唐茄子はカボチャ

映画と音楽と・・・

テレビドラマ版「男はつらいよ

2008年09月15日 | 男はつらいよ・山田洋次
テレビドラマ版「男はつらいよ」

松竹

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テレビ版の男はつらいよを観ました。
第1話と最終話が収録されていて、その間を写真と解説で補ってくれているので、つながりを持ちながら最終話もみることができました。

先生のうなぎの話なんかは映画でもやっていたので、なんとなくイメージもつかめたし。

最終回の縁側での冬子さんとの会話が切なくて・・・泣けました。冬子さんが寅さんをじっと見るんですよ。そして一言・・・「ごめんなさい・・・」。寅さんの柔らかい口調がすごく哀愁を漂わせて、いいシーンです。

寅さんがハブにかまれて死ぬシーンは、源ちゃん・・・ゆうじろうさんだかなんだか・・・が、さくらの家に着いたときに真っ先に死んだ報告をしなくちゃいけないだろうに・・・物語でひっぱっていくというところがちょっと納得いかないけれど、それはともかく、その話をきいたあともさくらさんは、お兄ちゃんはまだ生きている!と思っているわけです。寅さんの死を受け入れられなくて・・・その辺の演技がいいです。そして、夜中・・・眠れずに布団からおきてボーっとしていると、お兄ちゃんが帰ってきた!!やっぱり生きていた!!・・・と思ったら幻で・・・追いかけても追いかけても、お兄ちゃんにあえなくて・・・そのときのさくらが寅さんを追いかけている姿は子どものときの記憶でもあるのかもしれません。そして、さくらは、そこでやっと、お兄ちゃんの死を受け入れました。博さんの胸の中で号泣するさくらさんに涙・・・涙・・・です。

第1話のときの喫茶店のシーンは、2人の会話がよく聞こえませんでした。音楽がうるさくて。
第1話のいいところは、仲間をとら屋に引き入れて宴会をしていた寅さんにさくらが「出てって!」とおこるんですけど、そのあと出て行って、翌日かえってきて、また旅に出るってところでさくらが「ごめんなさい」というところが泣けます。

テレビ版もいい話でした。

death magnetic / metallica

2008年09月15日 | 音楽
デス・マグネティック

UNIVERSAL INTERNATIONAL(P)(M)

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一曲目を聞いたときに「ああ!メタリカっぽい!」と思いました。っていうか、メタリカなんですけど。
いきなり「・・・AND・・・」のオープニング曲の感じで・・・
ああ・・・この人たち、やっぱりメタルバンドなんだなあ・・・なんてあらためて思っちゃいましたーっあ。
新しいアルバムを出すたびに新しい挑戦をするのも大事ですが、そのためにバンドの色とか、ファンが求めているバンド像からかけ離れちゃう人たちもいますが・・・この人たちのかえってくるところはやっぱりここなんだなと・・・思いましたーんざ。

そう思ったのは、アルバムの解説を読んじゃったというのもあるかも知れませんがーぃや!

このアルバムはできれば歌なしでききたいーにゃ!
特にゆっくりな曲はそうおもうーてぃゃ!
いや、やっぱり速い曲もです。

ギターの音を聞いているだけで興奮してきます。
東京に出てきたころ。20年前に戻されます。
上京したときにメタリカンで・・・アンド・・・を買ったのがメタリカとの出会いだったもんで・・・

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その後何度かききましたが、前に思っていたほどは昔の感じと思わなくなりました。展開が美しくないというか・・・荒々しいといったほうがいいのかな?乗せていく感じでなく、ぶつ切りな感じがしました。

それがわるいということでなく、なかなかなじまないだけです。
もうちょっときいていくと、また印象も変わるかも知れません。

ランボー―怒りの脱出

2008年09月15日 | 
ランボー―怒りの脱出 (ハヤカワ文庫 NV (385)) (ハヤカワ文庫 NV (385)) (ハヤカワ文庫 NV (385))
デイヴィッド・マレル
早川書房

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映画ランボー怒りの脱出の小説です。
映画ランボーと、その原作の小説は、お話はまったくの別物・・・というと言いすぎかな?・・小説ではランボーは死んじゃいますし、トラウトマンとの関係も、顔も見たことがないグリーンベレーの養成所の校長ということで関係はすごく希薄で・・・ランボーとティーズルの心の葛藤なんかも描かれていたり、・・・そうそう。ティーズルのことが結構ランボーと同じくらい前面に描かれていて、主人公はランボーとティーズルって感じだし・・・そういう点で映画とはまったく違う世界を感じることができました。
とはいっても、ランボーの映画を何度も見ているので、思い浮かぶ映像は映画のキャストの顔ぶれで、風景も映画の風景でしたが・・・

それで、この2作目につながるのですが、小説ではランボーもティーズルも死んでいるので当然続編はできません。ジェームスキャメロンの映画の脚本を元に原作者デイヴィドマレルさんがあらためて執筆したものだということです。
ということで、映画のランボーの続編ということになるわけですね。

だから、小説のランボーを読んだあとに続いてこの小説を読むと、なんとなく違和感があります。ランボーが生きているというのはまあ、生きてるのが前提じゃなきゃ話がすすまないのでそれはいいとして、トラウトマンとの関係が小説を引きずっているとものすごい違和感があります。前の小説では顔も知らない、自分をこんな殺人機械に仕立て上げた男・・・という「仲間」でなくて、敵・・・とまではいかないけれど、ランボーを助けてくれる人ではなかった感じだったので、そのイメージのままこの小説を読むと、いつの間にこんな近しい関係に?という感じになってしまって・・・

ランボーの性格も、なんとなく変わった気がします。
小説では結構自分から暴れまわって、多くの人を殺してるけど、映画では、やむにやまれず追い詰められてちょっとした過ちで一人人を殺してしまったけれど・・・って感じですもんね。その辺も、どっちのランボーに合わせていいのか、戸惑うときがあります。

さて、また読みすすめながら、書き足していきたいと思います。

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それで3分の2ほど読みすすめました。

映画の流れと同じように進んでいますが、小説ならではのところもあります。

ひとつは、「禅」がでてくるところ。ランボーの宗教観とでも言いますか・・・1作目の小説ではかなり「無神論者」であることが強調されて、それでも、たまに「神よ!」みたいに時々その信じていない神にすがると言うか、思わずそれが脳裏をかすめるというかたちででてきますが、今回の小説では、ランボーは「禅」を取り入れていることが書かれています。

ただし、これは、心のよりどころとか、宗教として「禅」を取り入れているということではなくて、生き延びる手段として「禅」を取り入れることが最も合理的ということででています。

「禅」というものがどういうものなのか、自分自身よく知りませんが、無の境地にすることで、難局を乗り切るということですね。このお話では、目の前の事実を否定していくと言うか、痛いと思うから痛いんだ・・・みたいな、観念的に思い込むことで無になっていくという、主観的観念論の立場とイコールになっています。

無になる(無心になる)ということが、現実の否定とつながっているわけですが、「禅」の立場がそういうものなのかはよくわからないのでなんともいえません。自分としてはそこのところは違和感を感じました。

それはそれとして、その無の境地に立つことを難局を乗り越える手段にしているランボーには好感を持ちます。

あと、弓矢とランボーの関係がここでは描かれていて・・・インディアンの血が流れているランボーが云々・・・弓をひく力というのは、実際の力のあるなしではなく、なんたらかんたら・・・正確ではないけれど、もっと精神的なものというか、太極拳的というか・・・「禅」と結び付けてもいましたが、力でひっぱろうとか、目で的にあてようとか、そういう余計な力がぬけたときにうまくいくというか・・・・まあ・・・読んでください。そういう精神的なところだけでなく、弓の構造とか・・ランボーの使っているナイフの説明とかもあります。普通はすすをつけて光沢を消すんだそうですが、このナイフは最初っから光沢がないようにコーティングしてアリアンス。アリアンスって・・・「あります」の間違いです。

あと、戦場では女のことを考えなくなるとか、・・・でもオナニーは時たまするとか。

そして、今回読んだ最後の方では、ランボーがつかまったときに、ヘドロに体を沈めさせられちゃうシーンが出てきますが、そこの描写がまた・・・あのコウモリとか甲虫のシーンを思い出させますが、かなりきつい描写ですが、そこで、その坑道での体験が回想ででてくるのです。作者は、ここは小説のランボーとつなげているわけです。

そう。確かに、コーとのやり取りをみていると、映画の暗いランボーではなく、小説の、口も達者なランボーである感じがします。そこで、やっぱり、このランボーは、小説の続編という要素が濃くなってきます。そうなってくると、トラウトマンとの関係が矛盾してくるわけですけれども・・・

まあ、完結させてしまった小説の続編を書く・・・死んだ人間を生き返らせて話を書くという最大の矛盾があるので、そういった矛盾は避けられないわけだけれども・・・作者の思い入れは、やっぱり映画のランボーでなくて、小説のランボーだろうから・・・それは仕方がないことです。

コーはランボーに結婚を迫ります。ランボーもそれを受け入れます。アメリカに行くための手段でもあるわけですが、明らかにそこには、2人の心の結びつきがあるわけです。

つかまったランボーを助けに行くコーの心の中は、私の男を助けなければ!という強い気持ちがあります。

さあ、コーが助けに向かいました。

―つづく―

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コ―は映画と同様死んでしまいます。
コーの存在はランボーにとって大きかったみたいです。何しろ、ずっと失っていた女性に対する感情を呼び覚ましてくれたのですから。だから、コーの死はランボーにとって大きな転機になります。

ベトナム戦争だって、今回の戦いだって、自分の意志で戦ったわけじゃない。でも、コーの死によって、自分の意思として、相手を殺そうと決意するわけですね。
積極的に怒りの矛先をベトナム兵にぶつけていきます。ぶつけるということは殺すということです。恐ろしいことをするもんだと思いますが・・・そうなっちゃったもんは仕方がない。

ベトナム戦争のときにランボーが脱走したおかげでこんな山奥に居続けなければならなかったテイさん、マードックとトラウトマンのやり取りなど、絡みながらいよいよ最終版に突入します。

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そしてランボーは殺します。殺します。殺して殺して殺します。
ヘドロにぶっこんじゃうところ想像すると「うげぇ」ですね。時間がたてばヘドロの仲間入りだろうけど・・・ヘドロは、どんな人間でも受け入れてくれます。人間が受け入れないだけです。あー気持ち悪い。

ランボーはどこへ行くのでしょうか・・・・

おしまい


駅伝

2008年09月15日 | ありがたいお言葉
(1)「駅伝競走」の略。
(2)律令制における駅制と伝馬(てんま)の制。うまやづたい。
(3)中国で秦漢時代からある交通制度。都を中心とした幹線道路あるいは水路に等間隔に駅を設けて駅馬・駅船を置き、官吏の往来、公文書の伝達などを速やかにした。


えきせい 【駅制】
陸上交通制度の一。唐の制度にならって大化の改新に始まり、大宝令に至って制度的に確立。都と各国の国府を結ぶ幹線道路に三〇里(約16キロメートル)ごとに駅を置き、各駅に駅馬を備えて緊急の官用通信にあて、また別に、諸国の郡家(ぐんけ)に伝馬(てんま)を置いて通常の官用通信にあてた。駅戸の負担過重などにより、律令体制の崩壊とともに衰えた。駅伝。

てんま 0【伝馬】
(1)逓送用の馬。律令制では、各郡におき官吏の公用に供した。平安時代以降、制度は乱れたが、江戸幕府はこれを整備し、主要幹線路の宿駅ごとに一定数、常備させて公用にあてた。
(2)「伝馬船」の略。

てんま-ちょう【伝馬町】
(1)江戸開府の際、伝馬を業とする人々が集住した、現在の東京都中央区日本橋付近の町名。大伝馬町・小伝馬町に分かれる。のちに江戸を代表する問屋街となった。また、小伝馬町には幕府の牢屋敷が置かれた。
(2)牢屋の異称。

88(エイティーエイト)ミニッツ

2008年09月15日 | 映画 あ行
88(エイティーエイト)ミニッツ

Nikkatsu =dvd=

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かなりドキドキハラハラの展開です。

連続殺人犯の死刑が執行される日。世論は冤罪ではないかとの見方もあり・・・
死刑執行の決定的な証言をしたアルパチーノに「あと88分後にお前を殺す」と脅迫の電話。冤罪だけならいいけど、逆に殺人犯に仕立て上げられちゃいそうになったり・・・

犯人は・・・獄中にいる死刑囚なのか・・・別の人が犯人なのか・・・妹を殺された腹いせに誰かを犯人に仕立て上げたいだけなのかもしれない・・・という疑いも出てきて・・・でも、教授には、はっきりした確信というか、彼が犯人であるというのは予想とか想像ではなく「事実」としての認識だったんですね。88分の意味にはそれが隠されていました。犯人の挑戦だったわけです。

いろんな人が登場して誰が誰やらって感じもありながらですが、誰が誰やらわからなくても、アルパチーノを軸に展開されていくので気にせず楽しめました。

・・・楽しめるというのもあれかな?人が生きたまま切り刻まれていく・・・という殺し方ですから、観ていてつらいですが・・・いや、視覚的に見せるわけではないので目をそらしたくなるというわけではないですけど、その拷問を受ける時の声とか、表情を映したところとか観たりすると、どうしても想像しちゃいますからね。

最後の最後、別に知恵を張り巡らせてどんでん返しということではありませんでしたが、この状況をどう解決するのか。見所です。

アルパチーノがかっこいい。
女の子もいいです。