スノーマン見聞録

ジャンルも内容も気の向くまま~“素浪人”スノーマンの見聞録

冬ごもり

2014年12月23日 | 雑感
脚が痛み、どうにも長く座っておれず、少し早いですが当ブログも正月休みです。

たぶん自症・狭窄症だと思います。(医師から症状名聞くのを忘れたもので)

自分がいかに痛みに弱いか。 こんなもんで鎮痛剤にたよる。 情けなさで涙こぼるる。   

みなさんにとっても 来年は良い年でありますように。

読書三昧 (23) 『 ヤコブセン全集 』

2014年12月22日 | 雑感
J・P ヤコブセン(1847~1885)デンマークの詩人・作家だ。

植物にも造詣が深く、ダーウイン『種の起源』のデンマーク語翻訳もしている自然科学者でもある。

生涯に二冊の長編と六つの短編、いくつかの詩篇を残しただけで38歳の若さで夭折したという。
先日当ブログでも記した無神論の聖書ともいわれる長編小説『ニイルス・リイネ』が代表作。

その全集を読んでみた。 六つの短編の一つに『フェーンス夫人』というのがある。

 主人公フェーン夫人が未亡人になってからめぐり会った初恋の人との愛の物語。
 そして結婚するが、幸せは長くは続かず。突然自らも死の病に侵される。
 その愛ゆえに離れ離れになった子供たちへ遺書をしたためるという結末。ヤコブセン晩年の作品だ。


≪さようなら、千の願いと千の感謝がそのなかにある≫作者のこの世への決別の言葉と見てとれる。

『モーンス』や『二つの世界』等なんとも哀切極まりない、それでいて暖かい気持ちにもなる物語ばかり。

今まで多少なりとも小説を読んできたつもりだが、読んだ印象がどこかが違う。 

爽やかなうちに哀しみをも秘めた・印象派絵画モネの<日の出>を観ているような小説だった。
詩人が書いた小説だからなのかも知れない。 

詩抄という数編の詩のなかから ≪永遠≫と題する詩があったので紹介します。

    永遠にして また 不変なるは
     ただ 虚空のみ
      ありしもの いまあるもの
       また これより来るもの
        すべては芽吹き 生い出て 伸びあがり
         うつろい 老いて はた 死にゆく

     いま この地球が さまようところは
      かつて 他の さまよいしところ
       時ながれなば いつの日かまた
        他の者が 来るであろう
         生命の去来をよそに
          空虚の中の 空間こそ 永遠である


神はいる いない 神は在る 無い 全ては銀河の虚空のなか これぞ神のみぞ知る。

来年は少し外国ものも読んでみたい気がした。 勿論生きていたらの話ですが、、、。

年の暮も押し迫ってきましたね。 

脚痛のせいもあり、どうも近頃気持ちが冴えない。こうして椅子に座っていても痛む。鎮痛剤でなんとか。

≪ 心を熱くして 生きなくては 何の 老いがあろう ≫
                        (90歳に成らんとする人間国宝・志村ふくみさんの言葉だ)

情けないことばかり言ってもいられない。  フーッ!




素浪人のひとりごと(3)

2014年12月20日 | 雑感
STAP細胞存在示せずに終幕、とのニュースが流れた。

私も、必ずや小保方さん自身の手でその存在を示してくれることを信じていた一人であった。
残念無念である。

それにしても今回のことは世間に大きな波紋を投げかけた。

科学とは法律とは世間とは保身とは組織とはそしてコピペとは、みんな小保方さんに教えられたような気がする。

理研はSTAP細胞論文の疑問点の調査は続行するとのことだが、じゃ今まで何してたの?って感じです。
小保方さんが退職したので処分はできずとのこと。

でもいいじゃないですか これで。  ”大岡さばき ”でいいじゃないですか。
”大岡さばき ”はあってもいい。 世間にはもっとあってもいいのでは。  そう思います。

そりゃ自殺者(笠井氏)もでたこの問題。 医療の先行きにも関わる、事の重大さはあると思う。
日本の科学界信頼への失墜もしかり。

笠井氏も悩んだ挙句の哀しいできごとですが、小保方さんとの心の流れを信じようじゃないですか。

小保方さんには また別な研究所で かならずや一生かけてでも STAP細胞を見つけていただきたい。

 『 魂の限界まで取り組んだが、今は疲れ切り、このような結果にとどまってしまった
   ことに大変困惑している 』

                            小保方さんはこうコメントを公表しているという。

やってくれるよ きっと。 そう信じている。 たのむよ 小保方さん。
甘いかなぁ! 俺って。  美人に弱いし。 


文藝春秋 パートⅡ

2014年12月18日 | 雑感
今日の北海道新聞朝刊に次の記事が掲載されていた。

前回ブログで記した元朝日新聞記者(植村隆氏)の独占手記『慰安婦問題「捏造記者」と呼ばれて』の
当事者が非常勤講師として勤務する北星学園大が
”当人を辞めさせなければ学生に危害を加える ”
などと脅迫されている問題で、同大の学長は講師との契約を更改し、来年度も雇用を継続する旨を
正式に発表したとの記事だ。


札幌・北星学園大を支援する運動が札幌市長初め多くの賛同を得、今回の発表に至ったとのこと。

大学側の勇気ある決断・警察は捜査を徹底すべき・市民の力の勝利だ・民主主義は政治家や学者によって
守られるものではない、等の記事が目立ったが、情報・事実確認不足のまま記事を書いた元朝日新聞記者
及び掲載した朝日の責任は重大で、こと外交問題でもありその説明責任は勿論忘れてはならないと思う。


それにしても大学への脅し、嫌がらせの電話は700件以上・メールは2000件近くにも上っていたとは驚いた。

今回の月刊誌『文藝春秋』新年号をようやく読み終えた。 

戦後70年「70人の証言」と題し、<法廷内での麻原彰晃>や<三島由紀夫自刃介錯した男の後半生>
そして<A級戦犯・廣田弘毅合祀への違和感~孫・廣田弘太郎>や<あさま山荘事件>等々、昭和の
印象深い出来ごとへの論評も数多くあり、読み応え満載であった。

もうひとつ、<北海道を射程に入れるロシア軍の大増強>と題した興味深い記事があった。

2014年度上半期だけでロシア機への日本航空自衛隊からのスクランブル発進がなんと324回にも及んだとのこと。
ちなみに中国軍機へのそれは、207回と断トツロシア機への方が多かったという情報だ。
(総合幕僚監部発表)
(航空機630機、艦船80隻の大規模な演習とのこと) 

中国からの尖閣列島近辺へのスクランブル発進ばかりに注目されていた時期でもあった。
北海道いや米軍基地がターゲットなのか。 欧米に追い込まれるロシア。 外交ベタな日本。 高レベルなマスメディア? 

確かにこのロシア・東部軍管区の大演習はメディアで少しは報道されてはいた。
(テレビで安倍総理が、北方領土における軍事演習については外務省から厳重に抗議する旨放映あり)

でも中国のそれとは比較にならないほどの報道の仕方である。

冒頭の慰安婦問題もしかり、日本のマスメディアへの信頼度やいかにと首を傾げざるを得ない状況です。
多大な情報が錯綜する昨今、何を信じ何を棲み分けたら真実に近づくのだろうか。


<日本のマスメディアのレベルが日本人一人ひとりのレベルでもある>誰かがそう語っていた。 

事実 その通りなのかも知れない。 

文藝春秋

2014年12月12日 | 雑感
雑誌『文藝春秋』が面白い。 10日発売した月刊誌だが、先月10日に亡くなった高倉健さんの
病床で綴った最期の手記が掲載されていた。


というか最後の手記が掲載されていたので『文藝春秋』新年号を購入したというのが正解だ。

     

健さんの手記は諸行無常ではじまり合掌で結んでいたが、健さんらしい真摯な文章で人生感・死生観が
綴られていた。 とても病床からの原稿とは思えない力強さを感じたのは私だけでしょうか。


健さんには、≪あなたに褒められたくて≫≪南極のペンギン≫≪旅の終わりに≫などの著書もあり、
第5回日本文芸大賞エッセイ賞も受賞しているくらいの名文家でもありました。

ノンフィクション作家・沢木耕太郎氏の「深い海の底にー高倉さんの死」と題した健さんへの追悼文もよかった。

改めてご冥福をお祈り致します。

今年話題になった朝日新聞の慰安婦問題で<捏造記者>と言われた植村隆氏の独占手記も掲載されていた。

ソウルの「韓国挺身隊問題対策協議会」メンバーからの一本の録音テープ(元朝鮮人慰安婦の証言)のみをもとに
原稿を作成、記事にしたとの事。


情報力の無さが捏造とまでエスカレートしていく、、記事にした二日後(それまでは証言者が取材も拒否、名前も
明かさずだったのが)一転なぜか会見に至る。その後慰安婦に至る経緯に、義父に連れていかれた
とか様々な情報が新たに出てくる。 

しかし「だまされて慰安婦にされた」と書いたが、暴力的に拉致した類の強制連行ではないことは
認識していたようで、ここでも強制連行とは書いていないと主張。


バッシングもひどいもので捏造記者と言われネットでの中傷も過激化されていく。

新たな大学の雇用契約も解消され、唯一勤務する札幌の某大学にまで、<売国奴・国賊なぶり殺しに
してやる。すぐに辞めさせろ。やらないのであれば天誅として学生を痛めつけてやる>
などとの名無しの手紙。

記事が書いた時代まだ生れていない娘までにも及んだという。
<こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。自殺するまで追い込むしかない>などと。

詳しくは手記を読んで判断してほしいが、それにしても報道とは恐ろしいものです。

勿論、情報の正確さ・レベルの高さを必須とすべきは報道・マスコミの責務です。

まだ全ては読んではいないが、今回の『文藝春秋』は戦後70年記念号として、70の人がそれぞれ戦後を
語っており読み応えのある一冊になっている。 定価930円。 宣伝料は特にいただいていない。 

旅へのあこがれ

2014年12月07日 | 雑感
2年前・病後ではあったが、ヨーロッパに旅をしたことがあった。

当ブログ・ヨーロッパへの旅(クリックしてみて下さい)

旅は楽しい思い出・あこがれだが、悔いることも多い。 

あれも観ておけば、これも調べておけば、あぁそうだったのか、あそこにあったのになぁ、、なんて。

ザルツブルクに旅した時も、近郊・標高1800mほどに側近から贈られたヒットラーの山荘(別荘)があるを知り、
”あのヒットラーがどんな自然を愛したのか”などと良からぬ妄想を抱いたが、ある事情で断念した事があった。

  
 (インターネットから借用~山荘からの眺め・右下にはザウツブルク市街・モーツアルトやサウンドミュージックの舞台でもある)

ヒットラーは高所恐怖症で、たいしてそこには訪ねていない等々これも良からぬ情報を得、当時熱中していた
モーツアルト、市街にある生家やザルツブルク城などを巡る旅一本に絞ったのがその理由であった。

その山荘からの景色なども観ておけばと、ザルツブルクがサウンドミュージックの舞台だとも知らなかった。  

旅とは いや 人生とは 悔いばかり。 歌の文句のようにはいかないようです。

観る旅、聴く旅、読む旅、味わう旅、語る旅、そして酒に酔いしれる夢の旅、病床で闘う苦悩の旅もある。

人生すべて旅、、とよく言われるが、行き着く先はどこなのでしょうかねぇ。

旅と言えば、我が山の会(いまは観・酒乱の会に改名?)に旅に明け暮れる仲間がいる。

最近読んだ詩人・リルケにこんな旅の詩があった。 その旅の達人にあてはまるような詩が。

    遠くまで世界を巡り 旅ゆくものよ
     こころ静かに 悠々とさすらい 歩み続けよ
      人の苦悩を君ほどに
       知る人はいないのだから
 
    明るい光を放ちながら
     君が歩みはじめるとき
      悲しみは濡れた眼を
       君に向かって開くのだ

    その瞳のなかに まるで
     解ってくれ! と呼びかけるように
      その奥底に
       悲しみに満ちた世界がある

    かぎりない涙は語る
     いつまでも癒され 鎮まることなく
      その涙 ひとつひとつに
       君の姿が 映っている!


≪ かぎりない涙を 一心に背負って 旅をしてごらん ≫ そんなふうにも聴こえます。 

≪ 千里の旅は万巻の書に値する ≫とは今年初めに他界した森本哲郎の言葉。(昨日の道新朝刊コラムより) 

世界的な詩人・リルケに 背中を押されるなんて 達人 プレッシャーかな~?(笑)






   

読書三昧 (22) 『 ニイルス・リイネ 』

2014年12月03日 | 雑感
詩人・リルケは旅するとき、常に聖書とヤコブセンの書物を持ち歩き片時も離さなかったという。

先日の当ブログでの志村ふくみさんの著書で初めてこのヤコブセンという名を知り、早速読んでみました。
ヤコブセン(1847~1885)はデンマークの詩人・作家・植物に造詣が深く自然科学者としても知られる。

この『ニイルス・リイネ』はヤコブセンの代表作。 無神論者の聖書とも呼ばれているようだ。

≪恋人・友・母を失い、故郷に戻り結婚し子供も授かったが、その妻と子も突然の病に犯され
  相次いで他界する。 主人公ニイルス・リイネも祖国に志願兵として従軍、胸に敵弾を受け死んでいく≫


夢と愛、そして孤独と絶望。 どこで神に反抗・挑戦するに至ったのか、なんとも哀切極まりない物語だ。

こんな文章がありました。 主人公ニイルスと友人ヒエリルとのやりとりの抜粋です。

  ニイルス : 神はありません。そして人間は自己の預言者なのです。

  ヒエリル : いや、まったく! しかも無神論の要求たるや、極めて穏やかなもので、ほんの人類の妄想
        をなくそうというだけなんですがねぇ。
        導いたり裁いたりする神への信仰は、人間の最後の妄想です。
        ところで、それを失ったら、さてどうなりますか?
        そりゃ賢くなるでしょう。 だがはたして、より豊かに幸福になるでしょうか?
        ぼくにはどうも信じられない。


  ニイルス : では君は、人間が高らかに「神はない」と歓呼できる日こそ、まるで魔法の杖を
         ひと打ちしたように、新しい天と地とが創造される日だということは思われないのですか。
         ・・・・・・・・
         人間がもし天国への希望や地獄への恐怖なしに、ただおのれ自身を恐れおのれ自身に期待して
         自由にその生を生き、その死を死ぬことができたとしたら、、、。


ヤコブセンを心酔していた詩人・リルケもこうキリスト教を批判する。

      『あの人は人としてなら神のように偉大であったろう。
                そしていま神として、あの人は人のように矮小にみえる!』
                                                        (初期詩篇・十字架のキリストより)

      『あなたはこの地上で主の預言者だが あなたこそ最初の罪びとなのだ』
        ・・・・・
       羊たちは大きな音をひびかせて 教会の鐘が鳴りわたると たちまちみんな従いてゆく
       かれらは坊主が説教を 眠たそうな口調で唱えさえすれば わが身が償われたと感じるのだ』
                                            (初期詩篇・信仰告白より)

  神格化されたキリスト教のイエス・キリスト像を、慣習化された信仰をもきっぱりと否定している。

またこうも語る。
      『すべては去るものならば すぎ去るかりそめの歌を作ろう。
       ・・・・・・・
       すみやかな別れより 私たち自らが すみやかな存在となろう』

                                          (フランス語詩集・果樹園より)

 生きることがすべてだ。 彼岸よりこの世がすべて そう訴えているような気がする。

 リルケが常に持っていたという<聖書>と<無神論者の聖書>といわれる相反するような二つの書物。
 実は相通じ、根底に流れているものは似て非なるものなのでは、、、とそんな気もした。


神を信じる人、信じない人、またどの神を信じるか。
不思議な≪人間≫という動物。 この世に争いが絶え間なく続いている このことだけは確かなようだ。
 

さて皆さんは どう思われます!?