唐茄子はカボチャ

映画と音楽と・・・

シンドラーのリスト

2014年03月22日 | 好きな映画・良かった映画
シンドラーのリスト スペシャル・エディション [DVD]
クリエーター情報なし
ジェネオン・ユニバーサル


初めて映画館で見たときにどうしようもなく泣きました。映画が終わると拍手がおきたのも初めての経験でした。今回3度目ぐらいですけど、また泣きました。でも、泣いたという言葉がなんか薄っぺらく感じるなあ…多分この涙は肺か心臓のあたりから押し出されて出てきたに違いない。

人が死ぬシーンは本当に衝撃です。人を殺すことがこんなにも簡単で、人を生かしておくことがこんなにも難しい。リストの一人一人の名前が、まさに命のリストだったわけで、その名前の一つ一つに人生があり…そして、この名簿の外は死の淵と言っていたけど、その救えなかった命の一つ一つにも人生があったのに、それをいとも簡単につぶしてしまえるのが戦争であり、政治です。

一人一人の死や恐怖を考えると、何度も見ることはできない映画です。重すぎる。でも、これは人類が受け止めなければいけないことです。特に日本人は、その戦争の加担者として受け止めなければいけなないと思いました。

こういうナチスの映画を見ていつも思うのは、これを見てひどいと思う人が大多数ではあると思うけれど、それを日本人が犯した罪としてきちんと見ることができてるのかが気になってしまうのです。
ナチスはひどいと一方でいいながら、南京大虐殺はなかったとか、従軍慰安婦は強制性がなかったとか言い切っちゃう人がいそうで怖い。
ナチスの映画がこうやってそれなりにはっきりと罪として映画になるのも、ドイツの国家自体が戦争の総括をきちんとしているからともいえるかもしれない。日本は首相が侵略かどうかは私が判断できることじゃないなんて言って平気な国ですからね。笑っていいともにへらへらして出演している裏で、戦争できる国づくりを進めている。
この今の政治の流れを食い止めることができなかったら、本当にこの映画のようなことがまた起こるかもしれない。ロシアもひどいが、今の日本も相当やばい状態になってきているような気がする。

永遠のゼロがどれほどクソかをあらためて実感した。

ミスト

2014年03月21日 | 好きな映画・良かった映画
ミスト [DVD]
クリエーター情報なし
ポニーキャニオン


また今週も貴重な休日が無駄に過ぎていく…
というわけで、ミストを見ちゃいました。
なんか無駄な日に展望ない映画を見てしまいました。

でも、久々に見て面白かったです。

スーパーマーケットの中に閉じ込められた人間が未知の恐怖の中でどうなるだろうというのが面白いです。
怪物とかでなくても…むしろ出ないほうが怖さが出るような気もしますが、それはそれで面白かったです。
クモ(?)のシーンはワーワー言ってないではやくにげろよ!と思いました。結果的にあの行動は死者を増やすだけになってしまったし。
そう。主人公の最後の行動も救いがない結果です。ぎりぎりまで頑張れば…なんて思ってしまいますが。人間あきらめたら終わりということですね。
あの髪の短い女の人が救いかな。あそこが、あの宗教の女の人が車に乗っていたらちょっと救われないもんね。

ただ、どういう判断が正しいのかなんて言うのは結果論でしかないわけで、あのままじっとしていれば、みんな最後は軍のトラックにそろって乗っていたかもしれないし、その逆かもしれない。正しい選択をしたから生きられるわけではないし、悪い選択をしたから生きられるわけじゃない。ただ、やっぱり、最後は理性が問われるんだろうなあ…

生き抜いも死んでも、人間として生きられるかどうか。そこが問われるわけですが。
自分があの状況でどういう選択をするか、それはその時でないと分からないですね。

なんとなく人間は極限状態では結束できないみたいな結末でしたが、それだけが結果のパターンのすべてではないとも思いました。
何とかこのスーパーマーケットでみんなで生き延びる方法をもっと話し合って考えていれば、違う結果もあったかもしれないなんて思うと。そうはいってもあれだけのスーパーなら、窓を不作手はもっとあったような気もするしね。ガムテープをもっと使えよと思っちゃいます。レジ袋もあるし、棚もいっぱいあるし。

まあ、これも結果論ですけどね。

霧の中、車を出すシーンはとても印象的です。どっちが正しかったかは別としても運命の分かれ道という感じが出てました。

最近、人間の死を考える機会が多い

2014年03月15日 | ほか
ネットで見た殺人事件の話がトラウマになったり、映画で小さいおうちを観たり、録画した「遺族」という特攻の話を観たり、知り合いが亡くなったり、戦争体験の本を読んだり、今日たまたまテレビでやっていた団地ともおまでもが、死をあつかっていたり。昨日のテレビでも人を喰う映画の特集なんていうのをやっていたり。

いろいろあって死を考える機会が多かったけれど、多かったと思うのは、自分が、その殺人事件の話をきっかけに、人の死に対してとても神経質になっているせいなんだろうと思います。よくよく考えると、テレビや映画で人がいっぱい死んでいるのに、そのことに対して、無感覚でいられたんですね。戦争での死の話だって無感覚。一つ一つ簡単に描かれている「死」が、そんな簡単に済ましてはいけないものであることもわかるんだけど、そこがマヒしちゃってます。

でも、一つ一つの死にいちいち傷ついていたら、人間は生きることをやめるしかなくなっちゃう気もします。人間は良くも悪くも、人の死を忘れることができる、無感覚でいられる、良く言えば乗り越えられる生き物なのでしょう。人がうまれた数だけ死があるんですからね。

この間、暗闇が怖かったけれど、これは本能的に死の危険性が高いことを察知していて、その感覚が研ぎ澄まされていたからなのかも。でも、それも日常の中で、また薄れていく。そうでなければずっとおびえて暮らすことになってしまう。

それでまた思いめぐらせてしまうのは、3.11です。
家族、知人、友人が目の前で死んでいくわけです。
それを体験した人が、そう簡単に忘れたり、無感覚になったり出来るのだろうかと。自分が体験していないその身近な死は人間の心の深いところで大きな傷をつけて、毎日おびえている人、何かの拍子にその感覚がふっとよみがえったり、そんな絶望感に支配されてはいないかと思うわけです。「遺族」の特攻の話でも、あの当時を生きている人にとっては戦争による死は直接的にその人を切りつけ、深い傷を負わせたからこそ、どんな保守的な人でも、「戦争をしてはいけない」と心から思えるのでしょう。これは理屈ではなく、心の叫びのようなものとして戦争は駄目であると、反射的に感じるのでしょう。

最近は人の死をえげつなく映像化したり、これでもかというぐらいの残酷なシチュエーションを与えたりしてますが、それは、実は、死を身近にとらえられない現代人だからつくれるものなのではないかと思えてきました。ニュースで誰かが殺されても、マヒしてしまってそれをなんとも思わなくなっている。それは現代病かもしれませんね。

3.11のあとに、自分が一時期、映画を観れなくなったのは、現実をみてしまったから。現実の前に空想はここまで無力なのかとも思ったけれど、あの時は現実に向き合わざるを得なかったわけです。知り合いを失っていない自分でさえそうなったわけだから、当事者にしてみたら…。

…というわけですが、それでも人間は生きることをやめるわけにはいかないので、人の死を乗り越え、つながりが薄い人のことはどんどん記憶から消えていき…、でも、無感覚にはなってはいけないなんてことを考えました。

…今まで見た映画の中で、何人ぐらい人は死んでいるのかな。

…仕事中に何を書いているのやら。




ココ・マッカリーナの机 (集英社文庫)/中島京子

2014年03月13日 | 
ココ・マッカリーナの机 (集英社文庫)
クリエーター情報なし
集英社



政治の世界だけを観てるとなんて横柄な国と思ってしまうけれど、これもアメリカの姿です。人間的な温かみを感じます。日本語なまりの英語を「でも私たちはキョウコの英語が好きよ」というくだりはすごく心に残ります。あと、広島の話も良かったです。

ほんわかしていて、とても気持ちがあたたまる。ココ・マッカリーナという愛称にすべてが集約されている気がしました。

人と人とのつながりを邪魔してるのは案外政治だったりします。
政治が人と人とのつながりをもっと大切にできれば、自然といい世界になるんじゃないですかね。
あたりまえといえば当たり前の話だけど、その当たり前のことをできなくさせているのが現状です。
中国や韓国との関係も同じことが言えると思います。

あ、こんなこと考えちゃって本の内容と全くかけ離れちゃってますが、そんな政治抜きで気楽に面白く読めました。 

今年やっと4冊目です。


アルガルベカップの決勝を見た

2014年03月13日 | スポーツ
アルガルベと聞くと、ゲルドルバを思い出します。

いやあ・・・ドイツの人でかい。体つきが違います。そんなんでよく体を張って戦いを挑みますね。
結果はやられちゃったなあ。。。という内容だったけど、まあ、仕方がないですよね。ここまで来たのもすごいことです。
やはり若い人がどんどん出てこないと。体力的にもつらいだろうし。

アナウンサーはなんかいやな感じでした。いうことも嫌だし、声質も嫌でした。無理してしゃべらなきゃと思わなくてもいいのにね。
あと、話してるのに割り込んでくるレポーターも嫌です。


遺族

2014年03月11日 | 男はつらいよ・山田洋次
1961年に制作された幻の(?)テレビドラマ。友達が録画して持ってきてくれました。
戦争の記憶がまだ残されている時代の作品で、自分が考えている「戦後」のような過去の話でなく、この時代を生きているほとんどの人が戦争の時代を体験している中での話です。その戦争を体験しているという空気は今では絶対に表現できない。
ドラマ自体は、特攻で亡くなった人の日記を遺族にわたす約束を15年たって果たそうとするが、その家族は、その人を忘れずにずっと生きていて、日記を渡したことでまたその気持ちが強くなってしまったという・・・はたして日記を渡したのはよかったことなのかどうか・・・なんていう感じの話なんですが。

最初と最後にインタビューがあるのが面白いです。
若者や自衛隊員、自民党や社会党のひと、特攻隊員だった人、その遺族。いろんなインタビューがあって、それぞれがそれぞれの思いで今を生きています。
そのインタビューでも国のために命を懸けて死んでいった人たちがいたからこそ今の日本があるという感じの言葉が出てきますが、今それを言っている人たちとの言葉の意味とは違う気がしました。やっぱり戦争の記憶がまだ生々しい時代の人たちの体験から出されたその言葉には、戦争の傷の深さが感じられます。戦争を体験している人とそうでない人では「戦争」の意味が違うんですね。

日常を取り戻しているかに見える61年当時の日本。でも、その時にも深い傷を負った人が社会の中心だったことが良くわかります。
いま、危ない主張が横行しているのもそういう体験者が少なくなっていて歴史から学ぶことができなくなっていることもあるのでしょうね。
同時に反戦を訴える人たちも、正当化する人たちに対して歴史の真実をもっと学んで対抗していかなければならないのはもちろんですが、戦争は人が死ぬこと、人が死ぬことを数字的にとらえるとか、悲惨さをネタにするということではなくて、人間一人ひとりの「死」として、心の中に刻まなければいけないと思いました。
戦争があればおのずと深い傷が刻まれるわけだけど、平和の中でそれを感じるというのは、やっぱり意識的に学ぶということでしか補えないのだけれど。

前にネットが怖いという話をしましたが、そこで見てしまった殺人事件のようなことが一番行われているのが戦争ですもんね。一人一人に人生が強制的につぶされるのが戦争で、正しいとか正しくないとか、それ以前に、「自分の意思とは関係なく強制的に人が殺しあう行為」だということをもっと深く感じなければならない気がします。

薄っぺらな反戦論者のままではいたくないです。

ネットは怖い

2014年03月08日 | ほか
水曜の夜中に休みにどっか行こうかなとおもってネットでだらだら見てたら、ある殺人事件の話を見てしまって・・・
なんかすごくそれが頭にこびりついて、トイレに行くのもなんか怖くなって…こんな状態は子供の時にエレファントマンの映画を見て以来だったので、本当に精神が壊れるんじゃないかと心配しました。翌朝も出るのはため息ばかり。亡くなった人の顔写真がいまだに焼き付いています。

何とか今は立ち直りつつありますが、ちょっとした興味でそういうところに流れて行ってしまうと、非常に危険なことがよくわかりました。人間って、そんなに強いもんじゃないですね。

こんなこと書いているとまた闇に引きずり込まれる…

そろそろ寝ないとね。


小さいおうち (文春文庫) / 中島 京子

2014年03月01日 | 
小さいおうち (文春文庫)
中島 京子
文藝春秋


映画を見て原作が気になって読んでみました。
最後の、イタクラショージに二人がどう映っていたのか・・・というところにびっくりしました。映画では全く感じなかった視点でした。映画を見た後でいろいろ考えていたときは、タキさんが手紙を届けなかったのは板倉さんを好きだったからかもしれないなあ…ぐらいに思っていたけれども、もっと違う視点があったんですねえ…でも真実は、タキさんの死とともに結局わからないわけですけど。


三人の関係で、三人がそれぞれ二人をどう見ていたのか、とても気になってしまいます。
タキさんの残した手記と、板倉さんの絵だけが頼りです。でも、タキさんの手記は真実を書いているとは断言できないし、板倉さんの絵は抽象的でわかるわけがない。このミステリーは、人間だれもが持っている秘密。ミステリーです。そして、それはそのままでいいものです。
なら、タキさんがあえてそれを書こうと思ったのはなぜ?

映画が、以外にも忠実につくられているのにも驚きました。山田洋次さんらしさと思っていたものは実はすでにこの作品の中にそれがあったし、逆にここまでわざとらしいセリフをはかせるか?と思ったところも、この小説にあるものでした。

映画を見てから読んだ本なので、タキさんはあのタキさんで、時子さんはこの時子さんでした。映画を見ているので、物語のイメージもすんなり入ってきてとても面白く読めました。映画に入っていないエピソードもあって、さらに深みが増しました。もう一度映画を見てみたくなりました。逆に残念なのは、映画の助けを借りてこの本を読んだだけであって、この本を最初に読んでいたら、この本をちゃんと読めたのか、または、読んだ後に映画を見たら映画はどんな印象になったのか、それがわからないことです。それが最大の謎です。

戦争に向かって行くときの国内の状況、国民の意識というものは、時とともに移り変わっていくもので、気が付いたら取り返しのつかないところまで行ってしまうんですね。だから、歴史に学ばなければいけないわけですが、今の政治の流れの中で、戦争に向かう危険性を感じつつも、まさかそんなことにはならないだろうと思っている自分もいたけれども、そう思っているうちに気が付いたら、巻き込まれているというのが戦争なのでしょう。

もう一つびっくりしたのが、この作者さんのことです。この作品で初めて知ったんですけど、最初は山田洋次さんと同い年かもうちょっと年配の人かと思っていました。(すいません・・・)映画を見たせいもあって、小説に対する安心感が前提であったので、これは体験者の話だと思い込んでいたのです。そしたら1964年生まれと書いてあってびっくり!!!(ほんとすいません・・・
最終章ではなんか今まで物語とガラッと変わった感じがして実はテキトーに読んでしまいましたが(マジですいません・・・)、そこの文章だけなら1964年というのもわかります。しかし、本当に1964年生まれの人がその「時代」を書けるのでしょうか。
今では比較するのも申し訳ないくそ作品の永遠のなんたらいう小説を読んでいた時は調べたことを調べたようにのせているなあ…と思ったけれど、この本では、そういう調べてるなあ…ということはちっとも感じませんでした。なんか、本当に実体験を書いているものと思っていました。この「時代」の空気を表現できる1964年生まれっていったい何なの?まさか別の人が…さむらご…(すごくすいません!!いろんな意味ですいません。)

というわけで、著者の心の中にある真実を知りたいものです。(物語の結末のです)