スノーマン見聞録

ジャンルも内容も気の向くまま~“素浪人”スノーマンの見聞録

戦争 イヤっ!

2017年07月03日 | 雑感
また私ごとではあるが、母がこんな本をくれた。 山形市に住む いとこ が書いた本だという。

三日後に弘前野砲第八連隊への入隊を促す召集令状が届いたところから始まる戦争追憶の記である。

 ≪ 「 今晩は、今晩は 」 の声で目がさめた。 時は昭和十四年六月七日午後十時過ぎ、
   村役場書記の斎藤さん、の加右衛門のおじいさんが、『召集令状』いわゆる赤紙を届けに来た。≫


昭和十四年といえば日中(支)戦争が勃発してから二年後のことだ。

彼は当時二十五歳、中国(支那と呼ばれていた)山西省南部地区での戦闘を、応召から戦地に向かうまで、
戦地での戦闘、その砲撃をかいくぐる恐怖のさま、捕虜の扱い、戦友・上官の死、帰還召集解除までの
出来事など一切を記した100ページほどの自費出版本でした。


     
  
残虐非道の戦争体験記の中に、ひと筋のホッと和む救いの文章もいくつかあった。 
敵の陣地内を行軍してゆく先々で、戦死された兵士の墓標が多く見られたというくだりもしかり。

 ≪ 多分二度目に討伐に来た部隊の方が立てたのでしょう。 中国の人々も国のために犠牲になった。
    日本軍兵士の墓標をそのままにして倒さなかった事は同じ人間、しかも肌色も同じアジア人、
    戦はしても戦死した軍人はもう敵ではないとの事でしょう。 敵陣地内での墓標の保全には、
    おおらかな中国人に感謝もし、感心させられたました。≫ 

 
とはいうものの、実弾の試し打ちが6キロ先の農家の白壁に、なんの予告も無しに行われたようだ。
無茶・無謀、暴挙が、人道上許されないことが戦争という名の下に。

山西のあるの土手に1メートル位の大きな文字で、日本兵向けに書かれていたことを想い出すという。

 ≪ 日本の兵隊さんよ、君達は妻や子供と別れてこの地まで来ておりますが、
    皆さんは日本の一部の財閥と軍閥に踊らされているのです。 
    すみやかに上官に帰国を要求せよ。 
    そう書かれていた。  今考えて見るとそれが真実 (まこと) であります。≫  


そう記した著者も弟達三人を戦争で亡くしているようだ。    

私など 戦争 イヤっ! と単純に思うだけの念仏主義者なのだが、戦争は忘れたころにやってくる。
 


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