スノーマン見聞録

ジャンルも内容も気の向くまま~“素浪人”スノーマンの見聞録

素浪人のひとりごと(5)

2015年02月25日 | 雑感
入院中読んでいた某新聞記事で、ジャーナリスト・土井敏邦さんが今回の人質事件に関しこんなことを言っていた。
 
(土井さんはパレスチアなど中東紛争地域を主に、世界で活躍する゛ャーナリストだ)

『 自民党の高村副総裁が、後藤さんの行動は政府からの三度もの警告を無視した<蛮勇>だと非難されて
  いるが、政府の指示に従っているばかりでは、伝えられていない事実を伝える仕事はできない 』


ときっぱり。

自己責任だとか誹謗する人がいるが、そりゃ子供じゃないんだから人間生きてるってこと自体が皆、自己責任。

後藤さんは自らが自己責任と言い張ってビデオにまで収め、真実を我々に命を賭して伝えようとしていた。

何かあったら助けようとするのが親じゃないですか。 政府じゃないですか。

身体を張って止めもせず、蛮勇とか言う政治家はじゃ一体どれだけの真実を我々国民に伝えているのか。
伝える術を知っているのかということですよね。


命の危険を、命の尊厳を、百も承知のジャーナリスト魂をもっと評価せねばならぬのに。


それにしてもISILなる過激派は残酷極まりなしだ。

コーランを読む限り≪イスラム教は寛容の思想≫とはいうものの、いたる所に危険な論理を作ることのできる片言隻句
が散りばめられているのは確かなようだ。


このコーランですが7世紀、今から1400年も前のこと。 しかもほんの20数年の間のできごとで、ムハンマドがメッカから
メディナへ移住した時の言行録をまとめたものだ。

争いの真っただ中における事でもあり、殺さなかったら殺される時代、奴隷制度も認められていた時代のこと。
捕虜の身代金もひとりいくらと定められてもいたようだ。

このあまりにも短い時代を、そっくりそのまま現代に当てはめようとしていること自体に無理がある。

勿論このような伝統主義者ばかりではなく、時の流れに合わせようという祈り方もあるとする近代主義者も
いるのも確かなようだ。 いやこれらの考え方をするイスラム者の方が多いともきくが。

【コーラン第17章夜の旅の章メッカ全111節33】 に こうある。

  『 正当な理由がないかぎり、人を殺してはならない。 それは神が禁じたもうたこと 』

正当な理由がないかぎり?  正当な理由があったら 殺せる?  正当な理由って何?

相対するどちらも 正当な理由と言い張ったら 人殺しは 永遠に続くのだろうか?


医療三山

2015年02月20日 | 雑感
医療三山という連峰がある。

術前山・手術山・術後山の三山をこう呼ぶのだそうだ。

私も幾度か登ってみたが、術前山はおきまりの検査があるものの、まぁハイキング程度の山だ。
              ≪初登山の時はいま思い出せば、一概にそうとも言えなかったが≫

手術山も本人にとっては、まな板のコイみたいなもので軽登山程度か。十数秒の麻酔でコロンだ。
              ≪インストラクター(医師)やガイド(看護師)には大変な作業で敬意を表するが≫                      
難儀なのは術後山。 完治までの下りが長々と続く、、、これが結構辛い。

麻酔から覚めるとなにか得体の知れない≪tube≫がいたるところにくっ付いてくる。

ベッドで寝返りがうてないということの辛さは、術後山を登った人なら理解できるだろう。

四年前(舌癌)の時は、真上しか見られず顔を左右にも動かせられないという経験をした。
(術前山でガイドの指示によりその訓練も積んだ上で挑んだが、それでも結構 これが辛い)

今回は看護士の介助で寝返りはうてたが、夜になれば幾度も呼ぶのを少しは遠慮もしなければとも思い、
結構辛い夜を過ごした。
(12日間の縦走、今朝無事下山した。 症名は混合性腰部脊柱管狭窄症で腰部手術)

人間誰しも、いずれはベッドに横たわざるをえない日々がやってくる。

今から寝返りをうたない訓練を日々実施しておくことも、いやはや 必要なのかも。

せめてもの救いは、登山ガイド(看護師)の優しさに触れることや山仲間(同室者)との語らいであろうか。

途中で諦めてはいけない。 辛くても登りきることが肝心だ。

それにしても 寝返りが自由にうてる なんて幸せなのだろう!!
四年に四度の縦走経験をもつスノーマンでした。 もういいな、とは思いますけどね(苦笑)。


    (医療三山は人があまり登りたがらない魔の山でもある・画像/ネット借用)

Ag(e)ing Process パートⅡ

2015年02月08日 | 雑感
Ag(e)ing Process は英語で老化現象というらしい。

先般症状名を聞き忘れ、自症で狭窄症と診断したが、案の定当たっていた。
正式名は、混合性腰部脊柱管狭窄症(ようぶせきちゅうかんきょうさくしょう)という症状名だそうだ。


MRI 撮影では、軟骨と神経のすき間が老化で狭まっているという。自然に治る方もいらっしゃるようだが、
悪化する方は歩けなくなるなど重症の方もおられるようだ。

明日から10日間ほどの入院手術。 4年前の舌癌から端を発し、手術はこれで4度目になる。

 ”腰部ですから少しきつめの全身麻酔になりますよ”って看護師さんから入院時の説明を受けた。

  なにか心配なことはないですか? とのことでしたので、
 ”麻酔から覚めないこともありますか?” と質問してみた。

 ”今まではなかったですねぇ” とにこやかに答えていただきました。

完治させ、また山登り(ハイキング?)もしたいのですが、、、 さて。

岩下さん

2015年02月08日 | 雑感
『 芸 者 論 』 という本を読んでみました。

書いた人は、HBCテレビ朝の番組「いっぷく!」のレギュラーコメンテイター・岩下尚史氏だ。
おねえ的というか、言葉が典雅で人のよさそうな感じを受けたので気になっておりました。

         

1961年生れ。新橋演舞場企画室長などを経て一念退職し、幕末から平成にいたる新橋花柳界の調査研究
の成果をこの『芸者論』に著したとのこと。


私など芸者とは縁の無いものとしては、読むのもためらいましたが第20回・和辻哲郎文化賞受賞作品との
ことでもあり手にとってみました。


                              冒巻にあった挿絵・喜多川歌麿作 『深川の雪』

古代から(特に幕末から)現代までの花柳界の歴史・文化・風俗を描いた作品で、その時世を繊細に
顕す検証力と巧みな品格というか筆力には恐れ入りました。

 
 『花柳界というものは、男が遊びに行くというよりも、戦いに行くところです。』

 『上等のスーツに包まれた胸の内は、お互いに血まみれでしょうし、余裕ある微笑を浮かべながらも、
  狡知を駆使して、舌鋒に毒を込めたり、あるいは蜜を絡めたりもします。』

 『古代以来の天子が、多くの有能な巫女を後宮に集め、国を平らかに治めた伝統・・・その時々の
   状況を融通無碍な見方で計り、入り組んだ諸問題を美しく見事に取り捌く能力を大和魂と呼び、
   この能力を備えた者でなければ、有能な巫女を引き寄せることはできず・・・』


などと、浮き草稼業の芸者の源を古代の白拍子、あそびめ、そして巫女とまでと話しは古代にまで及び、
柳田國男や折口信夫など日本民俗学、能や歌舞伎なども論じる。


初めて聞いた話ですが、明治30頃一流から二流までを花柳界と呼び、三流以下は三業(さんぎょう)地
と呼んだ時節もあったようです。
(料理屋、芸者屋、待合の三つの業態を管理監督しようとしたが実現せず、名称のみが残ったという)

昭和はじめでの東京府内の芸者屋と待合の許可地は以下の通り。

 一等地は、新橋・柳橋。
 二等地は、赤坂・新橋烏橋・芳町・日本橋・下谷、新富町・浅草公園。
 三等地は、牛込・深川他など47ヶ所もあったそうです。


(ちなみに震災後の東京府における芸者数は1万人で全国で最も多く、これに愛知・大阪府が
 それぞれ5千人前後とのこと)

この『芸者論』の副題は、ー神々に扮することを忘れた日本人ーとあった。

末尾にこんな言葉で締めくくっている。

  『 ひとというものは先ず何かに扮して、外側から作っていかないと、中身を充実させることは、
    なかなか難しいのではないでしょうか』
、、、と。


あぁこういった世界もあるんだなぁと。 花柳界へ読書で旅するというのも、寂しい気はしますがね。


それにしても居酒屋めぐりばかりの我ら仲間たちとは世界が違うようでした。


寂しい写楽

2015年02月05日 | 雑感
≪ 東 洲 斎 写 楽 ≫

宇江佐真理 著 『寂しい写楽』を読んで≪写楽≫にハマり、写楽に関する本を数冊乱読してみた。



邪馬台国に匹敵する国民的謎の一つといわれ、寛政の世、江戸の町に忽然と現れ140余りの浮世絵を書き、
十ヶ月足らずで消えた幻の浮世絵師。 その前後には一つの作品も世に出していない不思議な人物≪写楽≫ 


写楽っていったい誰? 「写楽殺人事件」で第29回江戸川乱歩賞を受賞した高橋克彦氏によれば、
”写楽は誰か”について三十一の説まであるという。

有名なところを言うと、、、。
松本清張・今 東光氏は斎藤十郎兵衛(能楽者)説。 梅原 猛氏は歌川豊国(浮世絵師)説。
石森章太郎氏は喜多川歌麿(美人画)説などがあり、その他にも
版元の蔦屋重三郎説、円山応挙説、葛飾北斎説、山東京伝説、十返舎一九、外人説まで。
 
写楽を世に出した版元の蔦屋重三郎が、かん口令をひいたか否かは定かではないが誰も写楽を語っても
おらず、文献もないのです。


江戸末期に斎藤月岑(げっしん)という人が『浮世絵類考』という書で、写楽のことを、、、
 「是また歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画かんとて、あらぬさまに書なせしがば、
  長く世に行れず一両年にて止む」
と記したのが唯一の文献とのこと。

いまや写楽といえば、知らぬものもいない世界的にも有名な浮世絵師ですが、世に出でた時は評判も悪く
売れ行きも惨憺たるものだったようです。

当時、浮世絵は<醜を捨て美をとる>のが主流。 写楽はたとえ人気者であろうと美化せず顔の欠点や
老化のようすまでも描いた為、役者からも誹謗され気色悪いとまで不評を買い、お蔵入り。


もし評判がよく売れ行きも良好だったなら、写楽はもっと語られ、もし影武者がいたとしたならば
≪写楽は誰?≫が判明したかもしれないですね。

浮世絵は明治・大正に日本人にとって文明開化に翻弄され、一刻も早く忘却の彼方へとの思いと共に
二束三文で欧米へと流れていったという。 その価値を認めたのも海外の美術家とは、なんとも情けない。


● 宇江佐真理 著 『 寂しい写楽 』 を少し紹介します。

     
江戸・寛政の時代世相を巧みに調べ上げ、ここまで登場人物を見事に描いた作品はさすがである。

田沼意次の放漫政治の反動として老中に就任し、緊縮政治に舵を切ったのが松平定信。
就任した1787年(天明7年)から1793年(寛政5年)までの6年間、世にいう寛政の改革の時代だ。

町民には非常に厳しい政治でもあったようです。
政治批判はもとより、華麗・高価仕立ての出版物及び好色本も当然の如く禁止。
 

芝居の終演は夕方の七つ(午後4時頃)までとし、灯りをともしての芝居も禁じられたとのこと。

時事風刺した黄表紙なども発行していた版元・蔦屋重三郎らに対する処罰も下ったようで、起死回生を
夢み、≪写楽≫の出現に賭けたともいわれている。

(処罰は【身分半減の刑】といわれるもので、店の資産・面積なども半分とする厳しい処罰だ)

この小説では定説の主流でもある斎藤十郎兵衛なる能楽者を≪写楽≫とみて物語は展開する。
(写楽初期作品では大首だけを写楽が描き、他は京伝・北斎それに一九が加わり作成されたとの構成)

春朗(後の葛飾北斎)と幾五郎(後の十返舎一九)が写楽が去ったあとを振り返り、語る場面がある。
(小説はこの二人と山東京伝が写楽浮世絵に手を加えたという設定)

  『 見る者の背中を ざわざわと粟立たせるような 寂しい絵 』

  『 あれを 寂しいと言わずに なんと言う』

  『 つまらねぇじゃなくて 寂しいと・・・寂しい男ですよ 』

  『 だからな 写楽はあれでよかったのさ 評判なんてどうでもいいんだ 』

  『 おれ達は 写楽の絵の中に 手前ェの寂しさを 放り込んだのよ・・・』

  『 先のことなんざ 誰にもわかりゃしねぇよ わかっているのは 今の今だけよ 』

                                         (順不同抜粋)

この語り。 寂しいという言葉。 凄いと思った。 

先月10日に発売した≪文言春秋2月号≫に宇江佐真理さんの【ガン病闘記】が載っていた。
乳がんと闘いながら創作を続ける本人の記だ。

 ≪死ぬことは怖くない けれど、ただ訳もなく 寂しい≫ とあった。

この 寂しい という言葉・・・人として 懸命に生きている 証(あかし) なのかも知れないですね。
                                             負けるなよ!!

『寂しい写楽』の(登場人物)
写楽を世に出した版元の蔦屋重三郎・山東京伝(戯作者・絵師)・葛飾北斎(浮世絵師)・
滝沢馬琴(読本作家)・歌川豊国(浮世絵師)・大田南畝(狂歌師)・十返舎一九(滑稽本作家)・
斎藤十郎兵衛(能楽者・写楽?)他



ISIS/ISIL

2015年02月03日 | 雑感
この度の日本人2名(湯川遥菜さん・後藤健二さん)への卑劣・非道極まりない殺害事件についてショックと共に、
怒りさえ覚えたのは私だけではないと思う。


逆に≪おまえの国民を場所を問わずに殺りくする≫とのISILの最後のメッセージは、”平和でありますように”
と願うだけの平和念仏主義者・一般的な日本人に強烈な課題を投げかけられたのも事実だ。

私を含めた日本人の多くにとっては、遠い国のことのような感覚がどこかにあったというは間違いのないこと。

ISILが生れた原因はどこにあるのだろうか。

貧困? 格差? 差別? 迫害? 宗教? 歴史? それとも大国のエゴ?

今朝の道新朝刊でフリージャーナリスト志葉 玲氏がイラク戦争後の悲惨さを記していた。

こうした残虐行為はISILの専売特許ではなく、シーア派至上主義が主導する政府によるスンニ派への迫害も
同様のことをしてきたという。こうした人々にとっては、ISILを忌み嫌いながらも「敵の敵は味方」だと。

ISIL系過激派は15ヶ国に29組織に急拡大しているようだ。
(昨年10月時点でのISILの構成員が、15000人→既に20000人にも増加しているといわれる)

シリアやイラク紛争地域に限ってだけでも拉致事件が去年1年間で119名、内日本人の拉致は47名にも上るという。
(ISILということに限ったわけではないが)

なにか知らないことばかりだ。

拘束された日本人がいることが分かっていたにもかかわらず、中東訪問での不用意に発信されたメッセージに
問題があるとの指摘もある。
 

ISILと<戦う>という意味を訊ねられた世耕官房副長官は昨夜のBS番組で、その戦うという意味というのは
困難な問題と闘うというニュアンスだとして、<contending with ISIL>を使ったんだと説明していた。


どっちもどっち という気がする。 contending か。 日本語も解らないのに ん~!?

この事件をきっかけにではあるが、もっと世の中で起こっている事実を ≪ 出来うる限り 正確に知ること ≫
の大切さを痛感した。

日本人は、忘れ去るのも得意な人種でもあるようだが、気をつけなくてはならない。