンドルネーム・白頭人)のHPにもインドの旅がある。是非クリックしてみて下さい。
今月インド南部にも出向くようですよ。
 
   白頭人・世界紀行

読書三昧 (33) 田原牧著 『 ジ゙ャスミンの残り香 』

2017年08月31日 | 雑感
北海道は朝夕めっきり涼しくなり、そろそろ秋の気配だ。

なぜかしばらく本を読む気も失せていたが、読書欲も少し出て来た。 

エジプト・シリア民衆革命でのその実態を描いた本を読んでみた。 田原 牧姉さんの力作だ。
2010年 チュニジア(ジャスミン革命)で始まり中東各地に拡がっていった < アラブの春 > を描いた作品。
  

第12回 開高 健ノンフィクション賞受賞作。 30年アラブを見続けた気鋭のジャーナリスト。 季刊「アラブ」編集委員。
北海道出身麻布高校相撲部に在籍という経歴をもち、性同一性障害としてカミングアウトしているという。  
     田原牧 Wikipedia

      

権力が権力を生み、汚職が蔓延し、民衆を圧政する、それを変えようとする側もまた権力を握る。

アラブの春の嵐を如実に見て来た著者が終章にこんなことを記していた。

『 革命観を変えるべきだ、と旅の最中に思い至った・・・・

  権力の移行としての革命よりも、民衆の間で醸成される永久の不服従という
  精神の蓄積こそが最も価値のあるものと感じる 』


久しぶりになるほどという本を読ませていただいた気がした。

いま世の中 イラク戦争で始まり アラブの春でさらに混乱 テロが世界各地に蔓延。
アジアはアジアで、ミサイル発車や核への脅威で北朝鮮の独裁者に振り回されている状況だ。


先日Jアラートなるものが早朝私の携帯を鳴らした。  頑丈な建物等に避難せよという
私のところはマンションでいいのだが、木造平屋が立ち並ぶ界隈に住む人はどうしろというのだ !

早いとこ独裁者の首を取ってくれ、早いとこアメリカが攻撃してくれればいい、と
自らの手を染めずに相変わらずのアメリカ頼み。  ミサイルを連発され、その技術が相当なレベルに
達しているとみれば、今度は平和的にと念仏を唱える。


賢いのか 愚かなのか、私もそうだがどう見ても日本は風見鶏。
 

凛と咲くコスモスの花

2017年08月29日 | 雑感
8月25日、93歳になる母が住み慣れた家(実家・七飯町)をあとに、施設へ入所しました。 

実家は横津岳の麓でもあり、朝夕そろそろ肌寒く、秋の気配を感じる季節に。

翌朝、近くを散歩。  美しいコスモスが凛と咲いておりました。 


やすらぎの郷

2017年08月18日 | 雑感
テレビ朝日で4月から放映されている 『 やすらぎの郷 』 (昼帯だがBSでは朝に放映)

施設内にBarもあり、海に面しての釣り三昧、なにもかも至れり尽くせり、しかも入居費無料とくる。 

私が春から母の老人ホーム探しをしていたが、こんな夢みたいな老人ホームは無論無い。 
そんな夢みたいな施設で夢みたいに展開するドラマの数々。  倉本 聰脚本の話題のテレビドラマだ。


昨日の内容は、やすらぎの郷内にあるBarのバーテンダー・ハッピーこと財前ゆかり(松岡茉優)が
夜の帰り道暴走族数人に強姦され、その仕返しに高井秀次(藤竜也)ら三人が乗り込みやっつける、
というあの三匹のおっさんを彷彿させる内容が放映されていた。

こんな深刻な問題を安易にとか、こんな高級老人ホームは世間から現実離れしているとか、
ネットでも数々のドラマの展開に賛否両論。 おおかたの評判は良いが、意見は人の数だけあるのは世の常だ。


       

賛否両論といえば、以前 札幌で倉本聰さんと湯浅誠さん(社会活動家・元派遣村村長)の
講演と対談があった時のことを思い出した。


貧困についてのやりとりで、主人公「北の国から」の黒岩五郎(田中邦衛)についての話題になった時のこと。

湯浅さん 「 なんだかんだ言っても、黒岩五郎は周りに助ける人が多くいて恵まれている 」
        世の中には誰にも相談できずにいる貧困者がごまんといる。 社会構造上の問題だ 」


倉本さん 「 いやいや それは自己責任の問題が大だ 」 

・・・ などと双方譲らない。  互いに意地になって持論を展開していたことを思い出した。

湯浅さんは正真正銘の自己責任否定論者。 倉本さんは自己責任論者。 議論が絡み合うはずがない。
まぁ考えて見ればどっちも正論なのだが、世の中 人の数だけ意見(賛否両論)があるということなのか。


老いをメインに扱ったこのドラマだが、考えさせられることも盛り沢山。 決してやすらいではいられない。

傘寿を越える年齢の倉本聰さん、劇中時々流れる軽快なピアノのメロディーも実にいい。
随分とおしゃれで罪作りな脚本を書いたものだと感心している。


9月まで放映されるようです。  さて皆さんの <やすらぎの郷> はいったい どこに ?  

三ツ矢サイダー

2017年08月11日 | 雑感
8月3日で93歳になる母、今月末での老人施設への入居が決まった。  

春になってから入浴などのデイケアサービスを利用していた施設で、入居者20人ほどの小規模なところだ。

考えて見れば父が他界してからもう14年にもなる。  七飯町の片田舎での一人暮らし。
雪の降る厳寒の冬などはさぞ大変だったろう、と不肖の息子 今更ながらの懺悔を思う。

周囲に対する感謝の思いの他に ” こんなに長く生きてごめんね ” そんな言葉を発することもある。

老いるってことは 大変なことだな、と 近頃つくづくそう思う。 

   

それでもここ数年   ” いまが 一番 いい ”  が母の口癖。    救い の言葉だ。

93年も生きてきて、いろんなこと がないはずがない。  母なりの <心の自由> を感じての思いなのであろう。

遅まきながら大好きなマグロの刺身で誕生を祝った。  老いてからはビールは飲まない、三ツ矢サイダーで乾杯だ。

 ”  いいねぇ これ うまいねぇ !  サイダーなんて何十年ぶりだけど  いいねぇ これ  ”  

そう言って口にしていた一本の三ツ矢サイダー。  私にとっては忘れられない飲み物になりそうだ。 

丘珠難民村

2017年08月04日 | 雑感
札幌・丘珠空港に隣接するところにスノーマン専用のジョギングコースがある。   

ここのコースは十年来の工期で昨年完成したが、いつ来ても人はおらずスノーマン専用のコースと化している。
 
  
夜7時までの使用とあるがなぜか街燈も巡らせてある    コースは一周600と1000、3900mの3コースあり

  
空港とツドームに隣接する広大な(50数ha)敷地だ     子供用の遊び場もあるが、その姿あまりみかけない。

  
春の雪解け時には沼と化すため排水溝も完備       すれ違うのはいつも1~2人と飛行機と小鳥くらいか   

ここ 隣りのパークゴルフ場含め総工費は なんと 180億円 だそうだ。 

ネットによると、航空機の地上騒音緩和・排ガスの拡散防止・冬季間の風雪対策及び市民のレクリエーション
などとその目的は素晴らしいが、市民の血税の無駄使い ?   いや 野暮なことは言うまい。


北朝鮮からのミサイル攻撃による市民の難民村を見越してのことなのだろう。 確かにかなりテントは張れる。

どうして花は

2017年07月07日 | 雑感
7~8年前、近くに住む仲間と札幌栄町から藻岩山頂上迄歩いて往復したことがある。

7~8時間かかったと記憶、大病する前の話だ。 昨日それを今一度、と思い立ち早朝家をスタート。 

いつものことながらの目が覚めてからの突然の思いつき。  歩き出したまでは良かったのだが ・・・。
ハンディカメラを持参したのが悪かったのか、道端や庭々に咲く花に魅せられ撮影が止まらない。


  

  

  

そんなことで札幌駅まで予定を30分もオーバー、それに加え道庁でひと休みしたのが運の尽き。
なんとそこには見事な蓮の花が咲き乱れる楽園があるではないか。  一気に歩む気力が衰退。


山は撤退の決断は素早くねばならない、との我が山岳(楽)会諸先輩方々の教えを守り早くも断念。

  
道庁は札幌駅から歩いて数分、植物園もしかり、都会のオアシスともいえるところ。

  
水面に映る木々が美しい、なんとも長閑で、私も時々立ち寄る憩いの場所です。
今回は写真をバシャバシャ撮り始めたが、長椅子に座ってボーッとしているのが一番なのかも知れません。


  
赤と白の蓮の花がなんとも美しく咲き乱れていた。   蓮は早朝に咲き昼には閉じるという。  

  

  

  
    すずめとハトがにらめっこをしていた。              長老のカメさんもいた。

  
ススキノまで歩きテレビで放映されていたランチバイキングの店へ。  帰りは札幌駅地下通路で開催中の縄文展見学。
 
少しほろ酔いでしたので札駅からは地下鉄、なんとも情けない藻岩山山行でした。 次回は車かな!(笑)

しかし どうして花はこんなに美しいのでしょうねぇ 不思議。

戦争 イヤっ!

2017年07月03日 | 雑感
また私ごとではあるが、母がこんな本をくれた。 山形市に住む いとこ が書いた本だという。

三日後に弘前野砲第八連隊への入隊を促す召集令状が届いたところから始まる戦争追憶の記である。

 ≪ 「 今晩は、今晩は 」 の声で目がさめた。 時は昭和十四年六月七日午後十時過ぎ、
   村役場書記の斎藤さん、の加右衛門のおじいさんが、『召集令状』いわゆる赤紙を届けに来た。≫


昭和十四年といえば日中(支)戦争が勃発してから二年後のことだ。

彼は当時二十五歳、中国(支那と呼ばれていた)山西省南部地区での戦闘を、応召から戦地に向かうまで、
戦地での戦闘、その砲撃をかいくぐる恐怖のさま、捕虜の扱い、戦友・上官の死、帰還召集解除までの
出来事など一切を記した100ページほどの自費出版本でした。


     
  
残虐非道の戦争体験記の中に、ひと筋のホッと和む救いの文章もいくつかあった。 
敵の陣地内を行軍してゆく先々で、戦死された兵士の墓標が多く見られたというくだりもしかり。

 ≪ 多分二度目に討伐に来た部隊の方が立てたのでしょう。 中国の人々も国のために犠牲になった。
    日本軍兵士の墓標をそのままにして倒さなかった事は同じ人間、しかも肌色も同じアジア人、
    戦はしても戦死した軍人はもう敵ではないとの事でしょう。 敵陣地内での墓標の保全には、
    おおらかな中国人に感謝もし、感心させられたました。≫ 

 
とはいうものの、実弾の試し打ちが6キロ先の農家の白壁に、なんの予告も無しに行われたようだ。
無茶・無謀、暴挙が、人道上許されないことが戦争という名の下に。

山西のあるの土手に1メートル位の大きな文字で、日本兵向けに書かれていたことを想い出すという。

 ≪ 日本の兵隊さんよ、君達は妻や子供と別れてこの地まで来ておりますが、
    皆さんは日本の一部の財閥と軍閥に踊らされているのです。 
    すみやかに上官に帰国を要求せよ。 
    そう書かれていた。  今考えて見るとそれが真実 (まこと) であります。≫  


そう記した著者も弟達三人を戦争で亡くしているようだ。    

私など 戦争 イヤっ! と単純に思うだけの念仏主義者なのだが、戦争は忘れたころにやってくる。
 


ペギーさん

2017年06月17日 | 雑感
月に一度の実家(七飯町)通い。  今回は神奈川から姪(めい)が合流した。

母といろんな話をした。  特に20代前後の話は記憶が俄然鮮明になるようだ。
母は15歳あたりで東京神楽坂(叔母の営む食堂)へ働きにいったという。  その頃の話をしてくれた。 


  ” 戦争時代、貧乏が普通で近所の人達もみんな家を出て働きにいったもんだ ”
    ” 器量の少しいい人は芸妓(子)に、そうでもない人はお女郎さんになにがしのお金で売られてねぇ ”


母も声をかけられが断わったようだ。 すると周旋屋(斡旋とはいわず周旋と言っていた)
さんは、どうしても嫌だというなら無理にとは言えないなぁ、そう言って引き下がったという。


  ” 飯田橋駅のすぐ通りに店が並び、その裏通りに花街があり、よく三味線の音が聴こえていたねぇ ”

私も東京在中していた頃、神楽坂へはよく映画を年間券まで買って観に行っていたので、
神楽坂のどの辺り? 確かあの辺りの左側に神社か寺院みたいのがあったよね そう尋ねたら


  ” 毘沙門天でしょ! そこまで行く前の右側の通りに面していた店、食事もできコーヒーも出していた ”

私なんかはどうもその毘沙門天が咄嗟に出てこずでしたが、この辺りの記憶力は母が一枚上でした(笑)。
それまで疲れたから少し横になると言ってた母が、急にベッドから起き上がり、そんな話をいきいきと話す。

  ” その時、偶然 <近所にいた友達の熊谷の澄ちゃん> に会ってさぁ、懐かしかったよォ ” 

芸奴さんかお女郎さんかとは、それ以上は聞けませんでした。  みなそれぞれの青春なのですね。

その後の母は豊橋へ働きに行き、そこで終戦。 丁度南方の戦地へ出向いていた母の父が帰国、
運よく一緒に列車に乗って函館へと戻ったようです。
 

  ” その時の列車はぎゅうぎゅう詰めで、窓から乗り込んでくる人はいるは、みんな床に新聞紙
    をひいてそこに座って、トイレの匂いはするしでまぁ大変。でも父と一緒だったから安心だったよ ”


戦後函館へ戻った母はアメリカ人宅へメイドの仕事の募集を見つけ、住み込みで勤めることとなる。

場所は札幌・真駒内というではないか。 いま私の住む札幌だ。 知らなかった。

  ” 軍事郵便局の局長さんのところ、Post office。 給料もよく、美味しいものも食べられ、
    日曜日は No working 局長さんも奥さんも娘さんも皆いいい人で、 楽しかったよ ”  
                                        ここで英語を使うとは!
   ” 2年ほどいたけど毎日パン食だった。 メイド仲間はごはん食べたいねぇなんて言ってたけど
     私は全然気にならなかった! ” 

   ” 私 そこの家では 愛称で ≪ペギー≫ と呼ばれていた ” 
 という。

驚いた。  こんな話を息子の私が還暦をとうに越えている今、初めて聞くことになるとは。
≪ペギー≫ か!  姪(めい)がすぐネットで調べたら、女性名 Margaret の愛称のようで安心した。  

20代の頃だったので怖いもの知らず、青春だったんだなぁ そう思ったものです。

  

庭に咲く都忘れの花は、母が一番好きな花という。   
母曰く、都を忘れさせるほど長く咲いているからそんな名がついたんだよ、なんて言っていた。

なるほどと思って一応ネットで調べたてみたら、「 しばし都を忘れさせてくれるほどの美しさ 」・・とか、あらら。

右のワンちゃんの置物は、生前父が犬を飼いたく母に話したら反対され、じゃ置物でとこの二匹を買ったという。
いつもは玄関下駄箱上にいるのだが、散歩がてら庭に放してみた。  名前は無いようだ。
(生前父は何犬か忘れたが、狭い庭で飼っていたこともあった) 

数十年前になるか、若かりし時には、熱帯魚・ひよこ・うさぎのはてまで、とにかく凝り性であった。
菊作りの時期などは家中菊だらけ、そんな思い出が蘇ってきます。  マージャン・競輪・競馬も(笑)


私もしかり、< 熱しやすくて冷めやすい > DNAって凄いものですね。  父の話はまたの機会に。 

姪(めい)は七飯町には一晩泊り、翌日函館元町界隈散策し空港まで送り、一路東京(神奈川)へ。
ペギーさんに負けちゃいけませんぞ !

  
      函館ハリストス教会  小雨まじりでしたが、この界隈なかなか素敵なところでした。

都忘れの花言葉は 【 わかれ 】 【 短い恋 】 だそうです。   ん ~ (ため息) !
まぁ人生 所詮まばたき みたいなものですから それも よし としますか、 ねぇ ペギーさん !


このブログ少し長くなりました それに最近私ごとの内容ばかりで ごめんなさい。  

野球天国

2017年06月01日 | 雑感
≪ 六月を綺麗な風の吹くことよ ≫   子規の句の如く、早いものでもう六月。

なぜ還暦を超えたいま、人から無茶とも言われる野球など始めたのだろうか、自分ながらも不思議です。

3月から始めた練習も今のところ特にケガも無く、室内10回・野外で6回・めまい4回になる。
はじめて青空の下で白球を追った時などは、正に <もしかしてここは天国?> とも思ったものでした。

背負っている心配ごとは結構たくさんあるのですが、この時ばかりは根が薄情なのか皆忘れている。

  

ネットで探して連絡をとり入部したのですが、これがまた過去全国優勝経験もある強豪チーム。(あらあら)

甲子園や六大学野球の経験者・元ノンプロ選手・・等など、勿論それなりに衰えてはいるもののツワモノ揃い。
私はといえば ほぼ半世紀ぶりの野球にくわえ、この6年間で内・外科入院5度の軟弱極まる医療のツワモノ。

古希の方も多数おられるが、その球を打ち損じる私がいる。  悔しいったらありゃしない!

先日実家で神奈川に住む弟に会った。 剣道二段(学生時代)の腕前だが、二年前から近隣の
子供たちを教え始め、いま三段を目指しているというではないか、対抗心が炎の如く。(これもあらあら)  
                              
昨日より太もも筋肉裏に多少張りがあり。  明日の練習は 雨 かなぁ?  天気予報見て ニヤリ(笑)

風太郎さん パートⅢ (あとがき)

2017年05月30日 | 雑感
山田風太郎著 『 戦中派不戦日記 』 は昭和20年・終戦の年の一年間を綴った日記である。
                                  当ブログ 風太郎さんパートⅠ 風太郎さんパートⅡ 
 五月一日(火)曇り
   新宿駅前廃墟の中の大立札に墨痕淋漓、
   「家は焼けても心は焼けぬ 糞!鬼畜ルメーに負けてなるか 起て!日本人!」
   終日曇天、烈風砂を巻いて猛る。 正午よりB29二機来る。・・・・・・・

 五月二日(水)雨
   ヒトラー総統ついに死せりとのニュース放送されたり。  ・・・・・・・・・・・
   近来巨星しきりに墜つ。 ヒトラーの死は予期の外あらずといえども、吾らの心胸に実に
   能わざる感慨を起こさんばやまず、彼や実に英雄なりき! ・・・・・・・・

 五月三日(木)曇
   午後三時B29一機来。  ・・・・・・・・・・・
   夕、鈴木首相より、日本なお戦いぬかんとの放送あり。 勿論なり。
   しかれども風呂屋にゆけば民衆の顔みなう憂う。 いくら憂いても憂い足らざる顔なり。
   サイパン落ちてみな悲しみき。 ・・・・・・・・・・・
   断じて屈するなかれ。 恥を知り死を恐れざる民族たれ!


この本(日記)の ≪ あとがき ≫ に山田風太郎はこう記している。
  ・・・・・・・・・・・・・
  そしてまた現在の自分を思うと、この日記中の自分は別人のごとくである。
  昭和二十年以前の「歳月と教育」の恐ろしさもさることながら、それ以後の「歳月と教育」
  の恐ろしさよ、日本人そのものがあの当時は今の日本人とは別の日本人であったのだ。
  ・・・・・・・・・・・・・
  しかし、それはほんとうに別の存在であるか。
  私はいまの自分を「世を忍ぶかりの姿」のように思うことがしばしばある。
  そして日本人もいまの日本人がほんとうの姿なのか。
  また三十年ほどたったら、いまの日本人を浮薄で滑稽な別の人種のように思うことにはならないか。
  いや見ようによっては、私も日本人も、過去、現在、未来、同じものではあるまいか。
  ・・・・・・・・・・・・・
  人は変わらない。 そして、おそらく人間のひき起こすことも。
 
                                     昭和四十八年二月  山田風太郎

勿論戦争を直接体験していない私などには、実感としての戦争の恐ろしさは知るよしもない
のではあるが、その終戦前夜の人々の日常やその息使いが確かに僅かではあるが聴こえて来た。


人間とは不思議なものである。 いろんな色に染まってしまう。 それも いとも簡単にである。 
しかも その染められた色さえも知らないでいるようだ。  勿論あなたも 私も そちらの方も。


是非通読をお勧めしたい一冊  (新装版・講談社文庫本) である。
                      

風太郎さん パートⅡ (銭湯の話)

2017年05月29日 | 雑感
最近の母との会話では極力、 むかし・母の若かりし頃の話を聞くようにしている。
なぜか記憶力がそこら辺りが強いようなのです。  先日は銭湯での話をしておりました。

 ” あんた(戦後・当時の私は乳幼児)を連れ、近くの銭湯に行った時のこと。
  配給されたばかりのタオルに包み連れて行くと、風呂から上がり気がついたらもうそのタオルが盗まれて無い。
   もう悔しくて悔しくて ・・・ ”
  

母の話は戦後まもなくのこと、ここからは山田風太郎著 『 戦中派不戦日記 』 
に書かれていた戦中・昭和20年(終戦の年)の悲惨な銭湯事情の抜粋です。

       

三年前は七銭だったという風呂代は値あがってこの年すでに十二銭にも。

≪ 一月七日(日)晴 ≫ の日記にこうあった。
  銭湯。 ・・・ 去年大阪帝大の医学部で検査してみたら、夜七時以後の銭湯の細菌数、不純物
  は、道頓堀のどぶに匹敵したそうである。
  ・・・・・・・・・・・
  いよいよ風呂に入る。 わき返った道頓堀に入る。
  灰桃色の臭い蒸気の中にみちみちてうごめく灰桃色の肉体 ! 湯槽は乳色にとろんとして、
  さし入れた足は水面を越えるともう見えない。

  皆疲れきった顔。 壁の向こうの女湯も以前はべちゃべちゃと笑う声、叫ぶ声、
  子供の泣く声など、その騒々しいこと六月の田園の夜の蛙のごとくであったものだが、
  今はひっそりと死のごとくである。 女たちもつかれているのである。

                                        と こういう感じだったそうだ。 

工場の油に汚れる人が激増、防空壕堀り、日々夜毎の空襲に穴に飛びこんだり地に這ったり、
石鹸等の不足も重なり汚れ放題。 それに加え燃料・人手不足で風呂屋も激減。


銭湯の壁には警察署と書いた<盗難注意>の張り紙がべたべたと貼ってある。
普通の履物を履いて行けばほぼ盗まれたという。 ある人は男と女と片かたの下駄をはいていって、
これなら大丈夫と安心していたら、あにはからんや見事に持っていかれたとの悲劇談もあり。

衣服を入れる籠も壊れて補充なくして限りあり、たいてい10分ほど空くのを待つ状態。
前年の夏全都に流行った発疹チフスはこの銭湯の籠に媒介する虱(しらみ)が原因だったとも。 
 

それでも銭湯に来るは何ひとつの娯楽もなく、火鉢一つ抱けない時勢なので、暖をとる、
このただ一つの目的のためこの汚い銭湯に入るよりほかがない、そんな銭湯事情だったようです。


この日記の読後感、どんな状況でも日常は続くということ、そして人は以外に呑気だということを知る。

カエルを熱湯の中に入れると驚いて飛び出すが、常温の水に入れて徐々に熱すると、カエルはその温度変化
に慣れ、生命の危機と気づかないうち ・・・ と 嘘かまことかは知らないが、この話知ってますよね。

テロやら北朝鮮やらで、きな臭さが匂う昨今の世界情勢のなか、どう向き合えばいいのでしょうか。

現代のそこそこきれいな銭湯でも行って ・・・ ん ~ 考えても ん ~ 。