スノーマン見聞録

ジャンルも内容も気の向くまま~“素浪人”スノーマンの見聞録

金子みすゞの世界

2014年01月29日 | 雑感
「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう、、、、こだまでしょうか いいえ 誰でも。
こんな詩が、東日本大震災後テレビで幾度も流れていたのが思い出されます。


26歳という若さでこの世を去った童謡詩人・金子みすゞ。(1903年山口県生)
なんともいえない詩を書いた人ですね。


放蕩の夫と離縁したが、幼子を連れていかれる前日、自分の最後の「写真の預り証」と「桜餅」を買ってきて、こんな手紙を元夫に残し睡眠薬で自らの命を絶ったという。
「あなたが ふうちゃんに あげられるのはお金であって 心の糧ではない。 どうか私を育ててくれたように 母にふうちゃんを預けてほしい」

親権は父親にしかない当時、連れに来られたら渡すしかなかった時代だったのでしょうね。

「ふうちゃん」こと上村ふさえさんは、毎年命日に桜餅(さくらもち)がでてくるのを不思議に思っていたそうです。
ふさえさんは戦時中辛くて、子供と一緒に死のうと思ったことがあったそうですが、母親・金子みすゞのことを想い起こし何度も自殺を思いとどまったそうです。

『 積 も っ た 雪 』

   上 の 雪  さ む か ろ な
   つ め た い 月 が さ し て い て
   下 の 雪  重 か ろ な
   何 百 人 も の せ て い て
   中 の 雪  さ み し か ろ な 
   空 も 地 面 も み え な い で


『 蜂(はち) と 神 様 』

   蜂 は お 花 の な か に 
   お 花 は お 庭 の な か に
   お 庭 は 土 塀 の な か に
   土 塀 は 町 の な か に
   町 は 日 本 の な か に
   世 界 は 神 様 の な か に
   そ う し て そ う し て 神 様 は
   小 ち ゃ な 蜂 の な か に


『 大 漁 』

   朝 焼 け 小 焼 け だ
   大 漁 だ
   大 羽 鰯 (いわし) の 大 漁 だ
   浜 は 祭 り の よ う だ け ど
   海 の な か で は
   何 万 の  鰯 の と む ら い す る だ ろ う


『 不 思 議 』

   私 は 不 思 議 で た ま ら な い
   黒 い 雲 か ら ふ る 雨 が 
   銀 に 光 っ て い る こ と が
   私 は 不 思 議 で た ま ら ない
   青 い 桑 の 葉 た べ て いる  
   蚕 が 白 く な る こ と が
   私 は 不 思 議 で た ま ら ない
   だ れ も が い じ ら ぬ 夕 顔 が
   ひ と り で ぱ ら り と 開 く の が
   私 は 不 思 議 で た ま ら ない
   誰 に き い て も  笑 っ て て
   あ た り ま え だ  と い う こ と が
   


  『星とタンポポ』 見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ。
  『みえない星』  星のおくには星がある   眼にはみえない星がある


 金子みすゞという人は、ほんとうに見えないものが観える人だったのかも知れませんね


東北伝説の勇者・阿弖流為(アテルイ)

2014年01月27日 | 雑感
『百時巡礼』東北編を読んでいたら、藤原三代(四代)の栄華、会津の徳一と最澄の宗教論争
 東北に残る「隠し念仏」、黒石寺の蘇民祭等々、東北というところは本当に興味がつきない。

東北各地に残る「ねぶた祭り」もしかり。 (呼び名や由来も諸説あるという)

この「ねぶた」っていうのは、「ね」に「ふた」をするという説もある。
「ね」というのは「命」のことのようです。


先住民の子孫を残せないよう、根絶やしにするため、、東北にはそんな悲しい歴史が残っている。

8~9世紀にかけ、東北に阿弖流為(アテルイ)という蝦夷(エミシ)がいた。
(1万5千の先住民・蝦夷が10万を超える朝廷軍と勇敢に戦ったという)

みちのくの蝦夷征伐の為朝廷側(桓武天皇)の命をうけた坂上田村麻呂と幾度も戦い、ついには和議に至ったが阿弖流為と仲間・母礼(モレ)は処刑された。 (高橋 克彦著『火焔(かえん)北の燿星アテルイ』)

東北を平定(いや侵略)した坂上田村麻呂は征夷大将軍として名を残す。
一方、阿弖流為や母礼は知る人ぞ知る、、といつも舞台裏。
 



ねぶたの剣士は坂上田村麻呂、鬼は蝦夷(えみし)か。 
なんとも悲しい祭りでもある。

そういえば、桃太郎伝説の鬼退治もしかり。吉備津彦命の渡来人・温羅(うら)への征伐物語というではないか。

勝てば官軍、歴史は勝者がつくる。 祭りまでもとは。

読書三昧 (17)五木寛之著 『百寺巡礼』

2014年01月26日 | 雑感
我が「酒と温泉の会」の仲間に日本百名山と世界百カ国を旅した人がいる。

よし私もと思いきや、気力も資金もあとちょっと足りず(笑)。 読書での「日本の百寺巡り」くらいが身の丈か。

実際にはと数えてみたが、百寺も 百名山も 百カ国巡りも 全て1~2割程度しか、、でした。




数年前に一人旅で訪ねたことのある山形県・山寺(第七巻・東北編)を少し。

山寺は松尾芭蕉の句 『 閉(しずかさ)や 岩にしみ入る 蝉(せみ)の声 』でも有名な寺。


(写真はインターネットから借用)

立石寺(りっしゃくじ)・山寺は通称名。 「東北の比叡山」といわれ、最澄の弟子・慈覚大師円仁の開基。

平泉の中尊寺や毛越寺、そして松島の瑞巌寺なども円仁が開いた寺のようです。

円仁は「東北のお大師さん」と呼ばれ百数十もの寺を創建、東北には円仁ゆかりの寺が多い。

唐に渡り密教を極め、延暦寺の第三世座主として天台宗を大きく発展させた人物。

この円仁と円珍(第五世座主)の弟子たちによる争いはつとに有名。 延暦寺山門派と三井寺寺門派に分かれて、幾度もの戦火(焼き討ち)にまで及んだといわれる。 僧とて人間、悲しい歴史があるものですね。
(三井寺は第四巻・滋賀東海編 )

山寺にある「法灯」は遠く延暦寺から、、著書でも記されていたが京からどうやって、、まるでオリンピックの聖火のようです。 延暦寺が織田信長に焼き討ちされたときには、ここ山寺から逆に運ばれたともいわれている。

この山寺、、ゆっくり歩いて登山口から往復一時間半くらい。景色も良好。 確か山寺駅から登山口までの参道で人気の「こんにゃく田楽」が売られており、美味でしたよ。

この第七巻には、東北に残された「隠し念仏」や朝廷(桓武天皇)の命を受け東北を平定(じゃない侵略ですね)した坂上田村麻呂と蝦夷・アテルイとの争い等も記されております。

『百寺巡礼』(全十巻)は日本の寺をめぐる仏教や神道、禅から念仏、寺院の歴史、境内の自然、仏像等々宗教を知るうえで貴重な資料でもあり、五木氏の仏教に対峙する真摯な姿勢がなんともすがすがしい名著です。

しばらくはこの本を再読しながら、夢の中で『百寺巡礼』の旅でもするとします。


なるほど ザ・ワード

2014年01月21日 | 雑感
先人には、なるほどと思える言葉や句がたくさんある。

○ 仙涯和尚にこんな言葉がある、、、『死にとうない』。
  良寛さんの臨終に際しての言葉とも言われる。
  いやこれは、白隠禅師の言葉だという説もある。

            ~いやはや所詮は人間 みな同じ思い。

○ 『来てみれば 聞くより低し富士の山 釈迦も孔子も かくやあるらん』
   長州藩・村田清風の句。

            ~何年か前に行って見上げたことがあるが、なんのなんの富士はやはり高かった。

○ 『人生は 冥土までの 暇つぶし』
   今東光 の言葉。

            ~達人にはかなわない。

○ 『面白き こともなき世を 面白く 住みなすものは 心なりけり』
  『西へ行く 人を慕いて 東へ行く わが心ば 神や知るらん』
   高杉晋作の句。

            ~なにごとも心の持ちようで変わる、、凡人にはなんとも出来ないでいる。

○ 『人生 百に満たざれるに 常に 千載の 愁いをいだく』
   唐代中頃・寒山子の言葉。

            ~そのとおりかも。

○ 『己を愛するは 善からぬことの 第一義なり』
   西郷隆盛の言葉。

            ~西郷は大塩平八郎を異常なほど尊敬していたという。
             日本では英雄だが韓国では三大悪人の一人とのこと。
             (井伊直弼~日韓併合・西郷隆盛~征韓論・豊臣秀吉~朝鮮征伐)


○ 『行わずんば これを知と 云うに足らず』
  『身の死するを恐れず ただ心の 死するを恐るるなり』
   王陽明の言葉。

            ~陽明学は河井継之助や西郷隆盛等維新前夜に多く学ばれた学問。
             危険思想とも言われていた。


○ 『英雄も 賢者も 満ちたあとは ただ欠ける時を 待つ』
   紀元前2600年も前、古代メソポタミア「ギルガメッシュ叙事詩」より

            ~いつの時代も変わりなし。

○ 『酒を飲むものは山を去れ』 最澄
   『塩酒いっぱいこれを許す』 空海

            ~厳格な最澄と高野山の厳冬を凌ぐ保温の為少しの酒を許した空海。
             さてあなたは、、、どっち!


○ 『悲しみは笑いにまさる 顔に憂いをもつことによって 心は良くなるからである』  
   聖書・伝道の書より。

            ~笑いがまさると思うのだが、、聖書は深い。

○ 『善きひとであるとか 悪しきひとであるとかの 最も明らかでないのは 睡眠中なのである』
   アリストテレスの言葉「ニコマコス倫理学」。

             ~なるほど人生の半分近くは皆同じ、、というわけだ。

○ 『旅をしない人間は(少なくとも芸術や学問にたずさわる人々の場合は)哀れむべき存在です』
   モーツアルトの言葉(父への手紙)。

             ~人生の三分の二を旅に明け暮れたモーツアルト、、説得力ありますね。

○ 『正義とは 各人が自分自身のことを為し 余計な手出しを しないことである』 
   プラトンの言葉「国家」。

             ~大国の要人に聞いてほしい言葉でもある。

○ 『仏などいない いるのは 狐と狸ばかり』
   栄西の言葉。

             ~自分もそのうちのひとりか。 えっ、あなたも?。

○ 『生れ生れ 生れ生れて 生のはじめに暗く 死に死に 死に死んで 死の終りに莫(くら)し』
   空海の言葉「秘蔵宝鑰」。

             ~死んでどこに行くかと聞かれても だれもわからず。

○ 『つつしんで宗称するなかれ 仏法に五家ありと いうことなかれ』
   道元の言葉「正法眼蔵」。

             ~道元にとって禅宗を称するのは勿論、曹洞宗を称するなどもってのほか
              だったのですが、、後を行く人が、、どうも情けない。


○ 『春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり』
   道元の句。
  『形見とて なにか残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉』
   良寛の句。

             ~真似もここまでくれば すがすがしい。  

○ 『一切の断定を捨てたならば 人は世の中で 確執を起こすことがない』    
   ブッダの言葉「スッタニパータ」(中村元訳) 
   (仏教の諸経典のうち最も古いといわれる)

             ~確かに肯定と否定。二つの極端と二つの見解が確執の原因かも。                          
       

戦後 (パートⅠ)

2014年01月13日 | 雑感
戦後(パートⅠ)~(パートⅢ)迄少し長くなります。 恐縮で~す。

(北海道新聞朝刊)
昨日は『尖閣・竹島』の領土を中高教科書指針に明記すると文部科学省検討、、、。
今日は『秘密保護法』への廃止を訴える投稿(映画監督・山田洋二)、、、。


などなど、アジアをめぐるきな臭い問題が連日のようにニュースとなっている。
戦後70年にもなる今もである。

昨日テレビで も安部首相・靖国神社参拝問題が議論されていた。

西尾 幹二氏(『国民の歴史』を書いた右派論客)がこんなことを話していた。

”日本人はたとえ戦犯であっても死ねば皆神仏として祭られる。でもある国は墓場を掘り起こしてでも
傷めつける”
この文化の違いは大きい、、、と。


秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ』(副題ーGHQが東京に刻んだ戦後ー)という本がある。
(ノンフィクション作家・日本エッセイイストクラブ賞受賞)

今の原宿界隈、明治神宮そばにあったGHQ後の米軍とその家族たちの街。フェンスに囲まれたそのエリア(ワシントンハイツと呼ばれた)から日本人のアメリカ化の波が広がったという。

その米軍家族の生活、闇市、諜報実態、など占領後の日本についてが詳細にドキュメンタリータッチで描かれている。

東京大空襲の様子も描かれておりました。


1944年(昭和19年)以降に130回もの空襲で、死者10万人以上とされる。
B29による夜間無差別爆撃で、東京市街地の約半数が猛火に覆われたという。


火事場突風が風速50メートル以上にも達し熱風の為目を焼かれ行動の自由を失い、、等など。

我が日本は被災に備え「バケツリレー」の訓練などをしていたというではないか。 痛々しい限り。

この米陸軍空軍を指揮し日本への大空襲を実現した張本人カーティス・ルメイの話が記されていた。

”無差別爆撃に先に手を染めたのは日本軍だ。 中国の重慶を爆撃しているではないか”
”フィリピンでの米軍捕虜の扱いに見られるように、日本兵は残酷で極悪非道だから報復されても仕方ない”
、、と公式の場でも語っているという。

不思議なことにこのカーティス・ルメイに対し終戦から19年後、日本から「勲一等旭日大綬章」が贈られているという。
(経緯は明らかではない)

米によるこの空爆、成功以降世界戦争の形態を大きく変え、アフガン・イラクでも戦争は航空戦が主体となっていった。


直接銃口を向けない空爆として、、、罪の意識が薄れ、人の命を軽んじるようになっていく、、、。

戦後 (パートⅡ)

2014年01月13日 | 雑感
大東亜戦争(太平洋戦争)に至るまでの経緯を列記してみます。

1931年 当時の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破。 中国軍の仕業として爆破を合図に関東軍は奉天を占領。いわゆる満州事変である。

この辺からきな臭い匂いが、1936年2・26事件が起こり鎮圧はされたが、陸軍は逆に政治に口出しするようになり、政治家はさらに委縮。 陸軍が操り易い内閣をつくり日中戦争・大東亜戦争(米は太平洋戦争と呼ぶ)へと進んでいった。

日中戦争は1937年から1945年まで、大日本帝国と中華民国(蒋介石政権)および中国共産党との間で行われた戦争である。大日本帝国政府は、勃発当時は支那事変としたが、1941年12月の対米英蘭の太平洋戦争開戦に伴い支那事変から対英米戦までを「大東亜戦争」とした。

ドイツはソ連を仮想敵国としたが、米英にまで拡大するよう日本に働きかけ、日本陸軍はそれに一時は応じようとしたが、米英には勝てないとみた山本五十六らが阻止。

いったんこの三国同盟は消滅したが、ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦に突入。ふたたび陸軍中心に三国同盟が現実実をおび締結にすすんでいった。

ドイツがソ連に侵攻。ここでも米英が背後にいた。当時の松岡外相がソ連との開戦を主張。

米は日本人の在米資産凍結し、石油の全面輸出禁止を決定、、石油がなければ軍艦も飛行機も動かない。日本の石油備蓄はあと二年分しかなかったのである。

日本は米に譲歩して中国や仏印から軍を撤退させるか、さもなければ米英と戦うかしか道はなくなっていた。

日米交渉は、日本が譲らない限り妥結の見込みはなかった。 当時の近衛内閣は東條陸相に中国からの撤退を求めたが、答えは非。万策尽き果てた近衛内閣は総辞職。

後継には以外にも東條が、、。陸軍抑え込むには東條しかいないとの理由で。 天皇も『虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね』として同意したという。

米・ハル国務長官はすべてを満州事変前に戻すことを要求、いわゆる『ハル・ノート』。日本はこれを最後通牒と受け止め、12月1日の御前会議で、対米英蘭との開戦を決定した。

対米戦は避けるべきと主張していた山本五十六も組織人なるがゆえか、いざ開戦となるやハワイオアフ島の真珠湾攻撃の奇襲を発案。 1941年太平洋戦争勃発に至ったのである。

太平洋戦争が勃発したときすでに日中戦争が始まってから4年以上、中国を背後から支援していた米英こそが憎むべき相手、鬼畜米英をスローガンに、、、との雰囲気が日本国内に蔓延していった。


歴史は事実を知ることが大切ですが、勝者の論理・敗者の論理でも大きく異なります。

敗戦から70年、今は豊かになった日本の富をアメリカに献上するシステムができあがりつつあるのかも知れません。 TPPなどもその流れなのでしょうか、、、。



戦後 (パートⅢ)

2014年01月13日 | 雑感
渡部昇一著『東條英機歴史の証言』(副題ー東京裁判宣誓供述書を読みとく)を読んでみた。

安部政権になってから憲法論議や靖国問題論議がさかんです。

上記の本は、A級戦犯として東京裁判により死刑(縛り首)執行された東條英機の「東京裁判での宣誓供述書」の復刊でもあり、それを要約し歴史的説明を加えたものです。

555ページにもわたる本ですが、東條英機の「東京裁判での宣誓供述書」本文全文(156ページ)掲載しており、
「日本はどうして戦争に突入していったか」を読みとく貴重な資料としても一読を薦めます。

東條英機は供述書でこう主張。

 ”1941年12月8日に発生した戦争なるものは、米国を欧州戦争に導入する為の連合国側の挑発に原因し、
  我国の関する限りに於いては自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信するものであります”

 ”侵略でも搾取でもありませんでした”
 
 ”私は最後までこの戦争は自衛戦であり現時承認せられる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します”

 ”敗戦の責任については、当時総理大臣たりし私の責任であります”


 、、と戦争責任と敗戦責任は別である、、との考えをもっていたようです。

もちろん国際法上やっていい戦争があっていいか、などとの考えもいかがなものか、とも平和ボケした私なんぞには思われるのですが、勝者が敗者を裁く、、このこともおかしな話ではないでしょうか。

東京裁判では、フィリッピンの判事は全員死刑の意見を、インドのハル判事は全員無罪を、それぞれ主張しています。

ハル判事の全員無罪については被告たちの行為が正しかったというのではなく、「国際社会がいまだ国内社会のような強制手段を加えうるほどには発達していないという悲観ゆえであり、そうした状態で敗れし者だけを処罰するという勝者の方法に反対したからであった」(水島吉隆著『日本の近代100年史』より抜粋)


考えてみれば今も昔も資源の分捕り合戦が続いている。

当時日本もそうであったように、米英も大東亜地域に進出、領土を獲得に躍起となっていた。

当時、インドネシアの石油はオランダが占領。 マレーシアのゴム・タイの米はイギリスが、、、。
日本が連合国側に鉄鋼や石油などを禁輸させられ、にっちもさっちもいかない状況にあったことは事実のようです。

終戦の2年半後(1951年5月3日)マッカーサー元帥は、アメリカ上院の軍事外交合同委員会という公式の場で次のように語って証言しているという。

 ”日本は絹産業(蚕)以外には固有の産物はほとんどないのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、
  石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い。その他に多くの原料が欠如している。
  そしてそれらの一切のものがアジアの海域には存在していたのです。
  もしそれらの原料の供給を断ち切られたら一千万から一千二百万の失業者が発生するで
  あろうことを彼らは恐れていました。


  したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られて
  のことだったのです ”

(Their(The japanese people's) purpose, theretore, in going to war largely dictated by security.)

歴史は繰り返すという。 安全神話は崩れかけている。 要注意。

『猫』版 癒しの本

2014年01月11日 | 雑感
『人生ニャンとかなる!』っていう本が若者にうけているという。



マリリン・モンロー  スチィーブ・ジョブズ  ピタゴラス  ダ・ヴィンチ等々の著名・偉人たちの言葉や名言を織り交ぜた作品。
(明日に幸福をまねく68の方法とある)

言葉・名言はネコにはかなわない。

ネコの写真がなんとも癒され、見ればフッと笑みがこぼれる。

















どうも生きにくい世の中になってきたようである。

若者が癒しを求め、もがいている顕れなのか、、、。


『小声なら愚痴。叫べばロック。』 、、、これ、いいですねえ。

『頼るのは恥じゃない』 、、、よし これからは(も、かな)これでいこう!!

もし道に迷ったら 猫についていくことだ 猫は道に迷わない 、、、なるほど。
                         (チャールズ・モンロー・シュルツ)

「人生はニャンとかなる!」 タイトルも面白い。

『犬』版「人生はワンチャンス!」も好評とのこと 


スイスアルプスと軍事

2014年01月07日 | 雑感
スイスの山々はスイス国土の三分の一を占めるという。
(4000メートル級の山が48峰あり、1位はモンテローザ(434m)。 写真のユングフラウ(4158m)は30位)

ちなみに日本の富士山(3,776 m)はスイスアルプスでいけば99位だそうです。

GDPは2012年・世界20位。 主要産業は金融・観光・精密機械・化学薬品等々。

スイスアルプスの自然の美しさと軍事、、、を少し。



スイスは、数千人の軍人と20数万人の予備役軍で構成されるスイス軍を有した永世中立国である。
PKOに積極的だが、武器を用いない人道支援に徹している。



この山嶺のどこかに、いくつもの岩山をくり貫いた地下軍事基地が要塞化されているという。
(インフラには有事に国境を封鎖する解体の爆薬を差し込む準備も整っている)



スイス軍は陸軍と空軍を有するが、他国を攻撃しうる能力は持たない。



徴兵制度は20歳から30歳兵役を義務化(女子は任意)。大多数は予備軍人で、家庭には自動小銃が貸与されているという。2006年までは家を建てる際には、核シェルターの設置が義務化されていた。(現在は任意)



小火器や装甲車が世界に輸出されており、スイスの兵器は日本にも輸出、警察・自衛隊等に採用されているともいう。



近世までスイスの主要産業のひとつとして存在していたのが『傭兵』。スイス傭兵の精強さは、ヨーロッパの歴史上、殊に有名。 今は禁止されているが、バチカンの傭兵のみ例外としてあるという。
(ちなみにスイス人口800万ほどの内カトリックが43%、プロテスタント35%を占める)




以上スイスアルプスの自然の美しさとは似ても似つかぬ『スイスの軍事面』を記してみました。

スイスを侵略することによって得られる利益より、スイス軍の抵抗や国際社会からの制裁によって生じる損失の方が多大であるという状況を作り出すことによって、国際紛争を未然に防ぐ戦略に徹底しているようです。

さて、我が日本は、、、どこに向かうのでしょうか。

上記の写真は数年前スイスに旅した時のものですが、”わあ凄い なんと美しい”、、と自然の美しさばかりにただ感動しただけの旅でした。

今度行けたら、是非岩山をくり貫いた要塞でも見たいものです。