無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
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武士道精神と愛国心…その1

2009年08月19日 | Weblog
武士道精神と愛国心

「武士道精神はサムライだけでなく、広く庶民にも浸透し“大和魂”…即ち日本人の魂となった。」

新渡戸稲造が“武士道”で上記のように言っているように“武士道”に関する考え方は、大抵、上記のように思われている。

私は、神島二郎氏が指摘したように、日本人の秩序感覚は、上からの“武士道精神”と下からの村落的秩序感覚(いわば自給自足的秩序感覚・神道的秩序感覚)により成り立っていた、と見ている。
端的に言えば、江戸時代の武士道は支配者側の秩序・倫理であり、日本国全体の庶民の「秩序」感覚・道徳感覚とは少し違っていたのである。

今日は、その辺の詮索は抜きにして、武士道が支配者側の秩序感覚であることには間違いないため、最近もてはやされてきている、武士道精神について新渡戸稲造氏の著書をもとに書いて見たい。

彼の著書の武士を政治家・為政者、武士道を政治と書き換えるとよく分かってくる。

以下、「武士道」(新渡戸稲造1900年著)の引用開始

武士道【政治】の道徳律は「義」「勇」「仁」「礼」「名誉」「誠」「忠」より成り立っている。



「義」とは、人間としての正しい道…つまり「正義」を指し、打算や損得を超越し、自分が正しいと信じる道を貫く、武士道【政治】の中心となる良心の掟である。



「勇」とは、その「義」を貫くための勇気のこと。

「義をみて、せざるは勇なきなり」(論語・孔子)であり、「義」=正義の精神をいくら机上で学んでも、自分より強いものに怯えて実行出来なければ無意味である、としている。



「仁」は人への思いやり、他者への憐れみの心、弱者や敗者を見捨てない心。

「義(正義心)に過ぎれば固くなる、仁(思いやり)に過ぎれば弱くなる」(伊達政宗)なのだが「仁(友愛)の力を疑うものは、薪についた大火を茶碗一杯の水で消せなかったといって、“水で火は消さない”と思うようなもの」(孟子)である。
難しいことだが、他者への思いやりを忘れてはならない。

「仁」(友愛)の精神は、人の上に立つ者の必須徳目である。



「仁」(他人への思いやり)の精神を育て、他者の気持を尊重することから生まれる謙虚さが、つまり「礼」(礼儀)の根源である。



「武士【政治家】に二言なし」は武士道【政治】の徳目の一つ「誠」から生まれた。

「誠」は字の通り「言」ったことを「成」すこと。

名誉

武士道【政治】に於ける「名誉」とは、(政治家は)名を尊び、自分に恥じない高潔な生き方を貫くことである。



これまでの徳目は儒教思想の影響を色濃くしているが、この「忠」は武士だけの特殊な徳目と言える。

「忠」とは国家に対する絶対的な従順のことである。

日本においては個人・家族そして共同体・国家の利害は一体のものである。

従って、国の命令は絶対だったが、武士は国家の奴隷ではなかった。

主君の間違った考え方に対して本物の武士たちは命にかえて己の気持を訴えた。
「忠」とは強制ではなく自発的なものである。武士達はあくまで、己の正義に値するものに対して忠義を誓ったのだ。


新渡戸稲造は、このように武士道精神を表現し世界に発信した。

余談だが、同著にはこんなことも書いてある。

※「ならぬ堪忍、するが堪忍」の武士道精神について

「人の人生は重荷を負っていくが如し、急ぐべからず。堪忍は無事長久の基…己を責めて人を責むるべからず」(徳川家康)

又「負けるが勝ち」の武士道精神について

「私は人を殺すのが嫌いで、一人も殺したことはないよ。人に斬られても、こちらは斬らぬ、という覚悟だった」(江戸城無血開城の勝海舟)

戦わずして勝つ、血を見ない勝利こそ最善の勝利。武士【政治家】の究極の理想は「平和」である。


※新渡戸稲造の感想

明治維新以降「封建制度」という母を失った「武士道」はどの様な形で残っていくのだろうか?

金儲け主義者、計算高い連中、軍隊組織が己の都合のいいように利用するかもしれない。

武士道精神の「名誉」によって築かれた国家は、屁理屈で武装した政治家達の手にかかれば、たやすくひねり潰されてしまう。

(民主制になる前の考え方)「国があっての個人である。自分が国家の家来でないと国家に向かって言えるのか」として、軍国主義への道を進みかねない。

国家や権力者が「忠義」(愛国心)なる言葉を使うときほど危険なことはない。

「武士道」は(日本の)大きな遺産である。
人間の闘争本能の底には、最も貴くて美しい「愛する」という本能があるのだ。(M:この部分は原書を読んで理解して下さい)


M:新渡戸稲造が危惧したように政治家達は「名誉など金にならない」とばかりに政治倫理=武士道精神を踏みにじり既得権益を貪り、その後の歴史は軍国主義への道を歩むことになってしまった。

「国家の品格」の著者・藤原正彦氏は、軍国主義国家に利用された「忠君愛国」さえ抜けば、「武士道」は日本国のすばらしい思想である、としている。

私は、武士道の「義」「勇」「仁」等は倫理観としては素晴らしいものだ、と思っている。

ただ、藤原氏と異なるのは、武士道精神は「支配者層が実行すべき倫理」である点と「忠君愛国を抜けば」ではなく、民主主義体制の政治家は「忠『憲』愛国」と変えて、肝に銘ずべきものなのだ。

それさえ基本に置けば「義」も「勇」も「仁」も政治家の倫理として大いに認めて良いのである。

前にも書いたが、アメリカ大統領が就任にあたって「私はアメリカ合衆国の大統領という職務を忠実に執行し、できる限り最大の努力をもって、合衆国憲法を維持し、保護し、守ることを誓います」と宣誓するように、日本の内閣総理大臣も就任にあたり国民に対し「私は日本国総理大臣として…日本国憲法を維持し、保護し、守ることを誓います」と宣誓すべきなのだ。

日本国憲法にもキチンと規定されている。
「…国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」

今の政府は憲法を尊重するどころか、憲法をないがしろにして踏みにじっている。
国のトップが法を守らなければ下々の道徳・規範・風紀が乱れるのは当たり前の話である。

政府は「憲法を改正」して「自衛隊を正式な軍隊と認め」「専守防衛」を止め「集団的自衛権」を行使して「海外派兵」(どこの国へいっても戦争)出来るようにして、「核保有」し「敵基地先制攻撃」を可能にしたい、と考えている。
そうしておいて「北朝鮮を核攻撃して、ぺんぺん草も生えないようにしよう」(元首相)としている。
こんな政府の方針を国民の約半数が支持している日本。

何故、こんな日本国民になってしまったのか。

これは多分に政府・マスメディアのプロパガンダに国民が洗脳されてしまったことによる。

もう一度、ナチスドイツのヒトラーの側近ゲーリングの言葉(ヤメ蚊さんの常駐ブログ)

「(ナチスドイツのような独裁軍事国家をつくるのは簡単です)、一般国民に向かっては『われわれは攻撃されかかっているのだ』と伝え,戦意を煽ります。

(戦争に反対する)平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。

このやりかたはどんな国でも有効です。」


このやり方でヒトラー独裁軍事国家が作られた。今の政府・及びマスメディアはこの方法を実践しているのです。

「北朝鮮のミサイルが日本に向かって飛んでくる」「打ち落とす(迎撃)体勢をとる」「平和的な人工衛星を打ち落とすのであれば宣戦布告と受け取る」(北朝鮮)「中国が日本を併合する」等々


次回は「愛国心」に入ります。またね。


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