無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

国民的ヒステリー現象の元凶はマスメディア

2007年09月11日 | Weblog
◎マスメディアが発達した現在、本来対立した意見が争われるべき状況において、マスメディアによる宣伝・情報操作を媒介し、極端に一方の側に支持が偏った状態が生じる。

ある事件が起きる。それをきっかけに強力で支配的な『物語』がマスメディアの世界で創造される。それはますます増殖していき、拡張され、感情を強烈に刺激し、『物語』自身がひとり歩きしていく(世論)。メディアだけのせいではない、一般大衆、利害集団、マスメディア、政治家たちがいっしょくたになって複合的に相互作用しつつ、ヒステリーの度合いが増殖していく。
ヒステリー現象は、急激な変化や不安、不確実にゆれる時代に、イデオロギーも社会的バックグラウンドも異なる多様な人々を、『憤怒』を共有する共同体としてひとつに統合する。…テッサ・モーリス=スズキ(「世界」2月号)

津久井弁護士は、その段階を次の様に言っている。

    ■不正かどうかを,形式的に簡単に決めつける
    ■悪いとなると,社会全体で一斉に袋叩き(バッシング)する
    ■それが一気に国民的ヒステリーに高まる

最近の一例が「山口県光市母子殺人事件」の被告人弁護団に対するバッシングである。
この件に関しては、下記ブログを是非見て下さい。

きまぐれな日々
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-430.html

津久井進の弁護士ノート(9月4日)
http://tukui.blog55.fc2.com/blog-date-20070904.html

津久井進の弁護士ノート(9月8日)
http://tukui.blog55.fc2.com/blog-date-20070908.html

上記3ブログから引用…

「ヒ ス テ リ ー の 政 治 学」より

(著者は)民主主義の国にも、ときおりヒステリー現象が起きて、国論を一気に傾けてしまう危険性があること、現在のアメリカでのイラクをやっつけろの世論、日本での北朝鮮けしからんの世論が、共通してヒステリー現象であることを指摘し、それを克服するには、他者の声を聞くことが大事だと、結論している。

多様な価値観をお互いに認め合い、報道の自由を保障する民主主義の国でも、ときおりヒステリー現象が起き、政治がゆがめられ、それからの回復に長い時間がかかることを歴史は教えている。アメリカで1919年から20年にかけて起きた「赤い恐怖」(ソ連スターリンの独裁政権誕生→赤化理論)、1950年代のマッカーシズム(アカ狩り)などの例がある。

9・11テロとイラクとの関係はほとんどない。イラクがアメリカの脅威になるような大量破壊兵器を開発しているという確たる証拠もほとんどない。にもかかわらずアメリカの国民の大多数が、イラクを攻撃することに賛成してしまった。他国からは信じがたいほどの国論の統一ぶりであるが、これは、9・11テロがもたらしたヒステリー現象のゆえである。

同じようなことが、今の日本に拉致問題への反応として起きている。拉致問題は北朝鮮というとんでもない国によって起こされた許し難い事件である。しかし、問題が明るみに出て以降の日本のマスメディアと一般の人々の反応は政治的ヒステリー現象そのものといえる。
「拉致事件という事実の核は、国民的強迫観念となり、日本と北朝鮮の関係をめぐる他のきわめて重要な課題に関わる議論を雲散霧消させてしまった。」「その結果、日本が周辺地域の政治的未来を形作る、重要で有益な役割を果たす…機会がほとんど失われてしまった。」

「しかも、この騒ぎがどれだけ拉致被害者たちに役立っているかどうかは問い直される必要があるだろう」
政治的ヒステリー現象の一つの特徴は、非人間的で冷たい“他者”(悪)に、人間的に暖かい“われわれ”(善)、という単純化されたイメージが対置されることである。日本のメディアで毎日聞かされる拉致問題の報道は、その通りである。北の極悪非道ぶり、拉致被害者へのふるさとの人々の温かい歓迎ぶり。その報道の中で、拉致被害者たちの内心にある複雑な思いや困惑は完全に封殺されていることに誰も気がつかない。

政治的ヒステリーから抜け出すのは、なかなか難しい。それに異議を唱える人を謀反的とか、相手を利する裏切り者として切って捨ててしまうからである。相手側の主張はすべて偽りであり、したがって何も耳を傾ける必要がない、となってしまう。(無風注;今の「左翼(アカ)」思想だから全て偽りとする世情もヒステリー現象の現れ。)

著者は、ヒステリー状態から抜け出すには、『他者』の声に耳を傾けることが重要だと指摘する。ヒステリー状態は、いわば外の声の聞こえない「防音室」に入り込んでいるようなものである。その防音室の壁に穴を開けて、外の声に耳を傾けることでしか、ヒステリーから脱却できる道はない。

「国内のマイノリティの声を聞くこと、当事者でない国々の視点から見ること、『他者』の視点からは当面の論議が一体どのように見えるかを考察すること、そして『向こうの他者の側』のさまざまな声にさえも懐疑をもって批判的に注意深く耳を傾けること、によってのみ防音室から抜け出せる。」という。

具体的には「日本のアジアの隣人たちの多様な声がもっとはっきりと日本のマスメディアの中で聞かれるまでは、北朝鮮との関係正常化はきわめて困難な道を歩まざるを得ないと私は思う。」と結んでいる。…引用終り

「きまぐれな日々~言論が一方向に振れる時」から引用

山口県光市母子殺人事件をめぐってマスメディアが発達した現在、「言論が一方向に振れる時」というのがしばしば現れる。本来、対立した意見が争われるべき状況において、マスメディアによる宣伝を媒介して、極端に一方の側に支持が偏った状態が生じてしまうことだ。

「郵政総選挙」はその悪例の一つだった。人々は「郵政民営化」の内容もよく理解せず、「抵抗勢力」を相手に戦うコイズミに熱狂した。その「カイカク」が幻想であったことを悟るのに、コイズミが首相になった頃から数えて実に6年を要した。安倍晋三は90年代前半以降コイズミ政権成立までの10年を「失われた10年」と称しているが、これは誤りである。経済危機を新自由主義的手法で乗り切ろうとした1997年以降、小渕、森、コイズミ、安倍と政権が変わるたびに政治家の質がどうしようもなく劣化していった現在までの10年間こそが「失われた10年」であったことを国民は共通認識とすべきである。

時の為政者が宣伝を仕掛け、民衆の心をくすぐる甘言によって国民をダマした最悪の例が、ヒトラーのナチス・ドイツであって、コイズミのやり方はそのミニ版に過ぎず、最悪の事態に至る前に国民がその迷妄から醒めそうなのは、まだ油断はできないとはいえ喜ばしいことだと思う。 (参院選の結果)

私が、国民的ヒステリー現象の例の一つであると考えているのが、1999年に起きた山口県光市母子殺人事件をめぐる言論状況である。

この事件に絡んで、事件当時18歳になったばかりだった被告を何が何でも死刑にしようという風潮を、かねがね私はとてもうさんくさく思っていた。「はてブ」のコメントを見ると、賛否両論があるが、少なくともマスコミ報道やそれに影響された世論に見られるような「被告を何が何でも死刑にせよ」という主張への極端な偏りは見られなかった。こういうカウンター的言論を広めるのに、ブログという媒体は捨てたものではないと感じた次第だ。

さらにその後、雑誌「創」の2007年9・10月号に、やはりこの事件に関する一方的な言論へのカウンターとなる記事が掲載されていることを知った。本エントリではこれを紹介したいと思う。

ジャーナリスト・綿井健陽氏による「これでいいのか!? 光市母子殺害裁判報道」という記事がそれである。この記事は、下記のように書き出されている。

「光市母子殺害事件」弁護団への激しいバッシングが続いている。カッターナイフの刃が送られたり、殺害予告が届いたり‥‥。この「私刑(リンチ)」の雰囲気は、一体誰が作り上げたものなのか。

「広がる弁護団への非難・中傷・嫌がらせ」と題された最初の章の最後から、次の章「限度を超えたメディアの『暴走』」の最初の部分にかけてを以下に引用する。

この裁判をめぐって、それは社会といっていいのか、それとも単に世間や大衆と言うべきなのか、いやそれともマスメディアだけなのか、その注目される部分がほかとは相当異なっている。それは「被告の元少年が何を法廷で話すか、どんな顔つきや態度なのか」という一般的な興味とは別に、「どんな弁護士たちなのか、その弁護団が何を主張するのか」という部分にゆがんだ形で向けられている。そして、そこから派生する弁護士たちへの非難・誹謗・中傷・嫌がらせ、そして相次ぐ脅迫まで、いわゆるネット空間だけの限定現象ではなく、メディアと市民が一体となった形で、この国に少しずつ広がり始めている。

限度を超えたメディアの「暴走」

 これらの現象に関して永六輔氏は、本誌(注:「創」)編集長も出演しているCS放送「朝日ニュースター」(7月21日放送)の番組の中で、「僕がテレビの実験放送から始めたとき、アメリカからジャーナリストが来て『スタジオは裁判所じゃないですよ。スタジオを裁判所にしないように』と繰り返し言われたいまは裁判所になってるでしょ。『ニュースキャスターは裁判官ではありません』と言われたが、最近は裁判官に近いでしょ」 「昔は『村八分』というこれも差別がありましたよね。今はテレビ(マスメディア)のおかげで『国八分』になっている。日本中でという形になっているのが怖い」と指摘していた。

 テレビのスタジオはもちろん、雑誌・ネット上からご近所の世間話の類まで、この事件のことに対してはみんな何かしらの意見を述べる。いわゆる「感想」を話したり、判決を「予想」したり、あたかも誰かの「代弁者」のように怒ったり、それらは「世論」の上に乗っかることが参加条件だ。繰り返されるメディア情報だけを材料に、裁判長や検事になったかのように話す。決して被告の側やそれを弁護する側ではない。この裁判の法廷は広島高裁にある302号法廷一つしかないはずなのに、その法廷以外のあちこちで別の「裁判」が進行しているといった方がいいだろうか。いや、それらは決して「裁判」ではなくて「私刑(リンチ)」に近い。

昨年6月の最高裁判決の前日、安田好弘弁護士は都内で講演した。前回の最高裁での弁論を「欠席」した際(それまでは認められるはずの延期申請ができないという理由の「欠席」だった)、一日100件以上の電話が弁護士事務所に来たそうだが、その内容のほとんどは「弁護は不要だ」 「死刑にすべきだ」という内容だったという。これに対して彼は「電話の向こう側から『殺せ、殺せ』という大合唱が聞こえてくるようだ。『許せない』ではなくて、『殺せ』という精神的な共謀感なのか。世の中が殺せ、殺せという動きの中で、司法がちゃんと機能するのかが問われている。明日は裁判という名の『リンチ』が起こる」(筆者=綿井健陽氏=のメモより)と話していた。 (「創」 2007年9・10月号掲載 綿井健陽「これでいいのか!? 光市母子殺害裁判報道」より)

記事の筆者・綿井氏は、差し戻し控訴審が行われている広島高裁を通りかかる市民から何度も「もう判決は出たんですか?」と聞かれ、みんな「死刑か、それとも無期か」という部分にしか関心がないようだ、と感じたという。綿井氏は、2002年の北朝鮮による拉致被害が明らかになった頃のメディア状況を連想したと書く。確かにこの時のメディア放送も冷静を欠いたものだった。その状況で、国民の反北朝鮮感情を煽って人気を高めたのが安倍晋三官房副長官(当時)だったことはいうまでもない。

綿井氏は、この裁判の弁護士・安田好弘氏がことあるごとにテレビのテロップで「死刑反対運動のリーダー的存在」と紹介されており、テレビ報道が「裁判や被告人が死刑廃止運動に利用されている」という流れに誘導しようとしていると指摘している。そして、もし安田弁護士に対して「死刑廃止運動のリーダー的存在」という肩書きを裁判報道で用いるなら、被害者遺族の男性にも「犯罪被害者の権利を求めてきた運動の象徴的存在」という肩書きを使わなければ公平ではないだろう、と主張している。まことにもっともな論旨だ(但し、それは被害者遺族の男性の思いとは相当異なるだろうとも指摘している)。

さて、綿井氏は、この裁判に関する新聞メディアの報道は、テレビとは異なって節度を保っていることを指摘している。5月の差し戻し控訴審初公判翌日(5月25日)の紙面は、地元の中国新聞は被害者側に沿った記事を書いていたが、毎日新聞は一面トップで司法制度のあり方に言及して、「拙速は許されない」と逆の意見を述べ、読売新聞の広島版では「遺族、早期結審願う 弁護側は慎重な審理求める」と両論併記の形をとっていたそうだ。新聞によってスタンスは異なるものの、決して一方的な報道ではなかった。

それに対してテレビ報道は前述のように一方的なものだし、雑誌に関しても、差し戻し審開始の頃から、「週刊新潮」、「週刊ポスト」、「フライデー」などが一方的に被害者遺族男性(本村洋氏)側に立った報道を行い、その攻撃対象は被告の元少年から弁護団の方に移ってきていると綿井氏は書いている。ここで指摘されているように、「週刊ポスト」も、最初はそういう報道だったのが、先日になって自らの報道のカウンターになるような記事を掲載したというわけだ。このあたりに同誌の雑誌ジャーナリズムの良心を見る思いだ。

ネット言論はどうだったかというと、コイズミの「改革ファシズム」に反対の声をあげて一躍注目されたリベラル系の某有名ブログが、この件で被害者親族の男性に入れあげて、センセーショナルに厳罰を求めるネット言論を煽りに煽っていたことが思い出される。保守系のブログはもちろん厳罰主義を支持していたから、ネット言論では、保守系・リベラル系を問わず、かなり一方的に被害者親族の男性側に入れ込み、被告の元少年や弁護団を激しく非難する論調に偏っていたといえると思う。

綿井氏の記事に戻ると、記事は、弁護団が3日間の集中審理を終えて6月28日に会見した際の記者との質疑応答に触れ、安田弁護士が「被告は殺害行為をやっていない。最高裁が認定した殺害行為は誤りだ。これは死刑の回避の問題ではない。司法権の適正な行使の問題だ」と主張したことを紹介している。

以下、記事の結びの部分を引用、紹介する。

被告の供述を裏付ける重要な客観的証拠は確かに存在する。その一部は『光市裁判 なぜテレビは死刑を求めるのか』(インパクト出版会)に鑑定書が掲載されているが、「被害者の女性を両手で首を絞めた」 「赤ちゃんを床に叩きつけた」という部分の「両手」 「叩きつけた」という検察の主張を裏付ける証拠はない。これらの遺体の痕跡についての判断は今後の裁判で明らかにされるだろう。そして、新たな客観的証拠も今後の公判で弁護団から提示される予定だ。

「弁護団は死刑廃止運動にこの裁判を利用している」という批判ばかりが世間を覆っているが、この弁護団は上記のようなことを含め、事件現場での事実をこれまでできる限り一つ一つ丁寧に解明してきた。むしろ検察側(あえて強調しておくが遺族側ではない)の方が、この裁判を今後のこの国の死刑や量刑の基準として示そうとしている、もっと言えば司法全体がこの裁判を日本の社会へ向けて、ある種の「見せしめ」として政治利用しているとさえ私には思えてくる。

 広島地方の梅雨が明けた直後の7月24日、また3日間の集中審理が始まった。広島高裁の法廷の中では今後も審理が着々と進められる。だが、法廷の外で展開するこの裁判をめぐる「報道」と「反応」は、このままではさらにエスカレートする可能性が高い。NHKニュースはこの裁判を伝える際、「18歳の元少年に死刑が適用されるかどうかが争点です」とナレーションで説明する。しかし、この裁判は「死刑」を争う裁判ではなく、ひょっとするとマスメディアによってあおられる「私刑(リンチ)」が、我々が住んでいる社会にどんな結果をもたらすことになるかを世に示す裁判になるのかもしれない。本当にそれでいいのだろうか。
(7月25日広島にて) (「創」 2007年9・10月号掲載 綿井健陽「これでいいのか!? 光市母子殺害裁判報道」より)

ネット言論は、このようなテレビによる極端な意見への誘導を煽るものであるより、多様な視点を提供して、一方向への暴走に歯止めをかけるものでありたい。そのような実践を伴ってこその「反(カイカク)ファシズム」ではなかろうか。

なお、本エントリで紹介したのは、記事のほんの一部だ。読者の皆さまには、雑誌で記事全文に当たられることを是非おすすめする。…引用終り

ポイントを引用しようと思って、ほとんど全文載せてしまった。それほど、色々な面で重要な指摘がされている。