マスコミが権力サイドに偏った報道をしているため、一般国民は次のことを信じて安倍自民党政権を支持してしまっている。
①円安になった、輸出産業が国際競争力が出て、景気が回復する。
②物価が上がった、これで給料が物価にスライドして上がれば、デフレから脱却出来て景気が良くなる。
③株価が上がった、景気回復の表われだ。
これを理由に、安倍首相は国会の場で野党の質問に対し「あなたがた(民主党政権)の時には(景気回復が)出来なかったではないか」と円安・物価高・株高で景気を良くしたのは自分だと自慢する返答で終始している。
国会議論の質疑応答になっていないのだ。
そして解釈改憲・集団的自衛権(海外での軍事力行使)・武器輸出解禁等に懸念を表明する野党の質問に対し「私が最高責任者だ」と恫喝。最高責任者だから何でもできる、と国会を無用の長物化してしまった。
この憲法違反・議会制民主主義の破壊行為に対し、国民を啓蒙し警告を発すべき報道機関が沈黙してしまっている。
そして国民生活とは直接関係の無いゴシップ記事で報道を満たす。古くは朝青龍や海老蔵や酒井法子や草剛や新しいところでは小保方さんのように。
各種記者クラブに所属し権力者に従って権力者の言っていることをそのまま記事にするだけで平均年収1000万円~1500万円超を稼ぐテレビ・新聞の取材者・記者には日本の労働者の3割を越える非正規労働者や、7割を越える中小企業の経営者や、3割を越える貯蓄ゼロ家庭といった弱者の苦労が分からないし取り上げようともしない。いまだに15万人以上(26万7千人との統計もある)の福島の避難民や放射能汚染が続いているのに政府の収束宣言を報道した時点でこの件はチョン。
非正規労働者や福島原発の被災者や沖縄の住民等々の弱者がマスコミによって切り捨てられているのだ。報道しないことで!
①円安により庶民・中小零細企業はガソリン代の値上がり、電気料金の値上がり、輸入小麦粉に頼っている食パンやお菓子類始め食料品の値上がりと給料も上がらないのに生活必需品が軒並み高騰している。
②物価を2%上げデフレからの脱却を意図しているが、これも庶民にとっては給料が上がってナンボの世界なのだ。
③株高と騒ぐがこれも世界金融資本(特に米資金)が少々操作をすることで日本の株価などどのようにもなる。
日本株を買って儲け、売って儲けのいわゆるマネーゲームの世界であり、日本の投資家のように株が上がったから儲かったという一方通行ではないのだ。株価と円が乱高下しているのは、その証拠である。
マスコミは景気回復基調とは報道するものの、今でも70%以上の中小企業経営者が「景気は回復していない」と見ており、実質賃金は今でも22ヶ月連続で減少を続けている。
(余談)日刊ゲンダイやブログで「こんな悪政にしてしまった責任は前政権担当の民主党の責任だ。民主党野田政権が元凶だ。」との論調が目立つが、私は決してそうは思わない。戦後初の政権交代を潰し癒着腐敗した旧体制に戻し、独裁政治を許した張本人はテレビ・新聞を始めとするマスメディアである。決して「民主党が元凶」ではない。
もう一度はっきりと言う、今の悪政を作り出したのはマスコミである。
その点をあなたも考え違いしないようにしてほしい。これは私が民主党支持者だから言うのではない。全体の歴史的な流れで判断した状況判断=「常識」である。(余談終わり)
前置きにと思って書き出すとドンドン長くなる。
この辺で打ち切って今日のテーマに入る。
前から何回も書いているが、日本国が欧米列強諸国の圧力により「和魂洋才」「採長補短」を余儀なくされた明治維新以降、日本人の社会秩序感覚は西洋文明(資本主義経済)導入によってどのように変化していったか?を纏めたメモがあったので載せておく。
前にもう日記に載せたメモかもしれないが記憶にない(ボケ?)ので載せることにした。
明治維新までの日本人の社会生活の倫理、即ち社会秩序感覚は上からの武士道精神、下からの自然村的秩序感覚(自給自足的経済感覚)で構成されていた。
とっくの昔に無くなってしまった支配層に必要な武士道精神については、私の武士道精神と愛国心に書いてあるのでそちらを参考にしてもらいたい。
明治維新以降、日本の社会秩序はどのようにして維持されていったのか?を見ていくために、最初に、それまでの日本人の自然村的・自給自足的な社会での「秩序」について日本国民はどのように考えていたかを下記に纏めてみた。(前に書いたものかも知れない。個別にちょこちょこと書いた記憶はあるのだが、まとめたものを投稿した記憶が消えている。ダブっていたらゴメンなさい。)
人々の秩序感覚はその社会の経済基盤により形成される。
日本では明治維新以降、西洋文明=資本主義経済体制の導入が急務となり、それまでの自給自足的経済基盤による自然村的秩序感覚が崩壊せざるを得なくなった。
江戸時代までは国民の大多数を占める農民は産業・交通・生活の一切が統制されていた。
明治以降、四民平等の名のもとに交通・居住・職業の自由が認められ、都市を中心にした新しい国造りの事業が起こされ、人々は自由を求めて都市に向かって移動を開始した。
交通形態の発達で労働(第一次産業等)以外にも生活がある事を知った人々は、自由の身分差・地域差や利益の職業差・地域差「ところ貧乏」に目覚め、大都市に人口が集中する結果となった。
一極集中的に膨張した大都市は本来の生活圏=一所懸命の地ではなく、要するにふんだくれば良い、ていのいい略奪場となり「生き馬の目を抜く都会」「強靭壮健な青壮年のみが生き残れる都会」となった。
こうした都会では自然村における拘束のもとに蓄積された抑圧と屈辱とを洗い去る「旅の恥はかき捨て」的な「自由」、顕な自己主張と実力闘争に終始する「自由」が支配的となった。
これは、村人の都市に対する期待と資本主義経済体制の自由競争とを基盤にしているが、これらの自由は無拘束・放縦・気儘勝手と言ったもので、そこには抑制原理が含まれておらず、西洋から入ってきたデモクラシー思想のリバティ(日本語訳=自由)とは違うものであった。
この拘束の裏返しとしての「自由」(無拘束)により、当然のように都会生活は無秩序状態となった。
資本主義経済原理の自由競争は「資本の集中」「富者と貧者の差の拡大=格差社会」「一極集中」「弱肉強食の生存競争」「強いもの勝ち」「群化社会」「孤独な群衆」「自由からの逃走」をもたらした。
こうした経済基盤が一変した日本・無秩序化した大都会で、人々はどのように秩序を再構築したのか、言い換えれば政治指導者層(支配者層)が如何にして国民を統制・統合していったのか、が今日のテーマとなる。
明治以前の日本国民の秩序感覚は下記の5つにより成り立っていた。(無風注:難しい用語を使うが、その横に分かり易い概念を並べているので、それでイメージを掴んで欲しい。)
この国民の秩序感覚は、国民の統合原理・統制原理となる。
1. Shintoism(神道イズム)………「祭り」「御先祖様」「靖国神社」
2. Gerontocracy(老人支配)……「亀の甲より年の功」「お婆ちゃんの知恵袋」「地震・雷・火事・親父」
「長老支配」「家父長制度」
3. Familism(家族主義)……「親子兄弟といった家族の絆」「家督相続(長男)=家の存続」「お家のため」「祖国のため」
「隣組」「おもいやり」
(注:「ファミリズム」とは、個人にとって不可欠な相互幇助および感情的依存の要求を充足する集団の機能をいう。)
4. Feudalism(封建制)……「一所懸命」「人別帳」「切り捨て御免」「服従=保護(長いものには巻かれろ)」
5. Mental Autarky(精神的自給自足主義)……「勿体無い」「一生モノ」「物を大切に」「努力=報酬(稼ぎに追いつく貧乏なし)」
6.閉鎖性……「おもてなし」と「ヘイト・コール」「差別」「敵愾心」
これが、今でも日本人の心の奥底に変形しながらも受け継がれてきた社会秩序感覚であり、支配者の国民統制の手段ともなっているのである。
今後、私の日記を見るにあたっては、この日本人の心の底流に脈々と流れている社会生活意識を頭に置いておいてほしい。
自然村的秩序の基になっているのは「家」(家族)であり、その構成員による村である。
それが弱肉強食の自由主義経済の中で(生き馬の目を抜く都会=生存競争の中で)、郷土閥・学閥が出来上がり、企業家族主義(三丁目の夕日の鈴木オートの六さんの様)になり、国家家族主義(現人神天皇の下の日本民族=家族)となっていった。
これは日本企業の「終身雇用制」といった制度にもなったが、日本中のあらゆる分野で「ムラ」社会が出来上がる事態ともなったのである。
「土建ムラ」「原子力ムラ」等々。
話す分野が広すぎるので、今日は日本人の底流にある社会秩序の考え方を羅列するにとどめる。
これは支配者側から見たら「国民統制」の必須必要条件なので、今後は主にそちらの方面(権力者の国民統制の手口)から書いて行きたいと思っている。
今日はここまで、またね。(ヾ(´・ω・`)
①円安になった、輸出産業が国際競争力が出て、景気が回復する。
②物価が上がった、これで給料が物価にスライドして上がれば、デフレから脱却出来て景気が良くなる。
③株価が上がった、景気回復の表われだ。
これを理由に、安倍首相は国会の場で野党の質問に対し「あなたがた(民主党政権)の時には(景気回復が)出来なかったではないか」と円安・物価高・株高で景気を良くしたのは自分だと自慢する返答で終始している。
国会議論の質疑応答になっていないのだ。
そして解釈改憲・集団的自衛権(海外での軍事力行使)・武器輸出解禁等に懸念を表明する野党の質問に対し「私が最高責任者だ」と恫喝。最高責任者だから何でもできる、と国会を無用の長物化してしまった。
この憲法違反・議会制民主主義の破壊行為に対し、国民を啓蒙し警告を発すべき報道機関が沈黙してしまっている。
そして国民生活とは直接関係の無いゴシップ記事で報道を満たす。古くは朝青龍や海老蔵や酒井法子や草剛や新しいところでは小保方さんのように。
各種記者クラブに所属し権力者に従って権力者の言っていることをそのまま記事にするだけで平均年収1000万円~1500万円超を稼ぐテレビ・新聞の取材者・記者には日本の労働者の3割を越える非正規労働者や、7割を越える中小企業の経営者や、3割を越える貯蓄ゼロ家庭といった弱者の苦労が分からないし取り上げようともしない。いまだに15万人以上(26万7千人との統計もある)の福島の避難民や放射能汚染が続いているのに政府の収束宣言を報道した時点でこの件はチョン。
非正規労働者や福島原発の被災者や沖縄の住民等々の弱者がマスコミによって切り捨てられているのだ。報道しないことで!
①円安により庶民・中小零細企業はガソリン代の値上がり、電気料金の値上がり、輸入小麦粉に頼っている食パンやお菓子類始め食料品の値上がりと給料も上がらないのに生活必需品が軒並み高騰している。
②物価を2%上げデフレからの脱却を意図しているが、これも庶民にとっては給料が上がってナンボの世界なのだ。
③株高と騒ぐがこれも世界金融資本(特に米資金)が少々操作をすることで日本の株価などどのようにもなる。
日本株を買って儲け、売って儲けのいわゆるマネーゲームの世界であり、日本の投資家のように株が上がったから儲かったという一方通行ではないのだ。株価と円が乱高下しているのは、その証拠である。
マスコミは景気回復基調とは報道するものの、今でも70%以上の中小企業経営者が「景気は回復していない」と見ており、実質賃金は今でも22ヶ月連続で減少を続けている。
(余談)日刊ゲンダイやブログで「こんな悪政にしてしまった責任は前政権担当の民主党の責任だ。民主党野田政権が元凶だ。」との論調が目立つが、私は決してそうは思わない。戦後初の政権交代を潰し癒着腐敗した旧体制に戻し、独裁政治を許した張本人はテレビ・新聞を始めとするマスメディアである。決して「民主党が元凶」ではない。
もう一度はっきりと言う、今の悪政を作り出したのはマスコミである。
その点をあなたも考え違いしないようにしてほしい。これは私が民主党支持者だから言うのではない。全体の歴史的な流れで判断した状況判断=「常識」である。(余談終わり)
前置きにと思って書き出すとドンドン長くなる。
この辺で打ち切って今日のテーマに入る。
前から何回も書いているが、日本国が欧米列強諸国の圧力により「和魂洋才」「採長補短」を余儀なくされた明治維新以降、日本人の社会秩序感覚は西洋文明(資本主義経済)導入によってどのように変化していったか?を纏めたメモがあったので載せておく。
前にもう日記に載せたメモかもしれないが記憶にない(ボケ?)ので載せることにした。
明治維新までの日本人の社会生活の倫理、即ち社会秩序感覚は上からの武士道精神、下からの自然村的秩序感覚(自給自足的経済感覚)で構成されていた。
とっくの昔に無くなってしまった支配層に必要な武士道精神については、私の武士道精神と愛国心に書いてあるのでそちらを参考にしてもらいたい。
明治維新以降、日本の社会秩序はどのようにして維持されていったのか?を見ていくために、最初に、それまでの日本人の自然村的・自給自足的な社会での「秩序」について日本国民はどのように考えていたかを下記に纏めてみた。(前に書いたものかも知れない。個別にちょこちょこと書いた記憶はあるのだが、まとめたものを投稿した記憶が消えている。ダブっていたらゴメンなさい。)
人々の秩序感覚はその社会の経済基盤により形成される。
日本では明治維新以降、西洋文明=資本主義経済体制の導入が急務となり、それまでの自給自足的経済基盤による自然村的秩序感覚が崩壊せざるを得なくなった。
江戸時代までは国民の大多数を占める農民は産業・交通・生活の一切が統制されていた。
明治以降、四民平等の名のもとに交通・居住・職業の自由が認められ、都市を中心にした新しい国造りの事業が起こされ、人々は自由を求めて都市に向かって移動を開始した。
交通形態の発達で労働(第一次産業等)以外にも生活がある事を知った人々は、自由の身分差・地域差や利益の職業差・地域差「ところ貧乏」に目覚め、大都市に人口が集中する結果となった。
一極集中的に膨張した大都市は本来の生活圏=一所懸命の地ではなく、要するにふんだくれば良い、ていのいい略奪場となり「生き馬の目を抜く都会」「強靭壮健な青壮年のみが生き残れる都会」となった。
こうした都会では自然村における拘束のもとに蓄積された抑圧と屈辱とを洗い去る「旅の恥はかき捨て」的な「自由」、顕な自己主張と実力闘争に終始する「自由」が支配的となった。
これは、村人の都市に対する期待と資本主義経済体制の自由競争とを基盤にしているが、これらの自由は無拘束・放縦・気儘勝手と言ったもので、そこには抑制原理が含まれておらず、西洋から入ってきたデモクラシー思想のリバティ(日本語訳=自由)とは違うものであった。
この拘束の裏返しとしての「自由」(無拘束)により、当然のように都会生活は無秩序状態となった。
資本主義経済原理の自由競争は「資本の集中」「富者と貧者の差の拡大=格差社会」「一極集中」「弱肉強食の生存競争」「強いもの勝ち」「群化社会」「孤独な群衆」「自由からの逃走」をもたらした。
こうした経済基盤が一変した日本・無秩序化した大都会で、人々はどのように秩序を再構築したのか、言い換えれば政治指導者層(支配者層)が如何にして国民を統制・統合していったのか、が今日のテーマとなる。
明治以前の日本国民の秩序感覚は下記の5つにより成り立っていた。(無風注:難しい用語を使うが、その横に分かり易い概念を並べているので、それでイメージを掴んで欲しい。)
この国民の秩序感覚は、国民の統合原理・統制原理となる。
1. Shintoism(神道イズム)………「祭り」「御先祖様」「靖国神社」
2. Gerontocracy(老人支配)……「亀の甲より年の功」「お婆ちゃんの知恵袋」「地震・雷・火事・親父」
「長老支配」「家父長制度」
3. Familism(家族主義)……「親子兄弟といった家族の絆」「家督相続(長男)=家の存続」「お家のため」「祖国のため」
「隣組」「おもいやり」
(注:「ファミリズム」とは、個人にとって不可欠な相互幇助および感情的依存の要求を充足する集団の機能をいう。)
4. Feudalism(封建制)……「一所懸命」「人別帳」「切り捨て御免」「服従=保護(長いものには巻かれろ)」
5. Mental Autarky(精神的自給自足主義)……「勿体無い」「一生モノ」「物を大切に」「努力=報酬(稼ぎに追いつく貧乏なし)」
6.閉鎖性……「おもてなし」と「ヘイト・コール」「差別」「敵愾心」
これが、今でも日本人の心の奥底に変形しながらも受け継がれてきた社会秩序感覚であり、支配者の国民統制の手段ともなっているのである。
今後、私の日記を見るにあたっては、この日本人の心の底流に脈々と流れている社会生活意識を頭に置いておいてほしい。
自然村的秩序の基になっているのは「家」(家族)であり、その構成員による村である。
それが弱肉強食の自由主義経済の中で(生き馬の目を抜く都会=生存競争の中で)、郷土閥・学閥が出来上がり、企業家族主義(三丁目の夕日の鈴木オートの六さんの様)になり、国家家族主義(現人神天皇の下の日本民族=家族)となっていった。
これは日本企業の「終身雇用制」といった制度にもなったが、日本中のあらゆる分野で「ムラ」社会が出来上がる事態ともなったのである。
「土建ムラ」「原子力ムラ」等々。
話す分野が広すぎるので、今日は日本人の底流にある社会秩序の考え方を羅列するにとどめる。
これは支配者側から見たら「国民統制」の必須必要条件なので、今後は主にそちらの方面(権力者の国民統制の手口)から書いて行きたいと思っている。
今日はここまで、またね。(ヾ(´・ω・`)
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