
20年の歳月をかけて到達した新境地、らしい。『デッドエンドの恋人』が第1期の到達点で、これが30年目の第2期のスタートだと後書きに書かれてあったが、そんな大袈裟なことなのか、と少し驚く。膨大な量の小説を量産している彼女の30年の作家人生を振り返ると、彼女はいつも同じ小説しか書かなかったな、という感想が浮かんでくる。僕はきっとほぼすべての作品を読んできてるはずだ。でも初めて『キッチン』が一番だ。あの作品を読んだ時の感動は忘れられない。僕はこんな小説がよみたかったのだ、と思えた。愛おしい気分にさせられた。だから、この人の小説をこれからもずっと読み続けようと決心した。(少し、おおげさ)
あれからもう30年になるなんて、思いもしなかった。決意通りほぼすべての作品を読んでいる。(ほぼ、というのがミソだ。時間があれば、ちゃんと調べてみようきっと読み落としはあるはず)でも、何度もやめてもいいか、と思った。これにはついていけないな、と思う作品も多数ある。彼女の簡潔すぎる文体と語彙の少なさが鼻についてしまったことも。でも、読みやすいし、ついつい読んでしまう。そしてここに至る。
かなりの覚悟で書かれたはずのこの作品は彼女らしい小さな作品集だ。超大作ではない。250ページほどの短編連作。いや、ただの短編集だ。ただ、収められた作品群は同じ方向を向いたもので、彼女の意図は明確だ。小さな旅と、身近な人の死、傷みを抱えたままで生きていく人生の断片。お話らしいお話はほぼない。だけど、ただのエッセイのようなスケッチは彼女が今思う大事なことのすべてがつまったものだ。読んでいて、胸に沁みる。僕たちはみんな「誰か」と「こんなふうにして」生きている。そのことを愛おしく思う。
金沢、台北、ヘルシンキ、ローマ、香港、八丈島。それがこの6つの中短編の舞台だ。その順番も考えられてあるから、変えらないだろう。金沢と香港がとても短い。いちばん、さりげない。金沢はプロローグだ。当時のボーイフレンドとの旅。そして、香港は母の死。八丈島はエピローグとしての役割を担う。もちろん、ひとつのテーマの下での連作だけど、別々の主人公による、別々のお話だ。
中心となる中編の3つは海外が舞台だ。ふたつは母の死。ひとつは大切な友人の死。死がないのは、最初と最後のエピソードなのだが、そこでも死の影は濃厚だ。思えば、最初の『キッチン』からそうだった。吉本ばななはずっと死を描いてきた。変わらない日々の中で、死に向かい生きていく。でも、それは悲しいことではなく、そこには確かに喜びがある。もちろんその喜びは「死が」、ではなく「生が」、だが。