一昨日あたりから天気は下り坂、昨日、今日は雨模様のお天気でした。
気温もGWの頃に比べたらぐっと低くなって、寒さが苦手な私は、再び暖房のお世話になっています。
日曜日は暑くもなく寒くもなく、ちょうどいいお散歩日よりでした。
毎年恒例となっている本多蔵品館主催の「城下町武家地めぐり」が行われ、参加してきました。
今年は石引町界隈の散策。講師は北陸大の長谷川先生です。
兼六園の南東方向に、石引通りがまっすぐに伸びています。金沢城の石垣は、市内東部の戸室山から採掘された石を使用していますが、その石を切り出して運んだとされるのがこの石引通り。
長谷川先生がおっしゃるには、金沢城の一部の石垣の石は、石引通りを曳いて運んだかもしれないが、全部が全部そうだったわけではなかったのではないか、とのこと。浅野川沿いから小高い小立野の台地の上に巨大な石を上げて運ぶのは、およそ合理的ではない、ということです。確かに考えてみれば・・・
石引通りを通って運んだ石もあったのでしょうが、多くは浅野川を下って運んでいったのかもしれません。
石引通りに出る前に、成巽閣で、今と昔の壁の違いの説明をしていただきました。
写真の左側が、藩政期の壁。角の右側が、新たに修復した壁です。
左側は少し黒ずんではいますが、右の壁に見えるような亀裂は一箇所も入っていません。もう少し遠くまで写すとわかりやすかったのですが、修復した屋根のラインが微妙にゆがんでいたりもします。
昔と今の技術の違い、なのだそうです。精巧なようでいて、現在の技術はかつての技術に及ばない部分もあるのだということ。たかが壁一枚ですが、なかなか侮れません。
石引町界隈は、かつては上級武士の家中町(下屋敷)があったり、中級武士の屋敷があったりしたところ。現在では、この界隈には武家屋敷は残っていません。ですが、町割りや道路はかつてのものをそのまま踏襲している場所が多く、藩政期の地図を見ながらの散策で、この通りは地図のこの道にあたる、とか、だれそれの屋敷はあの建物から、このあたりまであった、とか聞くと、ふとかつての町並みがまぼろしとなって目の前に現れてくるような錯覚にとらわれます。
狭い路地の向こうから、ふと、大小を腰に帯びたお侍が歩いてでもきそうな・・・
うちの近所にも流れている辰巳用水ですが、写真は紫錦台中学校前の辰巳用水です。取水口から約10キロの道のりを、金沢城に向かって流れています。兼六園の水辺の潤いも、この用水の水によるもの。
石引通りは、まっすぐな通りですが、その先にあるのは3代藩主前田利常の正室珠姫(天徳院)の菩提寺である天徳院です。石を曳くための道路というよりは、天徳院へ詣でるための参道であったわけです。
その天徳院へ参詣するのに、馬の乗った人々は、↓ここで下馬しなければなりません。(下馬地蔵)
散策はここで折り返し。スタート地点へ戻ります。
来るときは、城から向かって左手の町並みを散策しましたが、帰りは右手の町並みを通って。こちら側は結構お寺が多く、ちょっとした寺町の趣です。
お寺の一つ棟岳寺にて、ひとまず解散。
棟岳寺は曹洞宗のお寺。境内は広々としていて、そこに墓地がなければ、お寺とはちょっとわからないようなお寺です。
加賀藩は幕末、水戸の天狗党に比較的好意的で、預けられた彼らを厚遇しました。
そして、彼らの助命を嘆願しましたが、結局全員処刑されてしまいます。
写真は、棟岳寺にある、天狗党と幕府の間を周旋した永原(赤座)甚七郎の墓(左)と、水府義勇塚(右)。墓所の周りは、ちょうどつつじの花が花盛りで、歴史の闇に消えていった人々を弔っているかのようでした。
蔵品館に車を止めていたので、蔵品館まで戻る道すがら、当館の関係者でもいらっしゃるH氏としばしの歴史のお話などを。H氏が現在調べていらっしゃることの話などを聞き、短い時間でしたが、これもまた有意義な時でした。