スノーマン見聞録

ジャンルも内容も気の向くまま~“素浪人”スノーマンの見聞録

円空さん

2011年11月18日 | 雑感
芭蕉が(奥の細道)に旅立った(元禄2年~1689年)24年程前、円空という一人の僧がそれまでの生活を捨て、芭蕉の北限(平泉)を超え、北の下北そして北海道(蝦夷地)にまで足を運んだ。

円空は、美濃国(現岐阜)羽島市上中町生まれ。(1632年~1695年)
母の死がきっかけで仏門に入ったといわれる。

行基・泰澄を慕い木彫仏の制作を通じ、神仏習合の思想を深めていき、生涯旅をしながら
12万体の神仏像を彫ったと伝えられています。


 (行基)~民衆の為道を作り橋を架け、、八幡信仰での東大寺建立にも大きな役割を果たした僧。
 (泰澄)~日本における木彫制作の創始者。越後・白山信仰を東北にまで広めた僧。
      ちなみに、東北に蚕の神様オシラサマのお守りは、白山のお守り。オシラサマのシロは
      白山のシロに繋がっているとの事。

● ここで日本における神仏習合思想を少し、、、。

  神仏習合思想は、役小角(えんのおずね)(役行者)によって始まり、泰澄・行基を経て空海により完成され
  比叡山に受け継がれ修験道に発展していった。

  (この役行者は、続日本記や日本霊異記に伝えられ、葛城山(金剛山)・熊野・大峰などで山岳修行。
   開祖の寺院・神社も多数あり、いたるところで登場する宗教界のスーパーマン)

  修験道には二派がある。
  本山派 ~最澄・円仁等の三井寺と聖護院を中心とする天台宗系。円空は三井寺系の修験道。
  醍醐寺派~理源・空海等の醍醐寺を中心とする真言宗系。


  修験道は鎌倉・室町で全盛を迎えるが、江戸時代に入り檀家制度で僧の移動が禁止され衰えた。
  更に神仏分離政策が追い打ちとなり修験者(山伏)が姿を消したのである。

  明治における神仏分離政策・廃仏毀釈運動は、江戸時代の信仰をくつがえすとともに、
  国家神道推進の強力な思想として展開していった。

世の人は、司馬遼太郎の影響もあり明治維新を評価しているようですが、過大評価
というきらいはありませんか?


なにか話がずれていきそうなので、円空・木彫仏の話しに戻します。
まずは、厳しさと微笑と、、生への覚悟のナタの入れ方をご覧ください。

               
(それぞれクリック拡大してください)
何年か前札幌の美術館で、全国にある円空の木彫仏の展示会があり。
確か千体近くの円空作・木彫仏が一同に展示され、、ナタ切り・粗削りの凄い作品ばかり。
微笑みの仏像、穏やかな仏像、柿本人麻呂像などの作品も。
上記作品に加え木端仏といわれる、数センチにも満たない極小仏等も多数鑑賞でき、感動を覚えた記憶があります。

(クリック拡大)
円空に影響受けた仏師木喰(もくじき)の木彫仏も有名ですが、鋭さはやはり円空では、、素人眼で失礼!

円空は、空海同様元禄8年・1695年に即身仏として、生きながら塚(墓穴)に入り入定。(死んでいきました)
 
(クリック拡大) 入定塚には毎年藤の花が咲く

凄まじいの一語ですね。 (入定塚は、岐阜県関市・長良川川畔にある)

円空は、木喰の行者でもあり、生の穀物を主食にしていたようです。
その穀物も、水も絶ち、、、。
即身仏(入定)するには、準備期間・千日行が修せられるそうです。

出羽三山の即身仏には、56億年後に衆生救済に弥勒菩薩が下生してくる時まで入定して、身心を保ちその
手助けをするという、、、言い伝えがあるのです。


それにしても、凄い人もいたものです。

円空の木彫仏像は全国到る所の寺院等に、、、(北海道にも伊達市・有珠善光寺、広尾・禅林寺等)
生涯制作12万体のうち、現存する仏像は全国に5千体あるといわれ、内北海道には33体が現存。
      
(クリック拡大)
みそぎ祭り~若者の前に円空作仏像(観音菩薩像)
上磯郡木古内町佐女川神社で奉納される【みそぎ祭り】(180年も続く神事)が有名ですが
そのみそぎに使われる仏像・円空作で木古内町には3体あるとのこと。


木古内町みそぎ祭りの画像ここをクリックしてください

円空本としては、梅原猛『歓喜する円空』がお薦めです。梅原氏は哲学者で、文学・歴史・宗教を包括する日本文化の先駆者。その論考は<梅原日本学>と呼ばれる。

仏教談話 (2)(仏さま)

2011年11月17日 | 雑感
仏ってなに? 仏さまって誰?

仏には、あの仏像?あの菩薩?そんなイメージをもっておりました。
(どうしても人間をイメージしてしまいます)


でもなにか違うようです。

仏典『法華経』によりますと、、、
仏は地球上のみならず、どの星にも、どの天体にも、つまり宇宙全体どこにでも仏は
いる、、、宇宙の真理そのものがイコール仏(ほとけ)。こんなイメージ。


ビッグバンで宇宙が創生され、気が遠くなるほどの年月を経て、生成・消滅を繰り返し、現在の宇宙世界が存在しております。
この宇宙の根本の真実・真理~これを法華経では、本仏というのだそうです。

そして、その宇宙のほんのちっぽけな、奇跡的に生かされている人間。その中でいかに生きるべきか、いかなる人間関係・社会であるべきか~これを迹仏(釈尊)の教えで説いております。

法華経は、あの宮沢賢治が心酔していた仏典で、、亡くなる前、知人・友人に数多く配布したのは世に知られております。また意外にも東京都知事・石原慎太郎が、毎朝少しずつ法華経を唱えているのだそうです。自称法華経信者で、本人著作『法華経を生きる』も名著です。

法華経は全二十八巻から成り立っており、前十四巻は、迹門(釈尊の教え)あとは本門(本仏の教え~仏の慈悲)から成り立ちます。
戯曲のような形で編集され、顕教密教(天台)の根本経典としても、また多くの仏教宗派で広く読まれている仏典です。


大乗仏教では、仏を三身仏(法身仏・報身仏・応身仏)とし、法身仏が本仏にあたるとも言えます。

あの空海は、その法身仏こそ、宇宙の真理=密教における大日如来=華厳経における毘盧遮那仏(奈良の大仏)としたのです。

果てしない銀河宇宙を物理科学的に観るか、心的に観るかの違い。

空海の瞑想法等も、心を銀河宇宙と一体化させ、冷静に今生きていることの
意味を想い廻らせ、いかに生きるべきかを知る修法、、、と解釈しました。


奈良の大仏さんは、宇宙の真理を現した仏(の姿)だったのですね。
《ちなみに鎌倉の大仏さんは、阿弥陀仏です。~報身仏(ほうじんぶつ)~修業して成仏する姿》
《上野の大仏は、上野恩賜公園内に頭部のみ~たび重なる罹災で破損・関東大震災で頭下、、、胴体以下は現在近くの寛永寺に保管》

                              
奈良大仏(毘盧遮那仏) 鎌倉大仏(阿弥陀仏) 往年の上野大仏(釈迦如来)   上野顔のみ大仏

平安時代以降、3、000を超える仏典が日本に入ってきました。
こんな数多くの仏典、、、全て読破なんて余程の高僧でも無理ですよね。


大般若経・観音経・法華経・無量寿経・阿弥陀経・理趣経、、、等々。

当時は立派な僧が大勢いたと思われますが、、それを継いだ、、悲しいかな人間の愚かな業、、でしょうか。

俺はこの経典が一番、、、私はこの経典、、、いろんな宗派を作ってしまい、、宗派同士で争う羽目に、、、俺はなに宗、、、私はなに宗、、、それがいまだに。

宇宙も釈迦の教えも真理はひとつなのに。

私の家は曹洞宗。 曹洞宗は道元禅師ですよね。

道元禅師は、著書『正法眼蔵』のなかで
《仏道には五家ありということなかれ》って書いております。

宗派を作ることさえ否定していたのですが、、、。


人間ってどうしてこうなのでしょうかねえ!

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教等々宗教同士の争いも、いまだに絶えません。

神様・仏様、、、いきつく先は宇宙の真理ひとつなのですが。

面白いことを発見しましたので紹介します。

久しぶりに『聖書』を、、、伝道の書に書かれていた言葉(訳本)です。

【伝道の書 第一章から第十二章】

  伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。

  、、、いたるところに空という言葉が、、、。

  ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。
  伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と。


これって、まったくもってあの262文字の色即是空・『般若心経』にそっくりではありませんか。


ある細胞・生物学者がいう。
『細胞は成長するにつれ、自らを守ろう守ろうとし、細胞の内に壁を作る性質が働き、外側からの養分を自ら吸収できなくなり、消滅していく、、とのこと』

生成・消滅は、細胞から出来てる人間の必然的な運命か。

スーダンでまた民族間の争いが激化、、イスラエル・パレスチナの争いは、何百年かかっても終わらない、、、等々この地球上での民族間・宗教間での争い。
そう 、、、紀元前、、いや人間がこの世に存在してから人間同士の争いは、絶え間なく続いております。

悲しいかな、、、皆それぞれ、互いに何かを守ろうとしているだけ、、、なのに。


なにか、今回のブログは(も)特に支離滅裂となりました。
なにを言いたいのか自分でも??になってしまったようです。


     神様・仏様を語るなど、、、、恐れ多し、、、。

蟻(アリ)の飼育やいかに

2011年11月09日 | 雑感

ちょっと前ですが、アリを飼育していたことがありました。

お笑いなさいますな!  (でも笑っちゃいますよね~!)

飼おうと思って飼ったのではなかったのですが、、、、。
実は、盆栽のお店で、いくつかの盆栽を買ったのですが、、、その中に
30センチ位の苔(こけ)が沢山生えている石を買いました。
(その苔群が素晴らしく、確か数えるとその石に10種類もの苔が密生しておりました)
            ~苔(こけ)については、別の機会にブログに、、こうご期待!(物好きですね~笑)

家に持ち帰り、眺めておりますと、、、その石になんと、、数匹のアリがいるではありませんか!
家中に散らばるのも嫌で、また興味も湧き、、好奇心旺盛、度がすぎて、、。

早速、その石以上の大きさの水鉢を購入。
石の周りに水をはり、島を作ったのです。


ひょっこりひょうたん島のようでした。(ご存じの人はご存じかと?)

それから毎日その生態を観察、、、楽しくて仕方ありませんでした。
ほんの1センチ程の茶色の可愛らしいアリ。

その生態観察を少しお話致しましょう。

始め5、6匹しかと思ったのですが、その島にアリの巣があり、全部で10数匹いたのです。
探索隊は、常に5、6匹で、その島になにか餌があるらしく探し回っているのです。
池にも落ちず、上手に探し回っているのです。
餌も少なくなり、と思い、時々砂糖や少しのさつま芋煮等を与えておりました。
(アリは基本肉食ですが、草食、菌食、雑食、蜜食等いろいろ、、)

凄い生命力。3ケ月目には、アリの巣は2ケ所、アリも50匹程にもなったのです。
(その頃には、探索隊は10匹程に増加しておりました)
アリは家族単位で社会生活をしているとのこと。
アリの巣が2ヶ所になったのは、驚きでした。

またアリのコミュニケーション力が凄い、と感じたことがありました。

ある時、餌(砂糖)をアリの巣から一番遠い場所に置きました。

すると、、働きアリがそれを見つけるやいなや、一目散に巣をめざし一直線に向かいます。


  (道に迷わずどうして一直線に行けるものかと驚きます)
   後日調べたところ、複眼とフェロモン匂いで判断できるそうです。
  (ちなみにアリ達がなんらかの原因で円を描くように列をなすと、足跡フェロモンをたどる習性があだとなり、
   延々と渦をまくように力尽きるまで回り続けることがあると言われます)

入り口に着くやいなや、、、大声で叫ぶのです。

決して巣中に入らず、、、入り口でですよ!

大声で叫んだそのアリは、また一目散に餌のある場所へ、、、。

するとどうでしょう!

そのあと、巣の中から何匹ものアリが出てくるではありませんか!


どうしても私には、入り口で大声で叫んだとしか思えませんでした。
 (声を出すか、手足等をこすり音でしらせるかしたのでしょう)


この時、アリに人間らしさ(??)を感じました。

残念ながらアリの飼育は3ケ月足らずで終わってしましました。

寒くなり、アリは冬眠するかな~と思い、ベランダに出しましたら、その日シバレがひどく
水が凍ってしまい、そこを伝わりアリがみんな消えてしまったのです。

アリの探索隊(働き蟻)は常に同じアリなのか?、、、交代制なのか?
 (ちなみに探検隊といわれる働きアリは、老齢の蟻が多いそうです、、アリの世界も、厳しいですねえ!
  そういえば、数日に1、2匹水死していたアリもおりました。
  アリにも運動神経の差があり、足を滑らせたのかもしれません)

もっともっとその生態調査をする矢先だったので、残念でなりません。

でも自然に返すのが最良なのか、飼育等するなんて人間のおごりなのか、その後は飼うのは止してます!(笑)

アリは世界で15,000種いるそうです。
(うち記載種は5,000種)
日本には270種とのこと。


アリは、1億2千年位前、スズメバチの祖先が分化したものとのこと。
アリが、ハチが進化した昆虫とは、、驚きですよね。

家屋を根こそぎ食い散らすシロアリってご存じですよねえ!

アリとシロアリは全く異なった昆虫とのことです。
アリはハチ目でシロアリはゴキブリ目に属する。
(シロアリは朽木などの植物遺体を食べるゴキブリの中から発達した系統の昆虫)
アリはシロアリにとって最も恐ろしい天敵でもあり、
熱帯ではシロアリを主たる獲物としているアリも少なくないと言われます。

この地球上に生命種は、なんと170万種もいると言われます。

そのうちの100万種は昆虫だそうです。
なんと6割に近い。


昆虫あなどるなかれ、、ですね!!


松尾芭蕉って何者?

2011年11月01日 | 雑感
       
(与謝蕪村が描いた芭蕉像)拡大クリックして下さい。

芭蕉って、忍者・隠密なの?  一体何者?

ん~どうかな~! 忍者の里、伊賀上野で生まれてるからそうかもね~!?
それに同行の曽良っていう人が、幕府から日光の内密調査を命じられていたとか、、。

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふるものは、
日々旅をすみかとす。、、、、


あの有名な『奥の細道』の冒頭文です。

芭蕉は俳聖とも言われ、神聖化されておりますが、真実はどんな人だったのでしょうね。

芥川龍之介は著書『続・芭蕉雑記』で、芭蕉は大山師だ、、、って言っていた。
また、西行ほどの精神的エネルギーがない、、、とも。
あの正岡子規も批判していたようですが、、、(芭蕉批判で俳壇に登場)。

いつでしたか嵐山光三郎 『悪党芭蕉』っていう本を読んだことがあります。
芭蕉批判の本かなって、、期待して読んだのですが、、、残念ながら。

「この一冊を書き終えて、知れば知るほど芭蕉の凄味が見えて、
 どうぶつかったってかなう相手ではないことだけは身に染みてわかった」と記しているのです。


だったら悪党芭蕉なんてタイトルつけるな!って思ったのは私だけでしょうか?

なかなか批判できないほどの人物だったのかもしれません。

芭蕉は、桃青って名乗っていた頃、東京の神田上水工事の仕事を請け負いしていた事もあるようです。

その時の居住跡・関口庵(東京都文京区)。そしてその後の住まい深川・芭蕉庵など、、
今でも残されております。

《古池や蛙飛びこむ水の音》の句碑がありました。

、、、その他いたる所に芭蕉の足跡が、、、。
大正6年に津波があり、石造りの蛙(カエル)が発見され旧跡に指定されたとのこと。
          そんなの、、あり、、ですか~!
    (クリック拡大)

上記の庵、そして深川にある芭蕉が座禅修業で足しげく通ったという、仏頂和尚の臨川庵(庵寺跡)なども現存します。

モノ好きにも、芭蕉の追っかけをしていた時期があり、それが高じて

千住から日光までのその足跡をたどり、140キロ(36里)程の道のりを5日間かけ歩いたこともありました。

(芭蕉が5日間、、よし自分も5日間で、、なんて意地を張って)

奥の細道、、全長2400キロ(6000里)。今では夢となっておりますが、歩いてみたいものです。
(ちなみに嵐山光三郎さんは若い頃、自転車で走破したそうです)

奥の細道 行程図クリック
(更科紀行などの行程図もみられます)

芭蕉・曽良は、深川から小舟で千住へ、大垣迄約3ヶ月。(芭蕉46歳での旅)
(芭蕉は旅の最後数日残すのみで曽良と別れる)
出羽の国の峠で用心棒を雇ったり、、、当時は命がけの旅だったのでしょうね。

この(奥の細道)~かなり手の込んだ創作のようです。

1.その日ようよう草加といふ宿に着きにけり
  ~千住から草加に着くには、早過ぎで事実は粕壁(現春日部)ではないか?
   とのことが、今や定説のようです。
   事実私も、、あれつ!随分早く草加に、、と感じたものでした。
   粕壁では、語呂合わせが悪い、、だったのかも知れませんね。

2.那須野で馬を借りたのですが、、、
  小さき者ふたり、馬の跡慕いて走る
   ひとりは小姫にて、名を「かさね」といふ

  
  ~当時の戸籍からは、「かさね」といった名前の子はでてこない?、、、。
   「かさね」って素敵な名前ですよね。
   たね、、よし、、とかではまずかったのでしょうか?(その方には失礼!)

3.荒海や佐渡に横たふ天の河
  ~どう考えても芭蕉の旅の視点からは、天の河は佐渡のそばには見えない?、、等々。
   
   芭蕉は、人間の視点よりもっと大きな、宇宙的な発想の持ち主だったのかも。

そんな疑問が、、奥の細道にはいくつも存在するのだそうです。

事後、曽良の日記等からも検証されており、『奥の細道』は紀行文と併せて、創作本としての
面がかなりあるとのこと。

いづれにせよ推敲を重ね、、世に出た『奥の細道』。

挿入された俳句をいくつか列記します。どれも深く、心に響きます。


行く春や鳥啼き魚の目は涙
○夏草や兵どもが夢の跡
○閉かさや岩にしみ入る蝉の声
○五月雨を集めて早し最上川
○雲の峰いくつ崩れて月の山
○暑き日を海に入れたり最上川
○荒海や佐渡に横たふ天の河
○一つ家に遊女と寝たり萩と月
○塚も動け我が泣く声は秋の風
○むざんやな甲の下のきりぎりす
○蛤のふたみに別れ行く秋ぞ


あと『奥の細道』の他に『野ざらし紀行』『笈(おい)の小文』『更科紀行』『鹿島紀行』

などがあり、、、すべて”凄い”の一語に尽きます。

『知れば知るほど、おもしろくて、偉大で、そして食えないジジイなのだ、芭蕉という人は』
 ~ 俵万智 著書(新・おくのほそ道)より

『釈迦を慕い、道元・西行を慕う禅者芭蕉の旅は、諸法実相に向かっていると私は思える。
 芭蕉の俳句は、諸法実相を求めるための方法なのである。』

  ~ 立松和平 著書(芭蕉)より~禅僧・道元の眼からみた芭蕉論。
    立松さんらしい評論です。

此道や行人なしに秋の暮 
芭蕉亡くなる(51歳)一カ月前の句だったそうです。

そして、病中吟として、、、旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
を最後に、、、永遠の旅に出たと言われます。

芭蕉の凄まじい程の覚悟に思うことは、風流のみに身を置くような人々とは、
                          一線を画していた、、、そんな気がします。

皆さんも、、さあ、、旅に出るとしますか

でも、永遠の旅は、、もう少し後でよろしいのですが、、、!!