唐茄子はカボチャ

映画と音楽と・・・

デューン砂の惑星 (4)

2014年11月13日 | 
デューン砂の惑星 (4) (ハヤカワ文庫 SF (94))
フランク・ハーバート
早川書房
14

映画が上映された時から2度3度と挑戦して、初めて4巻読み通しました。
しかし、映画の助けがなかったら、想像することもできなかったと思います。ほんと、映画に当てはめてるだけで理解しているようなイメージを作っている状況。読んでいる中身は理解できていないような感じでした。

唐突に子どもができたり、死んだり。物語の展開もなかなかに唐突に大きな転換を迎えてその流れが全然見えないような感じです。余計なところでいろいろ難しい会話をしていて。その会話の内容も正直理解できない。自分にはレベル高すぎですね。

エイリアがまわりから怖がられてて結構かわいそうな子だったり、ポール自身がハルコンネンの血筋であるというショッキングな事実もあったり、面白いところもありました。ガーニーがお母さんを殺そうとするところはなんか泣けてきたし。あそこの部分は一番理解できた内容でした。最後の結末の政略結婚みたいなのも驚きでした。

それと、さみしいのは、親子の会話に、とても冷たいものを感じてしまうところです。特に4巻はそうです。クイサッツハデラッハになるということはすべてを超越した人間なのかもしれないけれど、あんなに母親を下に見なくてもいいのにという感じがしちゃいます。僕をこんな風に育ててなんてひどい母親だ!しかも、僕はあなたを超えたのに、まだそれがわからないのか!って感じで。

このポールさん、もっと先の「ジハード」のこととか、自分の死のこととか、そんなことも頭をよぎってましたが、未来がみえるということは必ずしもいいことじゃないなと思ってしまいます。

時間を超越した存在になるって、頭がおかしくなりますね。だって、いつが現在かわからなくなりそう。その現在の人たちから見ても、その超越した人は頭がおかしいとしか見えないかも。先を読むというのは根拠があってさみを読むわけだけど、先が見えるというのは、ただ先が見えただけですもんね。そこに後から根拠がくっついてくる。こっちのほうが矛盾が出てくる可能性をはらんでいます。だから、未来が見える人は、見えることはあまり口に出して言えなくなってしまうような気がしました。

そんなこんなで、この先は映画では描かれていない物語です。読むのも大変そうなので、ちょっと躊躇しています。