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映画・演劇のレビュー

青年団『ソウル市民』『ソウル市民1919』

2007-10-15 22:30:06 | 演劇
 連続して2本見る。この濃密な空間には圧倒される。『ソウル市民』を見るのは2度目だが、それなのにドキドキさせられた。静かで淡々としたいつもの平田オリザの世界なのだが、それがこんなにも緊張感を抱かせる。この後どうなるのか、なんて分かっているのに、である。手品師はもう出てこなくなるなんて知ってるのに、あの手品師はどこに行ってしまったのだろう、なんて考えてしまう。

 1909年夏、日韓併合前年の朝鮮、ソウル。(当時は京城ですらなく漢城と呼ばれていたらしい)とある日本人一家の応接間を舞台に、なんでもないある日の出来事が綴られる。この場から一歩も出ることはない。いつものように定点観測で描かれる。そこから見えてくるもの。

 いつもと同じような1日の描写を通して、彼らがここでどんなふうにして生き、何を考え感じているのかが浮かび上がってくる。15人以上の登場人物が出入りして、お茶を飲む。言葉を交わす。

 リベラルなソウル在住の日本人家族の中に潜む当たり前の気持ちが、支配者階級であることの驕りを感じさせる。彼らにはなんの悪意もない。それどころかいつもニコニコして朝鮮人の女中たちとも仲良く暮らしている。

 彼らがここで過ごす日々の幸福というのは、朝鮮の人たちの犠牲の上で成り立っている。しかし、彼らはそれを何のこだわりもわだかまりもなく当然のこととして甘受している。穏やかな幸福な日常がこんなにも心揺さぶる。

 10年後を描く『ソウル市民1919』を見ると、そのへんが更に突っ込んで描かれてある。次女が日本に嫁ぎ、そこでの暮らしに耐え切れず京城に戻ってきている。日本では同じ日本人なのに貧しい人がいて、彼らの卑屈さが耐え切れなかった、なんて言う。朝鮮で暮らし、今までそういう日本人を見た事がないから、ショックだった。お嬢様育ちだから、なんて言いたいのではない。ソウルでの日本人はみんな裕福な人たちばかりで、日本人というものはそんなものだと思い生活してきた。しかし、彼女の目の届かないところには朝鮮人の犠牲があり、そんなもの彼女だって目にしてきたはずなのに、朝鮮人なら、しかたないと思うが、日本人なら驚く。無意識に朝鮮人は自分たちよりも下の階級であるとでも思ってきたのか。悪意ですらないのが怖い。

 『1919』は1作目と較べて格段に厳しいものになっている。派手な動きや、笑いを取る描写、オルガンによる歌う場面もあり、表面的には、作品としても見やすいものになっているが、それは彼らの生きる現実がよりシビアなものになっていることの裏返しでしかない。三・一独立運動の日を舞台背景に、何かが動き始めた中、いつものようになんでもない1日を過ごす篠崎家の日常が描かれる。

 一切朝鮮語が出てこなかった前作(それって実はかなり不気味だった)とは違いこの作品では、朝鮮語だけでなく、女中たちが歌うシーンまである。女中たちは、日本人に対して幾分攻撃的でもあり、平和な時代は終わりを告げていこうとしている。

 不穏な空気が篠崎家にも漂う。何かが変わっていこうとしている。その予感がしっかり描かれていく。この2本を続けて見ることで、見えてくるものは、人間にとっての「幸福な場所の記憶」というものは、いかに矛盾したものをその根底に持っているか、ということだ。ここには、何もない日々が愛おしいこととして描かれる。しかし、彼らはこの場所を自分たちの都合で奪い取った。その事実は一切語られない。永遠にこの幸福な時間が続くわけではない。これは、歴史のうねりの中での一瞬のことなのだ。それを見事に捉えた作品である。

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