唐茄子はカボチャ

映画と音楽と・・・

寿限無

2008年11月05日 | 落語
寿限無、寿限無
五劫の擦り切れ
海砂利水魚の
水行末 雲来末 風来末
食う寝る処に住む処
やぶら小路の藪柑子
パイポパイポ パイポのシューリンガン
シューリンガンのグーリンダイ
グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの
長久命の長助


寿限無
限り無い長寿のこと。

五劫の擦り切れ
ごこうのすりきれず、とも。
天女が時折泉で水浴びをする際、その泉の岩の表面が微かに擦り減り、それを繰り返して無くなってしまうまでが『一劫』とされ、その期間はおよそ40億年。それが5回擦り切れる、つまり永久に近いほど長い時間のこと。

海砂利水魚
海の砂利や水の魚のように数限りないたとえ。

水行末雲来末風来末
水・雲・風の来し方行く末には果てがないことのたとえ。

食う寝る処に住む処
衣食住の食・住より。これらに困らずに生きて行ける事を祈ったもの。

やぶら小路の藪柑子
やぶらこうじのぶらこうじ、とも。「やぶらこうじ」とは藪柑子(やぶこうじ)で生命力豊かな縁起物の木の名称。「ぶらこうじ」はやぶこうじがぶらぶらなり下がる様か(?)

シューリンガン、グーリンダイ、ポンポコピー、ポンポコナー
唐土のパイポ王国の歴代の王様の名前でいずれも長生きしたという架空の話から。グーリンダイはシューリンガンのお妃様で、あとの2名が子供達という説も。

長久命
文字通り長く久しい命。

長助
長く助けるの意味合いを持つ。

瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ

2008年11月05日 | 落語
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
◎ 瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(詞花229)[百]

【通釈】瀬の流れが速いので、岩に塞がれている急流がその岩に当たって割れるように、たとえあなたと別れても、水の流れが下流で再び行き合うように、将来はきっと逢おうと思っているのだ。

【語釈】◇瀬をはやみ 瀬の流れが速いので。《われて》に懸かる。◇滝川の 「滝川」は滝のごとき奔流。「の」は《のように》といった意味の使い方。◇われてもすゑに 急流が岩に当たって割れるように、別れても、水がいずれ下流で再び行き合うように、将来は。

【補記】第三句「滝川の」までは「われて」を導く序詞であるが、情念のこもった暗喩ともなっている。障害に打ち当たって破局に至る、といった悲恋の経過を読みとることが可能だが、恋歌と呼ぶにはいささか詞が激しすぎはしないか。若くして宮廷の内紛に翻弄され、政争の犧牲として譲位せざるを得なかった院の無念と、なお将来に賭ける執念をこの歌に読み取るのは、決して牽強付会とは言えまい。

【補記2】久安百首では「ゆきなやみ岩にせかるる谷川のわれても末にあはむとぞ思ふ」とある。詞花集における改変を、香川景樹は撰者藤原顕輔によるとしたが、安東次男は撰集の宣を下した院自身による改作であろうという(『百首通見』)。

【本歌】武烈天皇「日本書紀」
大太刀を垂れ佩き立ちて抜かずとも末は足しても遇はむとぞ思ふ


【参考歌】読人不知「後撰集」
せきもあへず涙の河の瀬をはやみかからむ物と思ひやはせし

【他出】久安百首、後葉集、古来風躰抄、定家八代抄、詠歌大概、八代集秀逸、定家十体(ひとふしある様)、時代不同歌合、歌林良材

【主な派生歌】
瀬をはやみ岩きる浪のよとともに玉ちるばかりくだけてぞふる(藤原定家)
春のゆくみ吉野川の瀬をはやみせくもかひなき花のいは波(後鳥羽院)
めぐりあはむ雲のはつかにみか月のわれても末に影へだつなよ(三条西実隆)