唐茄子はカボチャ

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ヒトラー 最後の12日間

2010年02月10日 | 好きな映画・良かった映画
ヒトラー~最期の12日間~スタンダード・エディション

日活

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ヒトラーの側にいた人たちからの視点で戦争が描かれています。戦争をやる一番遠くにいる人たちが現場の戦争に一番近くなったときに、どういう行動をとるのか。あきらめて酒びたりになる人たちもいるし、最後まで忠誠を誓って自ら氏を選ぶ人もいます。何とか、生き延びようとする人たちも。

恐ろしいと感じたのは、信じ込まされること。根拠のない何かにすがった結果、自分の首をしめることになるわけですが、そこまで追い詰められても、なおヒトラーの力を信じる人たち、ヒトラーとともに命を捨てようとする人たち。子ども達までもが、忠誠のために戦って死のうとします。

最後の本人のインタビューで、「ユダヤ人を大量虐殺したという話をきいたときにショックを受けたが、自分とは関係ないところでおこったことだと思っていた。でも、同じ時に生まれて、自分が秘書になったときに殺された人の銘板を観て、若かったからというのは言い訳にならない。ちゃんと見開いていれば、気づけたはずだ」といっています。

これは、これからの自分達にもいえることで、小泉を支持しました。安倍も支持します。いやいや、民主党です。なんていっていてはいけないと思うのです。
「あの戦争は正しかった」とする靖国神社参拝を公然と行い、憲法、教育基本法を変えようとしている、また戦争をする国にしようとしている人たちが国会で多数を占めている状況の中で、今、自分達は、それを知らなかったでは済まされないのではないかと思いました。
ヒトラーの「国民が自分達を支持したのだから犠牲になるのは当然」といっていた言葉は、「あおっておいてなんだこいつは!」と思いつつも、支持した事実はあるわけで、だからこそ真実を見抜くことができないといけないとも思ったわけです。

にほんも、あの戦争を知らなかったでは済まされないのです。あの戦争の過ちを認めた土台の上に、国際社会の中の自分達の地位があることを知らなければ、無法を繰り返す北朝鮮とまったく同じだと思います。

もう一方で、ただ単にユダヤ人を大量虐殺したとか、戦争犯罪人だとかいう理屈でこの進攻で失った市民の命は仕方のない犠牲となるのでしょうか。
戦争を仕掛けた人たちが死ぬのは勝手に死ねば言いと思うんですが・・・実際には武器を持たない一般市民が一番犠牲になるということをやっぱり考えないといけないと思いました。

人間は、基本的には幸せに長生きしたい。という個人なり家族なりのささやかな願いがあるわけで、それは、どの時代でも、どんな場所でも、どんな家族でも、もっと言うと、どんな地位の人でも同じだと思います。普段はその歯車がきちんと回っているはずなのに、その小さな幸せを飲み込んで歯車を壊していしまうような社会にはしたくないです。

それこそ加害者の地位にいた人でも、子ども達を薬で殺さなくてはいけなかった母親の気持ちというのは相当なものだと思います。

国家の理想とか、正義のための戦争とか、そんなもののためには命をかけたくありません。どうせかけるならささやかな幸せのために力を尽くしたいとそう思いました。命をかけるとはいえませんが・・・

2006-10-28

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ヒトラー57歳と書いてあったと思いますが、もっと年寄りに見えてしまったのは、役者のせいなのか、それとも、当時の57歳はあんな感じだったのか…

最後の12日間、ヒトラーの周りの人たちと一緒にこもっている状態になるわけですが、そこでのやり取りは、なるほど人間なのです。

死を恐れたり、怖さを紛らわすために踊ったり飲んだり…
最後までベルリンを守ろうと命がけで戦ったり…・
ここにいる人たちは、特殊な、悪魔のような人たちが集まった集団ではないわけで…
みんな人間です。ヒトラーも人間です。

問題は、そんな人間が、何であれだけのことをやってしまったのかということです。

ヒトラーは思想で人を殺しました。

ひとりひとりの死はヒトラーにとって、ただの数字でしかなくて・・・
ヒトラーは頭の中で考えたことをただ実行させるだけで、ある意味、鉛筆で書いた間違ったところを消しゴムで消すような作業でしかなかったのではないかなあ…なんて思いました。
相手の立場に立った想像力がなければ、何万人殺そうが、何十万人殺そうが、何百万人殺そうが、そんなものは、ただのデータでしかなくて…

身近な人と接するときの人間的なやさしさがそのまま敵に対してあらわれるわけではなくて、そこは切り替えがされるわけです。
切り替え方は、同じ人間じゃないという切り替えだったり、現場にいなければ感情と関係ないところで容易にその切り替えはできるでしょう。
無感覚になることができなければ、残虐行為は絶対できません。

主人公の女の子も、ユダヤ人の虐殺のことを知らなかったから、そのような人たちの手を貸す側にいたわけで…

知らないということは、ただ何もできないというだけでなくて、恐ろしいことをやってしまうもとにもなってしまうんじゃないかと、そんなことを考えました。