司馬遼太郎の作品を一冊。
司馬遼太郎は生涯膨大な書籍を著し、現代人に多大な影響を及ぼした作家で
特にバブル期におけるサラリーマンに人気がありました。
『空海の風景』
平安時代の天才宗教家・二人の仏教思想・関わり合いを通し描かれた作品で、
司馬の仏教に対する造詣の深さに感銘をうけます。
桓武天皇の命で、空海と最澄は唐の国へ遣唐使として留学。
第一船には空海・第二船には最澄が乗り込みました。
第三・第四船は途中難破。当時としては命がけの留学でした。
二人は、同時期に唐の国で密教他を学ぶのですが、最澄が先に日本に戻ります。
空海は約3年で日本に帰国。
(当時の遣唐使の契約は20年であり、契約違反は死罪との厳しさでありましたが、
密教における師であった青龍寺の恵果が亡くなったこと等も起因し、特別な許可
による短期間での帰国であった。)
最澄は一年にも満たない短期での帰国でもあり、学んだ密教は当然空海が一枚上。
密教とは、心の中にある秘められた宇宙(慈悲の心)を導きだす修法。
帰国後、最澄は空海に弟子入り入門することとなります。
(最澄は空海より当時の僧としての権威も年齢も上ですが、そこが最澄の偉いところ)
しかし、最澄の学ぶのはあくまで文章修業。空海の目指す実践修業に合致せず。
ある時、最澄は密教の根本経典である『理諏経』借用要請をしますが、空海は
それを拒絶します。
その時期同じくして、空海のところへ入門していた泰範(最澄の弟子)が空海に
心酔し、最澄のところへは戻ってこなかったことも重なり、、、空海と最澄の間に
確執が生まれ、絶交に至ったのである。
以上の様子が司馬の仏教解釈と併せ、余すことなく描かれております。
尚、空海における唐に渡っての足跡では 『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』
~夢枕獏の著作があります。長編ですが、獏さんの作品なので読みました。
唐の国で鬼とあい対峙する空海の姿を、空想も交え面白く描いている作品です。
夢枕獏は御存じ(陰陽師)シリーズでお馴染みの作家で、釣り等多才な方。
今度は唐から帰国した空海の姿を描きたいとのこと。期待したい。
獏さんの作品では、他に『神々の山嶺(いただき)』という作品がお薦めです。
わが山岳会局長からの紹介で読んでみました。
エベレスト無酸素登頂を目指した主人公のスぺクタルな読みごたえのある名作。
空海が24歳の時に著した『三教指帰』(さんごうしいき)があります。
儒教・道教・仏教の三つ比較論で、その中で仏教が最も優れているということを示した書物ですが、その文章力といい深い知識といい、正に天才としか言いようのない筆力があります。
書にも優れ、三筆(空海・橘逸勢・嵯峨天皇)とも呼ばれておりました。
空海というと、四国霊場八十八ヶ所のお遍路が有名ですね。
阿波(徳島)で発心・土佐(高知)で修業・伊予(愛媛)で菩提・讃岐(香川)で涅槃入る
これって出来すぎですよね。きっと江戸時代に誰かが作ったのでしょう。
八十八ヶ所は当初九十ヶ所以上あったようですが、最終的八十八ヶ所(ハ十八の煩悩に由来とも言われる)にまとまり、江戸時代に入ってから急激に人気を博し、現在に至っているとのようです。お遍路の経験ありませんが、十数年前に高野山に足を運んだことがあります。
高野山はユネスコ文化遺産に登録されており、空海真言宗・総本山金剛峯寺や
弘法大師が眠る奥之院御廟がある山岳信仰の聖地です。
海抜千メートル。 敷地は東西6キロ・南北3キロもあり、森林に囲まれ、
修業の場(根本道場)にふさわしい凛とした雰囲気のあるところでした。
(現在は電車・ケーブルで登ることができ、敷地内はバスもでているんですよ)
とある宿坊に2泊3日宿泊し、瞑想等(座禅のようなもの)も体験しました。
(当然、まったくもって悟りにはいたらず、、、でしたが)
宿坊で一人の若い僧(部屋にお膳を運んでくれた)と話す機会がありました。
(実は、私の意地悪な質問に答えてくれたのであるが)
ある宗教団体の悪口を延々と語り始めたのである。
“ん~!”、、、人生いろいろ、、僧もいろいろ、、、だなあ。
と思いながら食事をしたことを、鮮明に覚えております。
でも、とっても熱い語り口でした。
あの時の僧は、、今頃どうしておられるのでしょうか?
司馬遼太郎は生涯膨大な書籍を著し、現代人に多大な影響を及ぼした作家で
特にバブル期におけるサラリーマンに人気がありました。
『空海の風景』
平安時代の天才宗教家・二人の仏教思想・関わり合いを通し描かれた作品で、
司馬の仏教に対する造詣の深さに感銘をうけます。
桓武天皇の命で、空海と最澄は唐の国へ遣唐使として留学。
第一船には空海・第二船には最澄が乗り込みました。
第三・第四船は途中難破。当時としては命がけの留学でした。
二人は、同時期に唐の国で密教他を学ぶのですが、最澄が先に日本に戻ります。
空海は約3年で日本に帰国。
(当時の遣唐使の契約は20年であり、契約違反は死罪との厳しさでありましたが、
密教における師であった青龍寺の恵果が亡くなったこと等も起因し、特別な許可
による短期間での帰国であった。)
最澄は一年にも満たない短期での帰国でもあり、学んだ密教は当然空海が一枚上。
密教とは、心の中にある秘められた宇宙(慈悲の心)を導きだす修法。
帰国後、最澄は空海に弟子入り入門することとなります。
(最澄は空海より当時の僧としての権威も年齢も上ですが、そこが最澄の偉いところ)
しかし、最澄の学ぶのはあくまで文章修業。空海の目指す実践修業に合致せず。
ある時、最澄は密教の根本経典である『理諏経』借用要請をしますが、空海は
それを拒絶します。
その時期同じくして、空海のところへ入門していた泰範(最澄の弟子)が空海に
心酔し、最澄のところへは戻ってこなかったことも重なり、、、空海と最澄の間に
確執が生まれ、絶交に至ったのである。
以上の様子が司馬の仏教解釈と併せ、余すことなく描かれております。
尚、空海における唐に渡っての足跡では 『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』
~夢枕獏の著作があります。長編ですが、獏さんの作品なので読みました。
唐の国で鬼とあい対峙する空海の姿を、空想も交え面白く描いている作品です。
夢枕獏は御存じ(陰陽師)シリーズでお馴染みの作家で、釣り等多才な方。
今度は唐から帰国した空海の姿を描きたいとのこと。期待したい。
獏さんの作品では、他に『神々の山嶺(いただき)』という作品がお薦めです。
わが山岳会局長からの紹介で読んでみました。
エベレスト無酸素登頂を目指した主人公のスぺクタルな読みごたえのある名作。
空海が24歳の時に著した『三教指帰』(さんごうしいき)があります。
儒教・道教・仏教の三つ比較論で、その中で仏教が最も優れているということを示した書物ですが、その文章力といい深い知識といい、正に天才としか言いようのない筆力があります。
書にも優れ、三筆(空海・橘逸勢・嵯峨天皇)とも呼ばれておりました。
空海というと、四国霊場八十八ヶ所のお遍路が有名ですね。
阿波(徳島)で発心・土佐(高知)で修業・伊予(愛媛)で菩提・讃岐(香川)で涅槃入る
これって出来すぎですよね。きっと江戸時代に誰かが作ったのでしょう。
八十八ヶ所は当初九十ヶ所以上あったようですが、最終的八十八ヶ所(ハ十八の煩悩に由来とも言われる)にまとまり、江戸時代に入ってから急激に人気を博し、現在に至っているとのようです。お遍路の経験ありませんが、十数年前に高野山に足を運んだことがあります。
高野山はユネスコ文化遺産に登録されており、空海真言宗・総本山金剛峯寺や
弘法大師が眠る奥之院御廟がある山岳信仰の聖地です。
海抜千メートル。 敷地は東西6キロ・南北3キロもあり、森林に囲まれ、
修業の場(根本道場)にふさわしい凛とした雰囲気のあるところでした。
(現在は電車・ケーブルで登ることができ、敷地内はバスもでているんですよ)
とある宿坊に2泊3日宿泊し、瞑想等(座禅のようなもの)も体験しました。
(当然、まったくもって悟りにはいたらず、、、でしたが)
宿坊で一人の若い僧(部屋にお膳を運んでくれた)と話す機会がありました。
(実は、私の意地悪な質問に答えてくれたのであるが)
ある宗教団体の悪口を延々と語り始めたのである。
“ん~!”、、、人生いろいろ、、僧もいろいろ、、、だなあ。
と思いながら食事をしたことを、鮮明に覚えております。
でも、とっても熱い語り口でした。
あの時の僧は、、今頃どうしておられるのでしょうか?