華語り

心に華を!!

寄り道~謙信ロードを通って

2009-05-18 23:35:19 | 道々之記

今日は昨日とは打って変わって、雲ひとつないすっきりとした青空が広がりました。

夫の家で適当に家事を終え、昼から仕事があるので家路に着く。
来た時と同じ、R359、個人的に「謙信ロード」と呼んでいる道路を通って。
この道は信号も少なく、砺波の街中を若干通りはするのですが、概ね山の中を走るので、ことに晴れた日はとても気持ちのよいドライブが楽しめます。
私がこの道を「謙信ロード」と呼ぶ所以は、前にも書いたことがありますが、この道沿いに、謙信関係のゆかりの場所が点在するからなのです。

今日は天気も上々、ちょっと寄り道をして帰ることにしました。

先ず訪れたのは、砺波市芹谷の千光寺。富山から金沢に向けて走っていると、左手に大きく「千光寺」と書かれた看板がいやでも眼に入ってきます。

このお寺の存在を知ったのは、数年前、新湊の歴史博物館で行なわれていた企画展でのこと。謙信が寄進したと伝えられる刀が展示されていて、その所蔵が砺波市の千光寺とあったことによります。以来、「千光寺」の名前は頭の中にインプットされ続け、たまたまR359を通った時に、このお寺を発見したのでした。以来、何度か横目に見ながら素通りを続け、今日思い立って訪れることにしたのです。

広い駐車場には、私のほかに1台車があるばかり。車を降りた瞬間、時間を忘れてしまいそうな、のどやかな空間に包まれました。

千光寺は真言宗のお寺で、創建は703年といわれ、北陸最古の寺院です。
このあたりは、戦国時代、一向宗との争いなど戦渦激しく、千光寺もすべての堂宇を兵火で焼失したそうです。その後、秀吉が再建に尽力し、藩政期には加賀藩の祈願所となり、現在に至っているそうです。

山門に続く階段を昇る。それほど長い階段ではありませんが、屹立した杉木立の中を歩いていると、「褻(け)」の世界とは別の空間に迷い込んでしまったような錯覚に陥ります。「恐い」というのではない「畏怖」の念とでも言ったらいいのか、大地に、木々に、自然に抱かれているというそんな思いがふつふつと湧き上がってきます。
これまでも同じような杉木立の中を歩いたことは何度もありました。上杉家の御廟所、戸隠の奥社に続く道・・・。静謐な感覚はそれらの場所にも確かにありましたが、こんな不思議な感覚に出会ったのは初めてです。家族といっしょだったり、周りが賑やかだったりで、本来あるべき空気が、感じ取れないでいたのかもしれません。
山門の前に来てなぜかほっとする。山門の向こうに明るい空間が見えたからでしょうか。

なんという鳥なのかわかりませんが、とてもいい声で泣いているのが聞こえます。
山門の正面には観音堂が建っています。(写真右下。上の写真は山門)
その観音堂へ昇る階段の脇に、真っ赤な石楠花が咲いていました。
境内には、原種系っぽいバラも咲いていて、(実におおらかに咲いていました。)「ブーン、ブーン」と何処からか低い音が聞こえたので見てみると、花の中に虫がもぐりこんで、蜜をむさぼっているところでした。

あの、謙信の奉納刀は、残念ながら公開していないとのこと。
同寺には、謙信の父長尾為景の位牌も現存しているそうです。

さて、次に向かったのは、頼成(らんじょう)にある為景塚。
謙信の父である長尾為景の塚です。
千光寺から少し車を走らせた先の田んぼの中にあります。
国道から存在は見えるのですが、そこまで、どうやったらたどり着くことができるのか・・・遠くからは田んぼの中の浮島のように見えるのです。
国道から横道に入ってみるのですが、どうも塚に車を横付けできるような場所はなさそう。田舎道は、ちょっと方向を間違うと、とんでもないところへ行ってしまうというのが定石なので、塚の位置を確認しながら車を走らせます。塚の近くに車を止めて、田んぼのあぜ道を通って塚に何とかたどり着くことができました。


為景は、春日山城で亡くなったというのが定説ですが、一方で、一向宗との戦いで討死した、ということも伝わっていて、(謙信のおじいさんの能景は、確かに栴檀野の戦いで落命したということですが・・・)能景の事績とどこかに混乱があるような気がしないではないですが、塚が伝わっていますので、ひとまずゆかりの場所、ということにして・・・

そういえば、千光寺のパンフレットにも、「長尾能景、為景父子もここで戦死している。」とあり、謙信が天文15年5月に千光寺を訪れ、父を供養している、ともありました。以前、新湊の歴博で見た奉納刀は、祖父能景供養のもの、と解説にあったように記憶しているのですが、持ち主によると父の供養、ということになっていて・・・
何が正しいのかしら・・・

塚の上には建っているのは供養塔ではなく、「為景塚供養」と題して俳句が彫られていました。昭和44年とありましたので、そう古い句碑ではなさそうです。

実は為景塚の近くに、能景塚もあるのです。
個人宅の敷地内にあるとかで、ちょっと確認はできませんでした。

もう少し横路をそれると、先ごろ国史跡に指定された増山城跡などもあるのですが、こちらはいずれ別の日に・・・

事の真偽はともかく、こうして現在まで史跡が残っているというのは、何かしらその土地に生きる人々の思いがあったからだと思います。黒部の景勝桜にしろ、この塚にしろ、実際の「史実」とは大きく食い違っているかもしれませんが、それを「史実でないから」と切り捨ててしまうのではなく、一つの真実として、後々まで大切にしたいものです。