華語り

心に華を!!

景虎供養

2009-05-01 00:39:50 | まつり・イベント

29日は、上杉三郎景虎の350年の年忌法要が行なわれるという情報をキャッチし、夫を誘って法要の行なわれる新潟県妙高市の勝福寺へ行ってきました。
週末の悪天候は高気圧がすっかり追い払い、朝からすっきりと晴れ渡ったドライブ日和。
一部の方々は連休が始まったからでしょうか、北陸道はいつもより交通量が多かったです。(とはいえ、順調に流れてはいましたが。)

法要は午後1時からのスタートで、12時前に現地に到着。
お寺の付近には、「上杉景虎終焉の地」と書かれた旗がいくつもはためいていました。
勝福寺は、景虎が自刃して果てた鮫ヶ尾城の麓にあるこじんまりとしたお寺です。
お寺のある付近一帯は、かつて城主の居館などがあった場所だということです。
三郎景虎の墓所は、記録には栃尾の常安寺にあるとされているようですが、実際、栃尾の常安寺にも、また、米沢の常安寺にも墓所は存在せず、鮫ヶ尾城下の勝福寺のみが唯一のゆかりの地です。
境内には景虎の供養塔、景虎の石像が静かにたたずんでいます。

某小説に端を発して、景虎さん、人気のようですが、ミラジェンヌらしきお嬢さんがたも何人も見受けられました。
私はといえば、景虎と敵対した側の景勝派ではありますが、歴史の深い闇に飲まれていった人々に対して、敬意の念を持ってこの法要に望みました。
歴史の箍がどこかで崩れていれば、あるいは景勝が景虎の立場になっていたかもしれません。滅びていった者たちを、悲劇だとか気の毒だとかで片つけてしまうことは容易ですが、その者たちがいたからこそ、景勝の政権が存在したわけで、それは御館の乱に限ったことではなく、数え切れない多くの人々の犠牲や努力の上にたって、今の世が存在していることを思わずにはいられません。
430年の時を経て法要を行なう意味を、私なりにかみ締めながら、読経の声を聞いていました。景勝派の自分が、景虎の法要に来ていることの単なる言い訳に過ぎないかもしれませんが・・・

昨今発見されたという、景虎の従者が持っていたと伝えられている景虎ゆかりの脇差の供養もあわせて行なわれました。

本堂には、例の、炭化したおにぎりも展示されていました。


 法要のあと、上越市文化財調査審議会委員長の植木宏先生による講演が行なわれました。景虎の法要は、30数年前から行なわれているそうですが、植木先生は、お寺のご住職とともに法要の開催や供養塔の建立などに尽力されたのだそうです。

講演は春日山城の縄張りと、御館の乱の終焉に関してのお話でした。
上越地方には約160の城館跡が存在するようですが、これらはすべて春日山城を守る(越後を守る)形で配置されているのだそうです。謙信がそれほどまでに守ろうとした越後という国に対して、改めて興味を抱かずにいられません。

御館の乱に関するお話では、景勝が、非常に迅速なタイミングで恩賞を与え、そのことが勝利につながったことを上野九兵衛尉という人物を取り上げて解説くださいました。間延びした某ドラマの演出とは、やはり全く違っていた「戦い」であったことを再認識しました。

このあと、脇差の解説、妙高市の職員の方の説明つきの鮫ヶ尾城登山が行なわれたようでしたが、帰宅時間が遅くなりそうだったので、植木先生の講演終了後に退出し、鮫ヶ尾城を目指しました。

総合案内所の横を通って、北登山道から登頂。
道はきれいに整備されており、スミレがそこここに咲いていました。
頂上付近には、カタクリが植えられていますが、花の時期はすでに過ぎていたのは残念です。
もちろん、彼岸花は咲いていません(笑)
20分ほどで本丸跡に到着。山頂には八重桜が枝もたわわに花をつけ、風に揺らぐ姿は実に見事で。

春日山城から鮫ヶ尾城まではおよそ10キロくらい。そう遠く離れているわけではありません。
春日山と思しき方向を望んでみましたが、ここに来た景虎も、春日山城を眺めてみたのでしょうか。
自分がかつて主に准じる立場で過ごした春日山城を、どんな思いで眺めたでしょうか。